【ツアー目的】
昨年訪れた東北、今年は防災を学ぶというテーマに基づき
5年たった今、現地ではどのような防災対策が計画されているか、どのように復興していくのかを重点に学んできました。
【日程】
2016年4月9日(土)~2016年4月11日(月)
【参加メンバー】
メンバー
・デザイナー デザインで復興支援を目指すWEBデザイナー。
・ワーキングママ 地域の小さなボランティアに頻繁に参加するおせっかいママ
1日目(4月9日)
新花巻で駅でレンタカーを借りいざイーハトーヴの旅へ!
まずはナビを頼りに宮沢賢治記念館へ向かい急な坂道を上り駐車場に着くと、まず目に飛び込んだのが三角屋根がかわいい山猫軒。
店の前の看板には
「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮(えんりょ)はありません」
これはあの注文の多い料理店に出てくる山猫軒の看板そのものではありませんか。
このレストランに入ったらどんな目に合うのか?とワクワクしてきました!
しかし、まずは本命の宮沢賢治記念館を見てから
ということで記念館に入ると様々なスクリーンに宮沢賢治の作品や研究資料など宮沢賢治の世界をが広がっていました。
子供のころ童話などでなれ親しんだ詩人、童話作家としての宮沢賢治はほんの一面で、教育や地質学者、農業技師などなど多種多様な活動に尽力した宮沢賢治。
今もなお、東北の人に「賢治先生」と愛されています。
宮沢賢治記念館では、そんな宮沢賢治の様々な研究や思想、そして東北や岩手の文化や精神性を学ぶことができました。
宮沢賢治美術館や山猫軒など堪能していると時間はあっという間に過ぎていて
遠野に着いたのは16時!もうすぐ夕方ということで怪しい妖気を感じます。
遠野駅前は人影もまばらでとおの物語の館は駆け足で巡り目的のカッパ淵へ
カッパは夕方ごろ出現するということなのでキュウリをもって捕獲を試みます。
「あの~もうすぐ閉館なんスけどね。」
と、仁王さんににらまれつつお寺の裏にあるカッパ淵に近づくと
だれかいる!カッパちゃん現る!か???
恐る恐る近づくと散歩中の近所のおじさんが『こんな夕方(17時すぎ)に来るなんてもの好きもいるもんだな』と言わんばかりの呆れ顔ですれ違っていきました。
多少の気まずさを感じつつはるばる静岡から来たのですから目的のカッパ釣りをやらないと気がすみません。
しかし、夕方のカッパ渕はカッパどころかほかの妖怪もでそうな怪しさが満載です。
キュウリのついた竿を淵に投げ込みじ~と待つこと数分。
夕闇が迫るカッパ淵はどんどん寒くなって
のんびりとカッパ釣りを楽しみましたが寒さに耐えきれずあえなく撤退。
カッパ釣りを満喫するならあたたかい日中に来たほうがよさそうです。
あっさりとあきらめ今日の宿泊地である釜石へ向かいました。
釜石に近づくとそれまで咲いてなかった桜が5分咲きぐらいになっていました。
静岡の方では桜は満開を過ぎて散ってしまっていたので、シーズンで2度桜を楽しむ事ができるなんて。
本当にいい時期にこの地を訪れることができました。
2日目(4月10日)
釜石の朝は早い…
6時頃ホテルの窓から駐車場を眺めていると、ストレッチをしている体育会系の集団を発見!
実は昨日その中の一人に聞くことができたのですが、秋田からラグビーの合宿にきていたということです。
やはりラグビーといえば釜石なのでしょう。
かつて日本選手権で7連覇し、「北の鉄人」と呼ばれた新日鉄釜石ラグビー部を引き継いだクラブチーム「釜石シーウェイブスRFC」の拠点があり、世界にも「ラグビータウン」として知られている釜石。
震災後は選手自らボランティアを行いその活動が世界のラグビーの関係者やファンに注目され世界中からの支援が集まり、ラグビーの力が復興の一助になったということです。
釜石は2019年のラグビーワールドカップ開催に1年前に決定しました。
おめでとうございます!
静岡も同じくラグビーワールドカップの開催地に選ばれました。
おなじラグビー開催地として頑張って盛り上げていきたいです。
オリンピック、サッカーワールドカップに次ぐ規模の世界的スポーツ大会を成功させて、復興を加速させるよう頑張りましょう。
今日のメインイベントは陸前高田で予約している語り部ツアーです。
釜石から陸前高田まで三陸自動車道で1時間ちょっとのドライブで到着。
語り部さんと待ち合わせの旧道の駅に向かう前に、バウムクーヘンで有名な『木村屋さん』でお土産を購入。
赤い屋根が目印で店内もおしゃれな洋菓子とおいしそうなパンが売っていました。
このお店の売りはなんといっても夢の樹バウム。
『奇跡の一本松』をイメージしたバウムクーヘンが人気だそうです。
陸前高田の町は整備中でほとんどナビが使えなく、また盛り土が高く積まれているため目印になるようなものが全く見えません。
グーグルマップを頼りに移動し盛り土の林を海岸線に抜けると、語り部さんとの待ち合わせ場所の旧道の駅高田松原「タピック45」に到着。
時間前にもかかわらず語り部さんが強く冷たい潮風の中、建物の外で待機していました。
まずは「タピック45」の敷地内に設置された震災時の様子や復旧・復興状況について展示した「復興まちづくり情報館」で説明を受けました。
語り部さんのわかりやすい解説で、避難時や避難後の注意点やパニック時の人間の行動や悲劇などを丁寧に説明してくれました。
情報館での説明が終わると、車で陸前高田の市街地をめぐります。
今は(2016年4月現在)近づくことができない奇跡の一本松を横目に、海岸線を南下すると旧陸前高田市立気仙中学校を望む高台に停車しました。
そこからは気仙川と高田松原海水浴場が望めます。
かつての高田松原海水浴場といえば「日本百景」にも数えられる弓形の美しいビーチで、県内外から何万人も訪れる海水浴場と7万本の松の森林浴で有名な観光名所だったそうです。
その7万もあった松林が流され海から一番遠かったのが、最後に残った奇跡の1本松だったのです。
写真の語り部さんの後ろに見えるのが陸前高田市立気仙中学校。
震災直後の津波は3階建ての校舎の最上階まで達し、体育館も含め全壊したが、迅速な避難で生徒と教職員は全員難を逃れました。
津波は校舎の後ろにあった体育館を流すほどすさまじいものだったようです。
気仙沼中学校上の高台から市街地に戻り街の東側の空き地に案内されました。
その空き地前に広がるモダンなつくりの団地。ここは陸前高田の災害住宅地の一つ、『下和田団地』です。
その空き地の向かい側には献花台と様々なお酒が並ぶ小さな祠があります。
そこはかつて震災時に命の危険を顧みず、最後の最後まで陸前高田を守ろうとした消防団のやぐら跡でした。
そこで犠牲となった消防団員はまだ小さい子供をもつ若い団員が多かったようです。
強い浜風のなかお線香を手向けると語り部さんは
「お線香をあげてくれる人なんて初めてだよ」
と嬉しそうに言ってくれました。
陸前高田の消防団の方のお話はマスコミで何度も取り上げられています。
若い団員の方が命の危険を顧みず、最後まで職務を全うされた姿には頭が上がりません。
その祠横のプレハブのお茶屋さんがその祠を守ってくれているということで、早速お話を伺いに。
『小谷園茶鋪』というお店の中には静岡茶とお茶っこにつまめるおいしそうなお菓子や趣味の良い茶器が並び、その奥には「けんか七夕」のミニサイズの山車が飾ってありました。
震災当時のお話をお伺いしながら、おいしいお茶で暖をとることができました。
店主の小谷さんは震災時の写真を見せながら震災時におこった様々なお話をされ、最後に今起きている問題について話題になりました。
陸前高田は1100億円かけて12mかさ上げしているようですが、その工事でほこりがものすごく週末以外は工事車両が多く車の運転が大変なことなど、今でも苦労は絶えないとのこと。
そして人口もどんどん減っていきかさ上げして町を新しく作っても転居した人が戻るかどうかわからない。
「この先どうなるのかねえ」「ぜんぜんわからないねえ」
と語り部さんと小谷さんは遠い目をしながらつぶやいてました。
最初の情報館でのお話と小谷園さんでのお話がはずんてしまい、あっという間に予定の1時間半を過ぎてしまいました。
最後に語り部さんは
「東北の人は辛抱強いなんてよくいわれるみたいだけど
辛抱強いんじゃなくてそうしないと生きていけなかったからね。」
と最後に語ってくれました。続いて
「黙ってこつこつやっているからねえ(復興を後回しにされちゃうんだよね)」
「ただね、失われた暮らしを取り戻したいだけなんだよね。」
とも・・・
巷では東京○リンピックなどと騒がれていますが、お金も工事関係の方も首都圏に行ってしまって復興が遅れてしまっているようです。
それなのに度重なる不祥事でさらに復興の遅れが危惧されています。
復興はオリン○ックが決定される前から始まっているので、優先順位からいうと事らが先なのですがいったいどうなっているのでしょうか。
語り部さんが最後にこんなことも言ってました。
語り部さんや陸前高田の方たちとお話ししているとみなさん気さくでお話しやすい方が多く、よく言われるのが語り部ツアーに参加して元気をもらったという方が多いとのことです。
語り部ツアーは松島の観光船以来2度目ですが、やはりマスコミが伝え漏れていることなど数多く聞くことができますのでぜひ参加することをお勧めします。
語り部さんとは待ち合わせ場所の情報館前でお別れしたのですが、その後改めて復興まちづくり情報館に展示されているパネルを眺めていると、かつての情報館周辺の写真を見つけました。
この写真の手前側が復興まちづくり情報館。そしてガソリンスタンドのセルフと書かれた赤い看板の上あたりまで津波が押し寄せたそうです。
いまではそのガソリンスタンドと情報館と朽ち果てた「タピック45」以外の建物はこの周辺に存在しません。
「タピック45」は訪れた日の河北新報の朝刊に掲載されていたのですが平成18年には建て替えが決定されたようです。
盛り土がおわり街が整備された陸前高田。ぜひそのころまでに訪れまた同じ語り部さんのお話を伺いたい、できれば「けんか七夕」の復活を願います!
語り部さんのお話から学んだ防災の心得
1 地震の揺れでパニックになり実際には考えることができないので、最悪の場合どう逃げるか様々なパターンのシミュレーションしてみる。
2 避難時はリスクを自ら負わない。すこしでも安全な避難経路を確保する。
3 自分の命は自分で守る。また、必ず生き残ると信じて逃げる。
4 津波や地震は1回で終わるものではない。避難先でしばらくは待つこと。
(せっかく避難したのに避難後すぐに家に戻って亡くなった方も多い。津波は夜中まで8回も続いた。)
次の目的地の気仙沼へ向かうべく海岸線を南下します。
気仙沼といえば東北が誇る大漁港。海鮮を食べる目的で気仙沼の復興商店街を目指します。
45号線を海岸沿いに南下し復興屋台村気仙沼横丁に入ると、恰幅の良いおかみさんに導かれ店内へ。
「漁師料理 大漁丸」さんは昼2時過ぎにもかかわらず海鮮や地酒で一杯やっているお客がいて、にぎやかな様子でした。
このお店ではずっと食べたかった『ほや』を食べる夢がかないました!
運転だったからお酒飲めなくて寂しかったのですが。
そしてこのお店のおかみさんはテレビにもよく出るとのことで、自分の出る番組のことをお店を出る時まで話してくれました。
この屋台村は今年で閉鎖されるとのことですがお店は大島で再開するとのことです。
復興屋台村気仙沼横丁を海のほうに進んでいくと気仙沼お魚市場という観光施設の奥に気仙沼市魚市場がありました。
お魚市場は観光客でにぎわっていましたが、気仙沼魚市場は日曜の午後すぎということでがらんとしていました。
市場のあたりでのぞき込んでいると、警備員さんが市場の奥のほうからやってきて
「見学?今はやっていないけど少しならいいですよ」
と、警備員さんに案内されたのは魚市場の屋上。
さすがに大きい市場だけあって巨大な市場に圧倒されました。
市場開催中の見学もOKということなので巨大漁港に次々上がる大量のお魚や漁船、威勢のいい札入れの風景などは朝7:00時ごろがねらい目だそうです。
気仙沼市場をでて、本日3か所目の目的地であるリアスアーク美術館へ。
リアスアーク美術館周辺は桜が5分くらいに咲き、川沿いの桜並木では提灯もついていてそろそろ桜祭りが開かれそうな感じです。
リアスアーク美術館では東北の暮らしや東北出身者のアート作品が展示されていますが、1F常設展示の東日本大震災の記録と津波の災害史が一番の見所です。
展示物は時系列に並べられ、震災後どのような状況だったかどのように復興への道を歩んできたのかが解説されています。
解説の要所要所に防災や避難時のアドバイスがあったので、少しピックアップします。
1 避難する際は孤立する可能性のあるビルなどは避け、人が集まりやすく2次避難のしやすい場所を選ぶこと。
2 津波から逃げる際は最低4回以上の高さのところでビルの場合は鉄筋コンクリートの建物に逃げる。
3 避難所に燃料がなかったので苦労した。これからは避難所に燃料を備蓄すること
他にも今すぐに役立つ防災についての知識がありました。
震災だけでなく防災についても学ぶなら、リアスアーク美術館は必須のスポットです。
気仙沼から今日の宿泊地へ向かい海岸線をさらに南下。南三陸町に入るころには日が傾きかける時刻になっていました。
南三陸町の中心でも盛り土がいたるところみられ、道の整備が進んでいます。盛り土を抜けると海岸線に立派な建物が見えてきました。
ようやくホテル観洋に到着です。
3日目(4月11日)
震災から5年と1か月目にあたる、4月11日の南三陸は朝から小雨がふっていました。
ネットで調べると雪が降るという天気予報も!
寒い一日を覚悟していたのですが、朝の語り部ツアーに出かける頃になると晴れてきました。
ホテルの用意した専用バスに乗り込み語り部ツアーに出発です。
平日にもかかわらず満杯のバスは、最初の目的地の戸倉地区へと向かいます。
語り部の伊藤さんのお話が被災当時の大変な苦労のお話に、乗客はため息をつきながら真剣に聞き入っていました。
戸倉小学校の前を通りかかったところでバスは空き地に停車し、戸倉小学校の震災直後の避難についてのお話になりました。
戸倉小学校は海から200mしか離れていなかったのですが、先生の的確な判断で全員無事に逃げれたとのこと。
スピーディーな判断が全員の命を救ったのです。
バスは戸倉小学校を通り過ぎ高台を目指します。
高台には建って日の浅いモダンなつくりの学校が建っていました。
そのモダンなつくりの戸倉中学校は高さ20mの高台でありながら地震発生後グラウンドで待機していたため、津波被害を受けて複数の犠牲者が出てしまいました。
戸倉中学校横には2体のモアイが海に向かって設置されています。
実は「モアイ」の意味は、イースター島のラパヌイ語で「未来に生きる」。
南三陸町の町を未来まで守り続けています。
バスは南三陸の中心部に戻り、結婚式場「高野会館」をバスの中から視察。
最上階まで津波に襲われたが、高野会館のスタッフの機転で利用客を返さず屋上に避難させたため犠牲者がなかったとのこと。
多くの命が救われた戸倉小学校と高野会館。
一方複数の犠牲がでてしまった戸倉中学校。
語り部の伊藤さんのお話によると前者の的確な判断と迅速で避難の裏には、何度も繰り返された避難訓練や、先生同士の繰り返し行われた話し合いが功を奏したとのことでした。
東南海地震のリスクがますます高まっている今、はたして年に数回の避難訓練で的確な判断ができるのか?
小さな地震に耐性がついてしまっている私たちは、防災について改めて考える必要があるかと思います。
最後にバスは防災庁舎前から少し離れた場所に停まりました。
その日は11日という月命日にもあたるためか、NHKのテレビ取材のスタッフが待ち構えていました。
NHKのTVスタッフは冥福をお祈りする乗客の姿を撮影し、乗客の一人にインタビューをしていました。
お線香を手向けご冥福を祈るとバスの中でマスコミが伝えていない、防災庁舎で最後の最後まで避難を叫び続けた遠藤さんと、その上司の三浦さんのお話をされました。
ホテルに戻ってから語り部の伊藤さんに少しお話を聞くことができました。
「私は本当は観光のお仕事がしたかったのですよ。それがね、…」
震災前の南三陸は海と山の豊かな自然に囲まれ、海鮮グルメや湾内クルーズ、キャンプ、里山体験など数々のアクティビティが楽しめる観光スポットだったようです。
街の整備が一段落して、南三陸町が被災地から観光地と再び呼ばれる日が一日でも早く来ますように。
伊藤さんの『観光の仕事がしたい』という願いが早く叶いますように。
着実に南三陸の町も復興への道を歩んでいます。
街は復興途中ですが、海鮮グルメなどのお食事や温泉、サービス素晴らしく久しぶりに本当にいい宿に巡り合えました。
また、ホテル観洋の語り部ツアーは南三陸町で唯一個人の参加できるプログラムとなっています。
語り部ツアーでなくては聞けないお話がとても勉強になります。
ホテルを後にすると海岸線を一路大川小に向かい、さらにさらに南下。
時折咲いている満開の桜に歓声を上げながら、海岸線のドライブを楽しむことができました。
ようやく大川小に到着すると、凍り付くような強風が吹き荒れていました。
2年前に訪れたときは視察の方が複数見受けられましたが、今日はほんの2-3人しか見当たりません。
すっかり人気のない大川小周辺。犠牲となった方々の名前が記載されている祭壇で手を合わせていると、祭壇横の空き地にとまった車から1組の夫婦がやってきました。
そして慰霊碑に書かれた二人の女の子の名前を呼びながら、お線香を手向けていました。
声をかけるのを躊躇していると「どちらからいらしたの?」と女性に話しかけられました。
実はその方たちはこの小学校で犠牲となった孫の月命日のお参りに来たとのこと。当時5年生と3年生でとてもかわいい時期だったとお話されました。
「私たちはここから上のほうに住んでいているんだけど、まさかこんなことになるなんて」
昔からこの大川地区に住んでいる方のようでした。
大川地区は整備が進んでいるのかいないのか、盛り土はされているもののひっそりと静まり返っています。
他の町は工事車両が目まぐるしく動き回っていたのに。
3月末に大川小学校は保存が決まりました。
モダンなつくりの小学校は以前は鳥の住処となっていましたが、寒かったせいか鳥の影すら見えないほど静まりかえていました。
冷たい強風のため早々に大川小を後にし雄勝についたのはお昼頃。
まだ春浅いためか雄勝ローズファクトリーガーデンに人気はなく、
次の目的地のおがつ店こ屋街へ向かうことに。
2年前は明らかに観光客がいたのにその日は平日のためか、客は私たちを除く1組のみと寂しい限り。復
興具合もほかの町に比べ動いている気配が感じられません。
商店街での買い物を済ませ、女川を目指します。
雄勝から女川をつなぐリアスブルーラインと呼ばれる海岸線の道は、桜並木の名所でもあります。
ほぼ満開の桜の並木道が見事で思わぬご褒美に歓声を上げながら、女川に一目散にランチにお茶っこ倶楽部のある医療センターへ。
ここには献花代があり複数のスーツ姿の視察の方らしき団体が街を眺めていました。
医療センターは高台にあり女川の街並みを見下ろすことができます。
2年前にはあった七十七銀行女川支店のビルはもう撤去されその跡地さえどこであるか確認することが難しくなっています。
医療センターを後にし、女川駅前に向かうとそれまで訪れた三陸のほかの町で見たことがないほどおしゃれな街並みが広がっていました。
駐車場に車を止めると小走りにセラミカ工房さんへ。
まるで海外のリゾートにあるショップのように、おしゃれな佇まいのセラミカ工房さんのショップ。
色鮮やかなタイルが鮮やかに商品棚を彩り、商品の種類も増えていました。
この日もセラミカ工房の代表者である阿部さんは仙台へ出張だとのことでお会いできなかったのですが、スタッフの方といろいろお話することができました。
セラミカ工房の方にこの駅前プロムナードの商店街『シーパルピア女川』についてお話してくれました。
「このシーパルピア女川は女川駅と海をつないでいて、元旦に駅から海を見ると初日の出が拝めるのですよ。」
なかなかこった演出をしています。
お正月女川に来たらぜひ初日の出は女川駅から眺めてください!
女川港から上る素晴らしい初日の出が拝めます。
どこかのリゾートのショッピングモールのようなおしゃれな『シーパルピア女川』は人口流出防止の目的もあるということで、三陸の新しい観光名所になることが期待されます。
また、駅前にはゆぽっぽという温泉施設があり、たった500円で女川温泉が楽しめる癒し空間となっています。
今回特に悔やまれるのがこのゆぽっぽにゆっくりつかる時間がなかったこと!
温泉前のお土産やの床暖房と美しい白木の建物だけでも十分癒されましたが本当に残念!
次回こそはゆぽっぽでゆっくりあったまって商店街でお買い物三昧♪
女川と石巻をつなぐ石巻線の駅舎です。
次回はぜひ石巻線で沿線の風景を楽しみたいです。
『石巻線に乗って女川へ行こう♪温泉入って海ご飯食べておちゃっこして♪』
なんてどこかJRのコマーシャルみたいなフレーズが頭をよぎりました。
女川駅を覗いていると空から白いものが…
雪です!名残雪なのでしょうか。しかも大量の雪が降ってきました。
雪を見ることがめったにない温暖な土地生まれですから、雪道のドライブはまったくしたことがありません!
急いで車に乗り最終目的地の『がんばろう!石巻』の看板へ向かいました。
『がんばろう!石巻』の看板につくとすでに3時を回っていて、なにやら作業着を着た方たちがお話しているのが見えました。
2年前に訪れた時にはなかった「つなぐ館」が人の気配が。
平日は開いていないと聞いていたのに…
中に入ると複数のメディアが取材に来ていて看板の発起人の黒澤さんを囲んでいました。
実は4月11日のその日は『がんばろう!石巻』の看板は看板が設置された5年目にも当たる日で、しかも周辺道路の整備のために元の場所から100m南に移設されていたのです。
インタビューに応える黒澤さんを横目に、看板設置チームの一人の方にお話をお伺いすることができました。
宮城県も静岡と同じく地震のメッカで1978年に宮城県沖地震で震度5強、1994年に三陸はるか沖地震で震度3等たびたび地震がおこっていて、静岡県以上に避難訓練が行われていたということです。
この地震が昼間おこったので、避難訓練を迅速に行った人だけが助かったとも言っていました。
設置直後の『がんばろう!石巻』の看板
2代目看板の門出を祝って爽やかな芳香をはなつ黄水仙が看板を鮮やかに彩ります。
設置当時の『がんばろう!石巻』の看板です。
震災から1ヶ月目に発起人の黒澤さんの自宅に看板が設置されました。
看板を設置された方と最後にこんな話になりました。
「最近浜松の沿岸で深海の地震があって、静岡は揺れなくてなぜか埼玉が揺れたんですよ」
「あ~そいう妙な揺れやばいんですよね。そろそろじゃないんですか?」
私がやっぱりかあと苦笑いしていると
「そっちで起こったらすぐに助けに行きますよ」
とさわやか(?)に言ってくれました。
本当に頼りにしてますよ!お願いしますね!
お互い地震の多い地区の育ち。これからも助け合っていきましょう。
そのためにはがんばっている石巻をもっともっと応援しなくてはなりません。
旅の終わりに最終目的地の日和山に登ってみました。
2年前の東北応援ツアーのスタート地点です。
前回は市役所裏手を車で駐車場まで登りましたが、今回は門脇側から階段を使って頂上を目指します。
が、この階段の急なこと!足が弱い方はかなりきびしい!
途中斜めに登れる緩やかな階段でゆっくりと上ると頂上に到着。
そこで待っていたのは先ほどのNHKの取材班で、日和山から見下ろす門脇地区の風景を撮影していました。
階段を登り切ると先ほど渡った日和大橋が遠くに見えます。
桜の名所として名高い日和山。
2年前訪れたGW頃は八重桜がきれいでした。
5月中旬からツツジが見頃を迎えるようです。
2年前の東北応援ツアーはここが出発地点でした。
三陸の南を防災を考えながら巡る旅のゴールです。
あれから5年たちました。
女川駅前だけが驚異の復興を遂げましたが、その他三陸沿岸部はいまだ土地の整備の途中です。
町を再建してそれで復興が完了なのか?
現地の方たちが今一番必要としているのは何か?
復興の先に待っているものはなにか?
あれから5年。たった5年。
復興も次のステージに移行しなくてはならない時期なのかもしれません。
【まとめ】防災について
今回の旅で得た防災の心得をまとめてみました。
1 地震の揺れでパニックになり実際には考えることができないので、最悪の場合どう逃げるか様々なパターンのシミュレーションしてみる。
2 避難時はリスクを自ら負わない。すこしでも安全な避難経路を確保する。
3 自分の命は自分で守る。また、必ず生き残ると信じて逃げる。
4 津波や地震は1回で終わるものではない。避難先でしばらくは待つこと。
(せっかく避難したのに避難後すぐに家に戻って亡くなった方も多い。津波は夜中まで8回も続いた。)
5 避難する際は孤立する可能性のあるビルなどは避け、人が集まりやすく2次避難のしやすい場所を選ぶこと。
6 津波から逃げる際は最低4回以上の高さのところでビルの場合は鉄筋コンクリートの建物に逃げる。
7 避難所に燃料がなかったので苦労した。これからは避難所に燃料を備蓄すること
8 川周辺は津波の被害がすさまじいので避難は迅速に
9 とにかく水!水の確保を最優先に
10 5日間は自活できるように食料や燃料を備蓄しておくこと
これだけではまだまだ足りないのかと思います。
今回は地震や津波の防災がテーマでしたが、豪雨等その他の災害についての防災も考えながら自分に最適な防災計画を考えていきたいと思います。
追記
実は旅から3日後に熊本と大分で大きな地震がありました。
まさか九州で地震なんて!九州での地震なんて聞いたこともない!
と、地震発生直後驚きました。
本当に地震はいつ来るかわかりません。
まさか今日大きな地震が起こるなんて!
と思わないよう出来る限りの備えをしたいと思います。
それにしても今回の熊本地震でわかった余震の怖さ。
震度5強という大きな余震が何度も来ては、どんなに頑丈な建物でもひとたまりもないでしょう。
避難所に想定されている建物や市町村の役場など、さらに頑丈なつくりにする必要があります。
熊本地方で大地震により被災された皆様に深くお見舞い申し上げます。
大変困難な状況に陥ることを余儀なくされた多くの方くれぐれもご自愛ください。
また、被災地等で復興活動に尽力されている方々に敬意を表しますとともに、皆様の安全と1日も早い復興を心よりお祈りいたします。
最終更新: