東日本大震災で大きな被害を受けた女川町の中学生たちが、自分たちの手で1000年後の人々のいのちを守るために始めた「いのちの石碑プロジェクト」。津波到達点よりも高い場所での石碑建立が進められている。建立のための資金は生徒たちが自らが始めた「100円募金」を知っ後全国、海外からの支援も得て集めることができたという。「いのちの石碑」の石碑建立に力を尽くした当時の中学3年生たちが20歳になるまでに、女川町にある21の浜のすべてに石碑が建立される。
現在、9基の石碑が建立されているという。女川町観光協会の方に情報をもらい、いくつかの石碑を訪ね歩いた。
女川地域医療センター(津波記憶石)
女川地域医療センター(旧・女川町立病院)は、女川港の海岸から見上げるような高台に位置している。しかし、この場所も津波に襲われ多くの命が失われた。
いのちの石碑に先立って建立された津波記憶石の高さは2.7m。この高さが女川地域医療センターにおける津波到達高さだったとされる。石碑には次の言葉が刻まれている。
いのちの石碑プロジェクト
「津波記憶石」2011・3・11 東日本大震災
東日本大震災では
多くの人々の尊い命が失われました
地震のあとに起きた大津波によって
ふるさとは飲み込まれ
かけがえのない
たくさんの宝物が失われました
これから生まれてくる人たちに
あの悲しみ あの苦しみに
再びあわせたくない
その願いで 千年後の命を守るために
三つの合言葉を作りました
非常時に助け合うため
普段から絆を強くする
高台にまちを作り
避難路を整備する
震災の記録kを後世にのこす
今、女川町はどうなっていますか
悲しで涙を流す人が少しでも減り
笑顔があふれるまちになっていることを祈り
そして 信じています
女川中学校卒業生
「津波記憶石」いのちの石碑プロジェクト
女川地域医療センター(津波記憶石)
竹浦の神社境内
いのちの石碑の第1号は女川中学の敷地内に建立されているが、3学期が始まっていたので2号基以降のいくつかの石碑を歩いた。
2番目に建立されたのは竹浦(たけのうら)。ホヤなどの養殖がさかんな風光明媚な小さな港町だ。東北地方でしか見られない希少種の魚類や生物が見られる場所でもあり、ダイビングの拠点づくりも進められている。
石碑は造成工事が進む中、まるで島のように残された高台の神社にあった。
神社にのぼって行く急な坂道の途中に、津波到達高が記されていた。神社の建物のわずか下。あの日、襲いかかった津波の恐ろしさが伝わってくる。
石碑のB面、外国語の説明が記された銘版に、竹浦の美しい景色が映り込んでいた。
竹浦の神社境内
宮ヶ崎の神社境内
水産加工会社が立ち並ぶ宮ヶ崎地区。造成工事が盛んに行われている場所なので、今はこの石碑は見られないかもと観光協会の方は言っていたが、地元の方に教えてもらって(たまたま歩いていた電力会社の方に聞いても分からず、電力会社の方が津波を免れた家の方に聞いてくれて場所が分かった)たどり着くことができた。
神社の裏手に設置された仮設の階段をのぼって行くと、コバルトブルーの女川の海をバックにいのちの石碑が建っていた。
石碑には中学生たちがつくった句も刻まれている。宮ヶ崎の句は、「ただいまと 聞きたい声が 聞こえない」。海の美しさとのコントラストに愕然とする。
宮ヶ崎の神社境内
尾浦の保福寺境内
尾浦(おうら)の石碑の場所を探すのは少し大変だった。国道沿線には集団移転の宅地造成工事が行われ、漁港近くには仮設の水産加工場が建てられている。しかし石碑は見つからない。寒い冬の夕方で外を歩く人の姿もない。飛び込んだカキ加工場で尋ねて、さらにその方が電話で地域の人に聞いてくれてようやく場所が分かった。「かき大将の丸よ山岸水産さん、お世話になりました!」
石碑が建立されていたのは曹洞宗の保福寺というお寺の境内。敷地内には東日本大震災の犠牲者を悼む慰霊碑も建てられていた。その碑文に刻まれた名前の数に驚かされる。
尾浦の保福寺境内
鷲神浜の高台
もしかしたら今のところ、この石碑が一番多くの人の目につきやすい場所に建てられているかもしれない。石碑の場所は鷲神浜 女川町青少年勤労センター付近、きぼうの鐘商店街から女川町の中心に続くバイパスを少し下ったところだ。
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