【シリーズ・この人に聞く!第87回】新生児医療改善のため活動する小児科医 加部一彦さん

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少子化というのにかかわらずなぜ今、小児科は不足しているのでしょう?今回ご紹介する加部先生は皇室の方々も出産される東京広尾の愛育病院の小児科の先生です。低体重をはじめさまざまな問題を抱えて生まれる赤ちゃんの命を救うためにNICU(新生児特定集中治療室)を全国各地へ整備する活動にも長年取り組んでいます。小児科医という仕事を通じて何を伝えたいか。じっくりお話しを伺ってみました。

加部 一彦(かべ かずひこ)

1984年日本大学医学部卒。同年4月より済生会中央病院に小児科研修医として勤務。1986年4月、東京女子医大小児科に入局。1987年1月より東京女子医大母子総合医療センター新生児部門に助手として勤務。'89~'94国保旭中央病院新生児医療センター(千葉県旭市)を経て、'94年7月より恩賜財団母子愛育会総合母子保健センター愛育病院に勤務。'96年4月、同院新生児集中治療室開設に伴い、新生児科部長を拝命、現在に至る。 '05年3月より東京医科歯科大学大学院医歯学総合研究科医療管理政策学専攻医療管理学コース終了。'06年9月東京大学医療政策人材養成講座(第2期)終了。

 愛育病院
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 加部一彦(@kkabe)さん | Twitter
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開業医の厳格な父のもと落ち着きのない幼少期を過ごす。

――お久しぶりです。10年以上前にお仕事ご一緒したことがございましたがお変わりございませんね。今日は小児科医の中でも産まれたての新生児の専門家でいらっしゃる加部先生に、この道を選択されるまでの道のりと、ご自身の子育てについていろいろお聞かせ頂きます。まず、先生はどんな幼少期を過ごされましたか?

新生児医療フロンティアな時代、寝食忘れて働いていた。(1986年当時)

新生児医療フロンティアな時代、寝食忘れて働いていた。(1986年当時)

埼玉県鴻巣市出身なのですが、周囲はのどかな田園風景のひろがる中、町中の空き地や野原が遊び場でしたね。僕自身は小学生の頃、今で言う所の「多動児」で、落ち着きがなくてひとの話を全然聞いていないとよく言われていました。次々関心が移るので一つのことに集中していられないんですよ。じっと座っていることも苦痛でしたね(笑)。

――昔はそういう男児必ずクラスに何人かいましたよね。そういう加部先生をご両親はどんなふうに育てられたんでしょう?

父は開業医をしておりまして、いわゆる「昭和の父」で寺内貫太郎風。(※石屋職人の無口な亭主関白役を音楽家の小林亜星が当時演じてヒットしたドラマでの役柄名)「誰のおかげで飯を食えているんだ!」とよく怒鳴られました。それが嫌で嫌で仕方なかった。勉強はあまりできなかったですね…それまた、父親の怒りをかって…。

――おもしろいです。やっぱり医師の道を選ぶにはまず勉強ができないとダメですもんね。

中2のある日、数学の授業を受けている時に突然、「なぁんだ、こんな事か」って目覚めたんです。その時のことは今でもよく覚えています。それ以降は成績もあがりましたね…。高校は県立の男子校でかなり自由、でも硬派。制服廃止したのに夏のプールでは僕らの入学する前の年まで赤フン着用必須だったりね。自主ゼミも多数あっていろんな部屋に顔を出せたし、音楽、美術、書道の芸術系でクラス分けされたり…今では考えられませんね。宇宙へロケットを飛ばすのが夢でした。高2の頃、鉄道で全国各地を貧乏旅行したり、たくさん好きなことを経験しました。そんな高校時代、僕は親父とはまったく口をきかなかった。

――今も小児科医というお立場でありながらいろんなプロジェクトに参加されて自由に発言される加部先生のルーツはそこにありましたか!(笑)

高校3年間はそんなわけで毎日が楽しく過ぎていったので高校4年生、つまり大学受験のための予備校生活を駿台で過ごしました。予備校ですら受験があって、クラス分けもされるという現実を初めて知ったんですね。運よく理科系コースにギリギリ紛れ込んだという始末でした。

寝食忘れ働き続ける父の背中を見て育った3人息子。

――先生にはもう成人された3人の息子さんがいらっしゃいますが、小児科医として多忙に働き続けてこられる中でご自身の息子さんにはどんなことを大切にされてきましたか?

助かった小さな命が大人になって医師や看護師になることも。(2005年頃)

助かった小さな命が大人になって医師や看護師になることも。(2005年頃)

僕は3人の息子たちに「好きなことをしろ」と言い続けてきました。「好きな事をして食べて行ける」のが一番幸せだ、と。逆にそれがプレッシャーだったということも今になって言われますけれどね(笑)。僕は子どもに医者になってほしいなんて言ったことが無い。3人共高校まで公立校で塾へも行かず女房とは「本当にそれでいいのか?」って何度もケンカもしました。でも、自分の道は自分で見つけて、苦しくとも自分の足で歩く。僕はそれでいいんだと思います。

――中高一貫の私立校に通っていらっしゃるのかと思いちょっと意外でしたが、先生ご自身も公立で自由な青春を謳歌されてきたわけですものね。3人の息子さんで医師の道を選択された方はいらっしゃいますか?

僕の父も医者で、意外だったのは孫たちの進路について「医学部なんて行かなくていい。もうそんな時代ではない」と言ったこと。父は子どもが大嫌いだと思っていたのですが、孫のことは猫かわいがり(笑)。僕と同じように「自分の好きなことを見つけなさい」と言っていましたね。本当に興味があって勉強したい意思があるならいいし、父親が医者だからといって同じ仕事を選択することは何もない。うちの息子たちは傍で僕の勤務状態をみて、医者にだけはなるまいと思ったようです(笑)。やっと取れたせっかくの休日に家族でTDLに行くと当時ポケベルが鳴って病院へ戻らざるを得ない…。妻には1週間口をきいてもらえないこともあったし、ウチの子ども達が順番に発熱しているのに自宅に帰れなくて、電話口で「どこかにいい小児科医いないの!」と怒鳴られたこともありました。

――小児科医不足で大変な勤務状況はわかりますが、それくらい現実は厳しかったのですね。

1ヵ月約250時間勤務で休みがほとんどない状態。モチロン、労働基準法違反です。違反なのはわかっていますが、その基準を守っていたら救えない命もある。4人のチームでやっていた頃は家に帰れませんでした。今は9人チームですがやはり労働基準法は守れない。365日24時間態勢だと交代勤務にしても各勤務帯に5~6人の医師が必要になります。日中5人で夜は1人というわけにはいかないですから。昼も夜も5~6人態勢でいくなら、人手も15~6人は必要です。でも今の診療規模でそれだけの人数の医師はを雇えない。それでも昔に比べれば倍以上の医師がいるのに、今の若い医師は「労働基準法違反だ」と脅されています(笑)。まぁ、それを嘆いても仕方ないので、時代に沿って働き方を変えていくしかないですね。『Quality of Lifeは大切といわれますが、Quality of My Lifeも大切だ!』なんて若い医師に言われたこともあります。僕はそんなこと、考えたこともなかったですけどね。

――医師には企業人のような勤務時間の事例はあてはめられないのかもしれませんね。人の命と関わる仕事は重いです。

労基法を守るならば、交代勤務制にしないと成り立ちません。ただ、交代勤務ですと同じ病棟に勤務していても、全員で顔を合わせることが難しいなど、医師間のコミュニケーションはドライになりがちだし、主治医制も取れず共同主治医、あるいはグループ診療になりますから。50歳になって夜勤をやめてだいぶ楽になりました。肉体的より精神的な解放感が大きいです。24~5年は深夜の電話はコールなしですぐ出て相手に驚かれましたからね。今は電話が鳴っても気づかずにぐっすり眠れるようになりました。新生児医療のフロンティアな時代。80年~90年前半にかけてエビデンスも何もない頃で寝食を忘れて病院に詰めていました。昭和61年に「人工肺サーファクタント製剤」という、早産で生まれる赤ちゃんの呼吸機能を改善する画期的な薬が開発され、これをきっかけに格段に新生児医療が進歩しました。今、当時助かった本当に小さく生まれた子どもたちが大人になって、中には医師や看護師になったりする子もいます。

赤ちゃんでさえ意思をもって選択する。

――過酷な小児科医現場を何十年も経てこられた加部先生は、どんな言葉をこれから親になる人たちへ贈りたいですか?

忙しいからこそ休みを取って父子二人旅を…と推奨。

忙しいからこそ休みを取って父子二人旅を…と推奨。

大田区の妊婦さん向け講演をかれこれ7年くらいやっていて、僕の子育て失敗談なんかをお話ししています。今は情報が溢れていて何とか婆ちゃんの言っている育児が正しい…と誰かを信奉する傾向があります。でもそれは違う。子育てには名人や鉄人なんかいませんよ。もしどうしても何かに頼りたくなったら、一度、自分の子どもの頃のこと、自分と親の関係を振り返ってみてほしい。僕の場合は父が「誰に食わしてもらっているんだ!」とよく子どもの頃、怒鳴られました。それは絶対に自分はしないようにしようと決めて反面教師になった。親子関係を振り返ると継承したいことや、止めたいことがいろいろ出てくるもの。そこは無視できません。

――なるほど。親子関係ってどの家庭も似て非なるものですもんね。今、小さな子どもを育てている親にも何かメッセージを頂けますか?

親は子どもをほんとうに小さな頃から知っているから、なかなか子どもが別の人間とは思えず、ついつい自分の意見や理想を押しつけちゃう。子どもって「自分とは別の人格」だと自覚する。親はそういう認識をどこかでしないとならない。時には冷めた目で見るというのも大事。子どものために線路を引き続けることはできても、それが本当に子ども達のためなのか。馬を水飲み場まで連れて行くことはできても、馬に水を飲ませることはできないんですよ。

――アハハ。すごくわかりやすい例です!馬だって喉が渇いていなければ水は飲みませんものね。

そう、これは赤ちゃんでも同じです。例えば、ハイハイしない赤ちゃんがいます。うつぶせが嫌いな赤ちゃんはハイハイしたがりません。うつぶせになるとすぐに仰向けになってしまう。少し成長すると座ったままで移動をするようになってハイハイを無理にさせようとしても座ってしまう。こういう子もいるのです。子どもだって本当に小さいときからこのくらい意思をもって生きているんですよ。子どもが選んでいるのに、親が自分の期待をかぶせて子どもを見てしまう。そこを調節してあげないと、かえって子どもの伸びる目を摘んだり、捻じ曲げてしまうことがあるのではと思います。導くことも大切ですけれど、それは線路を引くことではない。子どもを育てるというのは簡単なことではありませんね。

――親子バトルする思春期になると、また悩みは別の形になります。加部先生はどうやってその時期、息子さんたちと付き合ってこられました?

子どもが葛藤している時、親も葛藤している。その付き合い方もすごく大切。ウチでも息子3人それぞれ思春期があって、個人的には情けないヤツなんて思うこともありました。でも彼らは紆余曲折ありながら、それを乗り越えた。長男が小学校を卒業した春休みに、妻の発案で二人で旅に出かけました。ものすごく忙しい時期だったので、3日間も休みをとってまでして何で長男と旅行に行かねばならないのか、と妻と大もめにもめましたが、結局、押し切られて(笑)、全部子どもに旅の計画をたてさせて行ったんです。どこ行きたい?と聞くと、広島の原爆ドーム、奈良の大仏と修学旅行のようなコースを親子二人で過ごしました。でもね、それまでなかなか向き合う時間がなかったので、その3日間は本当におもしろかった。改めて、「この子はこういうことを考えているんだ」とわかった。帰宅すると妻が飛びだしてきて、「どうだった?」と聞くんですよ。それを僕は、開口一番、「あいつは他人だな」と答えたそうです(笑)。その後、次男、三男ともそれぞれと同じように父子二人旅をしましたが同じものを見ても感想も違って三人三様。つくづく子どもは親の物ではないし、親が子どもの線路を敷き続けることはできないと実感しました。僕は今、父と子の二人旅をいろんな人に推奨しています。

編集後記

――ありがとうございました!小児科医としてご多忙な中、いくつもの活動に積極的に取り組まれていらして体が何個あっても足りないのでは?と心配です。男児3人育てあげてきたお父さんは、たくさんの経験を超えて真実を衝く言葉をもっていらっしゃるな~と感じています。今度トークライブでこういうお話しをたくさんのお母さんお父さんにナマで聞いてもらえたらなー!と思い企画します。それはそうと加部先生は何か特別に赤ちゃんが懐くオーラでもあるのかもしれません。「子どもとよく目が合う」とお話しされていました。実はそれ、私もなんですが…。子どもが好きな特別な臭いでもあるのかな?(笑)

取材・文/マザール あべみちこ

活動インフォメーション

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