【復興支援ツアー2015】《リポート》防災のこころをもう一度確かめる旅 by iRyota25

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1日目(1月9日)

新幹線で一関へ、一関からは大船渡線で気仙沼へ。1日目のアテンドをお願いしたHさんと合流。陸前高田の知り合いたちがソウルフードだと言う「みつわ飯店」さんで遅めの昼食。

みつわ飯店さんは陸前高田の町の真ん中にあった中華料理店。美味しいのはもとより、ヴォリュームと「早さ」でも人気の店だったと以前から聞いていた。高台の農道沿いに仮設店舗がオープンした時には、町のファンたちが大勢集まって、「味も量も昔のままなのが嬉しかった」と口々に再開をお祝いしたという。

前々から行こう行こうと思っていたのだが、たまたま閉店ということが重なって、数年間の念願が叶っての初・みつわ飯店となった。

注文したのは、明日の虎舞の祭り組代表Sさん一押しの「かつカレー」。よそでは体験できない美食体験は、こちらのリンクでどうぞ。

 陸前高田の地元で人気の中華料理店「みつわ飯店」
potaru.com

昨年初体験した虎舞の前夜には、前祝いの宴があったので内心ちょっと期待していたのだが、今年はとにかく人が集まらないということで、前夜祭はお流れに。夕食はてるてるさんで海鮮丼をいただいて、明日に備えることに。この日の宿泊は、陸前高田の山あいの湯治場、鈴木旅館。熱いいで湯の宿。宿泊客の多くが工事関係者ということと関係あるのかどうなのか、飾り気のない(そっけないともいう)対応が印象的な宿だった。

2日目(1月10日)

市役所近くの高台まで上って行った虎舞
市役所近くの高台まで上って行った虎舞

いよいよ早くも前半のクライマックス、虎舞だ。津波の後に再建された公民館に集合する。懐かしい顔がたくさん並ぶ。去年の夏の七夕以来の人も多い。しかし、人数がどうも少ない感じ。誰と誰が虎舞を舞うのだろう???

祭り組のまとめ役の女性Yさんが、「男の虎は、Sさん、Kさん、あとはIさん(自分のことだ!)ってことね。でも女の虎を舞う中学生たちが2人しかいないじゃない」と幹部の輪の中で言ってるのが耳に入る。自分がお世話になっている地域の虎舞は3人一組で舞う。虎舞は超肉体労働でもあるから、通常(といっても自分が経験したのは昨年だけだが)は、舞い手が交代しながら、それでも汗だくだった。ところが、今年は交代要員がいない。その上、中学生たち主体のちょっと小さめの女の虎は、2人で舞うという。

本心を言うと、3人必要な虎舞を3人で舞うメンバーにしっかりフィクスされているのは心外だった。「だって無理でしょ」と思っていた。しかし、これはもう覚悟を決めるしかない。中学生たちが2人で舞い続けるというのに、大人の自分が尻込みなんてできないだろう。

舞いを終えた後の感想。とにかくしんどかった。終わった後も数時間も手が震えていた。虎舞の後の直会で先輩方にビールを注ぐのが恥ずかしいくらい、ずっと腕の震えが収まらなかった。

でも、舞いの最中には、辛さよりも面白さの方が際立った。公民館の向かい側にある仮設商店街栃ヶ沢ベースのお菓子屋さん、木村屋さんの若旦那、洋平さんに数年ぶりに会えたのもうれしかった。甘酒をお振る舞いしてくれた岩井さんと久しぶりに話せたのもよかった。今年の虎舞で特筆すべきは木村屋さんだ。

木村屋さんは丘の上、市役所や消防署の近くに、新しい本店を昨年オープンした。だから、「後からでいいですから、ぜひ、坂の上のお店で舞ってほしい」とお願いされたのだ。楽器や装備を軽トラックに積んで回る祭り組ならまだしも、我々の町はリヤカー引き。役場までの坂道を上れるか、との不安がなかったわけではないが、そこは「やっぺし」の精神だ。自動車でさえ息を切らすような急坂を上って舞わせていただいた。

せっかくここまで来たのだからと、役場近くのコンビニや、新設されたばかりのコミュニティセンターでも舞わせてもらう。舞えば「お花」(ご祝儀)がもらえるのだから、急坂の苦しみも、汗だくの舞いも苦にならない。新しく生まれ変わって行く陸前高田の行政の中心地を踏んだ虎舞は、我々の祭り組が初めてだったのは間違いない。

舞った回数など覚えていない。後でビデオを見せてもらうと、自分が担当したところだけ、虎の背丈が高いのが恥ずかしくてたまらなかったのだが、それでも何とか舞わせてもらった。

舞いながら、移動しながら、そして舞いが終わった後の直会で聞かせてもらえた話は、地元の人たち同士だからこそのものだった。ビジターの私がいる中で、地元同士の話を飛び交わせ続けてくれたありがたさを、いま改めて噛み締めている。

3日目(1月11日)

報告が前後してしまったが、実は今回の旅程で、初日のレンタカーが押さえられずにいた。現地まで行って、レンタカー屋さんで交渉すれば、キャンセル分、あるいは軽トラでもなんでも足りない1日分くらい何とかなるだろうと思っていた。(これまでもそれで何とかなっていた)

しかし今回は1週間の長旅。ぎりぎりまで連絡を取り続けたが、どうも状況が芳しくないので、現地にいる遠い親戚のHさんに、最悪の場合迎えに来てもらえないかとお願いしたのが出発の前日。そしたらHさん、迎えに来てくれるのみならず、その期間使わない車を貸してあげようかと申し出てくれたのだ。「レンタカー代を浮かせた分、東北でいっぱい飲み食いすればいい」とのお言葉。ありがたかった。

そんな訳で、初日はHさんに迎えに来てもらい、昼食・夕食を一緒に食べて鈴木旅館まで送ってもらい、2日目の虎舞の日は、虎舞の仲間に送り迎えしてもらい、まったくもって地元の方々にはたいへんお世話になった。

そして3日目からはHさんに貸してもらった軽自動車で東北地方の沿岸域を巡ることになった。

前日の筋肉痛や倦怠感は残るものの、陸前高田の町中を見て回る。南三陸町と同様に、高く高くかさ上げされた土地の上に付け替えの道路が走っている。町の景色は年末に訪れた時とも少し変わっているように思える。うっかりしていると、夏の七夕で山車の上から見た景色がどこだったのか分からなくなるほどの変わりようだった。

どうしても打ち解けてもらうことができず、廃墟としか言いようのない町をひとりで歩き回っていたのはほんの2年か3年前。自分にとって語る相手が物しかなかった頃、見つめて来たものはもうかさ上げされた地面の下に埋もれている。その代わりに、少しずつ知り合いが増え、とても良くしてくれる人たちとも知り合えた時間の流れもまた、このかさ上げがどんどん大きくなって行った時間と重なっている。

陸前高田の町はどんどん変わっていっているが、変わりゆく過程も含めて、自分にとっても大切な場所だと思う。もちろん、この町にずっと暮らしてきた人たちの思いに近づくことなどできないと分かっている。それでも、自分なりの時間をこの町とともに経験し続けていきたいと思う。

この日の宿は南三陸町のホテル観洋だ。1時間半くらいの行程だから、陸前高田を出た後は、気仙沼の町をできるだけ回っておきたかった。しかし、気仙沼の町中は、どこもかしこも工事の真っ最中。ただでさえ細い上に大型ダンプが行き交う仮設道路では、路肩にクルマを停めてちょっと撮影なんてこともままならない。

震災直後の風景が残っているのではないかと思えるような小さな路地や、ちょっと離れたコンビニの駐車場にクルマを置かせてもらい、工事現場やすでに入居が進んでいる災害公営住宅を見て回る。

ここに来て急に、はっきり目に見える形(つまりは建物)での復興が進んでいるように感じる。しかし、災害公営住宅の仕上げ工事が進められているとなりの区画では、いまだに道路や上下水道などのインフラ工事が最盛期で、さらにそのお隣では土地の造成やかさ上げ工事も行われている。

とにかく目まぐるしい印象が強い。しかし、この土地でずっと暮らしている人たちにとってはどうなんだろうと思ってみる。町の光景は大規模な開発工事が全国規模で目白押しだった昭和40年代を彷彿させるものがある。やがてここに美しい町ができることを信じる人にとっては、土ぼこりにまみれた今日の現実は、輝かしい明日のために耐えて当然の景色なのかもしれない。

災害公営住宅として建設された建物はどれも美しい。だが、本当にそれだけでいいのか。これから気仙沼で会うことになる人たちにも詳しく聞いてみたいと思った。

気仙沼、そして道中の南三陸町歌津や志津川で時間を喰ってしまったので、ホテル観洋にチェックインしたのは日没後だった。でも今日は11日、この日のうちに、夜の大川小学校の写真を撮りたい。だから、一番早い回の夕食を予約し、食後すぐに大川小学校に向かうことにした。

さすがホテル観洋。夕食は海の幸のオンパレードだった。どうしてこんなにアワビがたくさん出せるんだろうと不思議になるほど。ホタテも地物の鮭も、ウニの茶碗蒸しも美味しかった。ただ、食後に往復1時間半のドライブが控えているため、夕食時にお酒をいただけなかったことが悔やまれた。

大川小学校のイルミネーションは、点灯消灯が自動制御されているのだが、タイマーだったか日没後何時間点灯という設定だったのかうろ覚えだったので、とにかく点灯されている時間に間に合うようにと夜道を急いだ。結果的にイルミネーションが点灯されている時間には間に合ったのだが、大川小学校がはるかに望めるあたりから、イルミネーションの光だけではない、色とりどりの光がほのかに光って見えたのが不思議で、しかしとても美しかった。

4日目(1月12日)

是非参加したかったホテル観洋の語り部バスツアーに参加。案内人の「伊藤部長」の言葉は、その時の現実を経験された方の言葉だけに、すべてが胸に響くものだった。

ツアー終了後、ホテルをチェックアウトし、ツアーで回った場所の中で、自分が余り知らなかった所を中心におさらい的に再度回ってみた。ホテルの語り部バスツアーは、冬期ということで防災総合庁舎以外はバスから降りることなく車中から周辺の状況を見るという形だったが、どうしても自分の足で歩き回ってみたっかたのが、南三陸町南部の戸倉中学校。高台にありながら、かつ避難場所として設定されていながら多くの犠牲者を出すことになったこの場所の記憶を忘れてはならないと強く思った。

戸倉中学校からは、ひたすら南下して大川小学校、雄勝の町を経由して女川町を目指す。

目指した先の女川町では、新しい駅前商店街で石巻日日新聞社社長の近江さん、ダンボルギーニの今野さん、ダイビングショップの高橋さん、そして観光協会のYさんらと町の今と未来についての話を聞かせてもらった。すごいオフレコの話ばかりたくさん聞かせてもらって、どうしたらいいのかと悩ましいことしきり。とにかく女川は、周辺の石巻地域までを含めて、「起爆剤」としての役割を果たしつつあるらしいことがビシビシ伝わってきた。

明らかに、女川は復興のひとつのモデルとして、周辺の地域にさまざまな刺激を与える存在になっている。適切ではないかもしれないが、駅前周辺に限れば、いま女川は輝いている。この輝きがどのような形で周辺地域に広がっていくか。女川、そして石巻地域の課題のひとつであることは間違いない。

この日は石巻まで移動しておいしいご飯を食べて、、、との目論見があったのだが、石巻の友人たちはイベントやお祭りの準備期間とのことで忙しく、さらに猛烈な寒波に見舞われた日でもあったので、とてもじゃないが夜の町を出歩こうという気持ちにはなれず、石巻エリアの地元スーパー「うじえ」で地元の食材を買い込んで、懐かしい宿、村田屋旅館へ転がり込んだのであった。

 南三陸の防災庁舎2016年
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 ホテル観洋の窓辺の椅子から見える風景
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5日目(1月13日)

村田屋旅館は石巻駅の南東、徒歩7分ほどの場所にある古くからの旅館。震災当時は北と南から津波の濁流が迫って来たというが、なぜか両三軒向こうあたりで津波が届かなかったという場所なのだとか。震災から2年後くらいか、初めて村田屋さんに泊まったとき、宿の奥さんはそんな話を何度も繰り返して話してくれたのだけど、いまはそんな話をすることはめっきり減った。

最近では、朝食としては皿数も豊富で、お腹いっぱいになっちゃうよって感じの朝食をいただきながら、テレビニュースや朝ドラをご一緒させてもらいつつ、何とももうごく普通の会話をさせていただいている。

おたく、九州だって言ってましたよね。この山芋はね、四国の土佐の常連さんが昨日送って来てくれたの。色白で、手の平みたいな形のお芋でね、ご存知かしら、粘りがもうすごいの。

たしかにとっても美味しい山芋だった。でも、四国と九州を一緒にされてもなぁなどとちょっとだけ思いつつ、覚えてもらえていたことが嬉しくて、ほんと、山芋の話何てとるに足らない話題なのかもしれないけど、この宿を大好きだと思って産物を送ってくるくらいのファンがいることや、こちらの出身地を覚えてもらったこととか、いろんなことがないまぜになると、

「うちはね、北と南から津波が来たけど、奇跡的に数軒先で止まったのよ」という話が、別の意味合いをもって輝いてくる。

そんな旅荘を知り得た奇跡を感じさえする。

さて、この日の行程もかなりハードである。石巻周辺の知り合いにできるだけ会って、今現在の状況についてお話を伺う。心の中で予定していた若者数人から、夜じゃダメ? との知らせがあった。夜には気仙沼にいなければならないから無理である。ごめんと伝えると、こちらこそ申し訳ない。次回は是非と返事が来る。

もともと予定を入れていた大御所的な人もいるから大丈夫、と思ったら行政とのミーティングが急に入っていつ終わるか分からないとの連絡が時差攻撃で入ってくる。

参った。でもこれは復興に向けての動きがようやく加速され始めたことの証、と納得しようと北上川の写真を撮っていたら、「役場は帰ったから、いつでもいいよ」と連絡をもらう。

ただ、この日聞いた話のほぼ全てがオフレコだった。土地の施設をどうするかとか、利益分配とか、利益じゃなくて責任の分配とか、解決までに時間がかかりそうな問題がたくさんある。

仮設商店街の運用期限を今年の秋まで延ばすことはできたものの、その先の見通しは「ない」とする商店が大半だ。それでも再開を目指す。行政の方針だから仕方がないという意識ではない。自分たちで新しい町をつくらなければ、都会の資本や行政の力で、「誰も住まない町」が再生産しかねない。それを止めなければ。

敬愛する先輩は「ぜったいオフレコだかんね」と言いつつ、そんな言葉を語ってくれた。

5日目の予定はまだまだ続く。なにせ、気仙沼に実家がある大学教授のKさん宅にお呼ばれする予定だったからだ。しかし、気仙沼に向かう途中でどうしてもやっておきたいことがあった。それは、女川中学の生徒たちが、千年後の人たちに津波の危険と避難を呼びかけるために建立した石碑をできるだけたくさん実地に見ておきたい、ということだ。

女川の観光協会が作成したパンフレットには、半年ほど前までに建てられた石碑のデータが掲載されはしている。しかし、かさ上げ工事や再開発が進められている女川周辺の地域では、過去には通路があったとか、昔は分かりやすい場所だったというエリア、つまり慰霊碑が建立された場所へのアクセスが非常に困難だったり、不可能だったりもする。

だからこそ、できるだけ「マップをつくりたい」という思いは強く、気仙沼への帰路、女川中学の生徒たちが思いの丈を注いだ慰霊碑を見て回ることにした。気仙沼に着いた時にはとうに日が暮れていた。

それでもK先生は心良く迎えてくれた。K先生の奥さんは「心配したのよ」と笑って迎えてくれた。お鍋とお酒の夜になった。

 中学生たちが建てた「女川いのちの石碑」を歩く
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6日目(1月14日)

K先生の実家は昔ながらの日本家屋で、おそらく原型が築かれたのは明治の頃ではないか。たぶん建て増しされたであろう二階の床の間付きの座敷も、様々な装飾品が時代の流れを伝えている。

キーンと寒い夜明け、トイレに立つ。まるで迷路のような廊下はほぼ書庫を兼ねている。廊下の角々で積み上げられた書籍の書名をカギに階下のトイレへの道をたどる。そんな経験がなんだかなつかしくて好ましかった。しかも、朝食時ともなると、そんな廊下の小さな窓の向こうから、朝の太陽が昇ってくるのである。

朝の散歩で先生に家のまわりを歩いて、震災のこと、そしてさらにもっと昔からの家の歴史についていっぱい話を聞かせてもらう。敷地ぎりぎりまで迫った津波。ぎりぎりで守られた歴史的な建築でもある住居。すべてをないまぜにして語る先生の言葉は、時折どう対処したらいいのか分からなくなった。

奥さん手作りの朝食を美味しくいただいて、でもその後も近所の海岸線とか、土地を貸している家々のこととか、鎌倉時代から続くという街道の両脇に、まさに街道を埋めようとしているかのような竹林のこととか、ぶらぶら歩きしていたら、早くもお昼近くになる。

今日はK教授も深く関わった南三陸町の田ノ浦地域の案内をしていただくのがメインイベントだった。その件、詳しくは別記事で紹介したい。

しかし、K教授の案内は田ノ浦地域に留まらなかった。最終的には南三陸町の歌津と志津川の境目あたりまで、いろいろと教えていただいた。さらに気仙沼方面に戻って、九州から移住して活動している大学院生のTさんや、地域の方々などを紹介してもらったりもした。

ガイド? なんて言葉が失礼に当たるほど、K教授にお世話になった。その晩もK教授の家に泊めていただき、地元の食材をふんだんに使った奥さんの美味しい料理をいただくことになった。

7日目(1月15日)

もともとの計画では、最後の活動日のはずだったのだが、K教授の饗応、そしてクルマを貸してもらったHさんのご好意に甘えて、日程を延長する。

お世話になってばかりのK教授のお宅を、早朝に退出して北へ向かう。もう一泊でも二泊でもして、もっともっとたくさんお話を伺いたいところだった。苦渋の決断だった。

とはいえ北への道は短くはない。東北の沿岸部はだいたい20〜30キロおきに大きな町がある。気仙沼、陸前高田、大船渡、ちょっと間があいて釜石、大槌、山田、宮古。道中の町々はいずれも立ち寄っていきたい場所。あちこち寄り道しているうちに大槌町ですでに夕暮れ時に。

当初予定では宮古泊だったのを、手前の山田町に変更していたのは大正解だった。三陸沿岸の町を巡って泊めてもらった宿は、船宿「海太郎」。震災前からずっと海のアトラクションの基地として、また魚料理のおいしい宿として運営されていた宿だった。もちろん晩ご飯は絶品。山田湾で獲れた大きな牡蠣のカキフライは絶品。あえてフライにするだけのことがあるとジュワジュワブシューと食べながら了解した。

 御蔵山から見た山田の町並み
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8日目(1月16日)

活動のほぼ最終日、宮古へ向かう。去年の秋にお祭りで訪ねた宮古市街のたたずまいが懐かしい。クルマを駐めて、何カ所かぶらぶら歩いたが、前回行かなかった田老のたろちゃんハウスが気にかかる。浄土ヶ浜や三王岩など、ぜひ立ち寄りたいスポットをあえてパスして、田老、そしてさらに10キロほど北の仮設商店街たろちゃんハウスへ向かった。ここにはどんこの唐揚げ丼の善助屋食堂さんや、田老の情報を写真と文章で発信し続けている津田写真店さんがある。

善助屋食堂さんがお店再建を決められたことは、今回のツアーでも指折りのうれしいニュースだった。ツアーの実質最終日とあって、気が急いてしまう。とにかく少しでもいろいろ見て行きたい。

一番のお楽しみだったどんこ唐揚げ丼をテイクアウトしてまで、田老の新しい町を見て回った。海からは離れた高台に造られつつある、ひな壇のような造成地。平坦地こそ商業の中心と数軒が進出したものの、後続がなかなか登場しない町の中心部。そしてその町で教えてもらった話。平坦地では初めて商売を再開した津田時計店さんでは1時間以上も町の様子を教えてもらった。

「田老に来るのはだいたい1年に1回、定点観測みたいな感じなんです」と津田さんに言いながら、「あっ、これ違う」という思いを押さえきれなくなった。初めて訪れたのは震災の1年半後だったが、それから何度も足を運んでいるのだから、その経験を伝えていくことは、自分自身の仕事なのだと。

被災された方だからこそ伝えられることがある。もちろんそれが最も大切なことだろう。
震災から時間を経て、その場所に入った自分たちにも、その土地が変化していくのを目の当たりにして感じるものがある。

伝えるって何だろう。何を伝えるんだろう。伝える人って何者なのだろう。

という質問になら、ある程度クリアにその人なりに応えることができるだろう。では、この問いにはどうか。

震災って何だろう。どうして私の身の上に降り掛かったの? どうしてそれを受け入れなければならないのだろう。

答えられないよね。だけど、ほとんどの人たちは笑顔でいる。付き合いが深まるのとともに、笑顔と同じくその向こうにあるものが伝わってくる。伝わってくる。だって同じ人間だから。

辛かったんだよ。生きていなければよかったって思うことだってあるんだよ。そう思っている人たちが笑顔で迎えてくれる。

「防災の心」。それは、その先に、すぐその先に見えている。

 田老名物「どんこから揚げ丼」たまにはテイクアウトで
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9日目(1月17日)

前日は大船渡温泉に宿泊し、午前中は大船渡と陸前高田を回り、Hさんに借りた車をお返しし、お礼代わりにK-portに行き、とはいえ送り迎えをお願いすることになって恐縮しながら、だけど、自分にもできることがあるとちょっと自信みたいなことも感じながら、2016年早春の東北を後にした。

費用

◎交通費 42,520円
[電車]32,520円
・三島=気仙沼往復乗車券 17,280円
・三島=一関新幹線特急券
 @7,620×2=15,240円

[ガソリン代]
・10,000円(オカモト プリカ)

◎宿泊費 41,414円
1日目 鈴木屋旅館(素泊まり)3,000円
2日目 鈴木屋旅館(素泊まり)3,000円
3日目 南三陸ホテル観洋(二食付き) 13.500円
4日目 村田屋旅館(朝食付き)7,000円
5日目・6日目(民泊)0円
7日目 船宿海太郎(二食付き) 7,744円
8日目 大船渡温泉(素泊まり)7,170円

◎食事代 6,570円
1日目 昼食(みつわ飯店)650円
1日目 夕食(てるてる小澤)1,500円
3日目 昼食(大漁丸)1,500円
5日目 昼食(金華楼)800円
7日目 昼食(道の駅やまだ) 420円
8日目 昼食(善助屋食堂) 800円
9日目 昼食(K-port) 900円

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■合計
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交通費    42,520円
宿泊費   41,414円
食費     6,570円
------------------------- 100,504円

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