前回に続き、震災から3カ月後に発行された「大正大震災記」(時事新報社)から、関東大震災での横浜の様子をお伝えする。
今回紹介するページは次の一文から始まっている。
震火災とも激甚であった上、善後策も手遅れの感があるので、避難者の惨話はいたるところに聞かれる。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
言葉遣いや表記の一部を現代語に改め、句読点等を補ったが、ほぼ原文のまま。震災後の横浜を、支社の記者達がおそらく足を引きずって歩きまわり、涙も出ないまでに驚愕した出来事が記されているのだと思う。
一部に、これはどうかという表現もあるが、それも含めて大正時代の大震災直後の雰囲気を写し取っているのかもしれない。
横浜地方裁判所の悲劇
横浜地方裁判所はあたかも公判日であったため、傍聴人、訴訟関係者約六十名と、末永裁判長以下百三十四名の判検事および所員がいた。
かつては税関疑獄、大野博士事件等、大小の事件の審理公判をしたあの広大な建物は、初震で大山の崩れるごとく倒壊して、全部を下敷きにした。身を以て逃れたものはほんのわずかで、末永所長等判事三名、検事八名、試補八名、書記九名、雇員四名、給仕三名、弁護士十一名、訴訟関係者傍聴人あわせて九十余名惨死を遂げ、新聞記者二名は重傷を負うて助け出されたが、一名は間もなく死んだ。死体発掘に百名の人夫が十日間を要した。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
裁判所の建物は、西洋風の立派なものだったらしい。別の資料によると煉瓦造の部分と木造の上からモルタルを塗った混交だったようで、煉瓦部分は地震で倒潰、木造部分は火災によって全焼したという。
地割れに挟まれた群衆に火焔が襲い掛かる
末吉橋は死者の数からいえば最も多い。山の手目がけて逃げてきた者が、橋際の地割れに噛まれて百余人苦悶しているところへ、後から押し寄せてその上に蔽いかぶさって倒れた。火焔は容赦なく舐めて五百人からの死屍の山を築いた。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
すし詰め状態の寺の境内で
長者町の本願寺も死者の数では劣らない。附近は関外花柳界の中心地で、軒をつき合わせた置屋や二階を張り出した料理店などが多い。初震で大部分は潰されたが、ようやく這い出した頃には、一帯が市の中心地で繁昌な地だけに火の廻りも早く、長者町の電車道には芸者風の死体が並んでいた。
辛くも逃げ得たものがまず選ぶのは本願寺である。鐘楼も本堂も潰されたが、境内が広いのと、他に逃げ場所が少ないために、すし詰めに詰め合った。肉も落ち骨を露わすまでに焼かれた死屍が、道路を入れて約五百名あった。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
避難先で生死を分けた正金銀行
正金銀行(注:横浜正金銀行、後の東京銀行、現東京三菱UFJ銀行)は、三尺も厚みのある花崗石で建てられているので、地震にはビリともしなかった。それだけ附近の人が安心して頼った。一時は七八百名の人が避難したというが、火焔に包まれて苦し紛れに再び当てもなく火の中へ走り出したものが多かった。
残ったのは約二百名。安全と思った石造りも屋根から火が燃え移って漸次に地下室まで追い込まれた。全部を密閉したが周囲が熱する。呼吸は詰まってきたが、行員の努力で湯水を呑み、または浸って、地下室全部は二日の未明表は難を避けることができた。
しかし、先に逃げ出した人々は、火に道を閉ざされて引き返した時は、内から堅く扉が下ろされてたのでドアにしがみついたまま、玄関に約三十名、左右の防火壁中に約五十名、裏庭に二十名ほどの死体が腐乱するままに十日余放ってあった。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
激震と大火災は官庁も、住宅地も繁華街も問うことなく等しく惨禍の渦に巻き込んだ。コメントの仕様がないほど、被害は甚大だ。
埠頭の惨劇といやな噂
桟橋では正午エンプレス・オブ・オーストラリア号が米国へ向け出帆の予定で、訳二百名の見送り人が別れを惜しんでいたが、何のためか解らぬ大激動とともに全部倒壊墜落して、泳ぎ上がったものは極めて稀だった。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
東日本大震災の地震発生時に、女川港の埠頭の先端にいたという人の話を思い出した。埠頭を構成する巨大なケーソンが波打つように、踊るように激動して、排水口の溝蓋がボンボンと音を立てて飛んだというのだ。彼はズレたり倒れたりしそうなケーソンの上を跳んで逃げ延びたという。
地震、という頭より先に「何これ?」としか考えられない状況。横浜の埠頭にいた人々も何が何だか解らないまま、倒潰する埠頭から海へと投げ出されたのだろう。
「何のためか解らぬ大激動とともに全部倒壊墜落して、泳ぎ上がったものは極めて稀だった」――昔風の言い回しながら、状況がリアルに浮かんでくる。
この記述に続くのは、信じられないような出来事だ。
千葉県の一婦人は、嬰児を背に辛くも本船に泳ぎつき、ロップ(注:ロープ)に伝わって甲板に上がろうとしたが、何者の仕業かロップを上から切落され、再び海中に投ぜられたが浮き上がり、桟橋の一部にすがって助かった。と水上署に訴え出た。
群馬県の巡査は船から突き落とされた。その他不快な噂が取りざたされている。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
千葉の婦人も群馬の巡査も一命を取り留めたのは何よりだ。しかし、極度の不安の中、信じられない出来事が起きる。婦人が登ろうとしたロープは、もしかしたら誰かに切られたのではなくて、重さで切れたのかもしれない。巡査も混雑する船上から押し出されたのであって、誰が故意に突き落としたのではないかもしれない。
不快な噂が被災した町のあちこちで沸き上がり、町中に広がって行くのが恐ろしい。
淡々と綴られることで、却って恐怖が増していく
横浜郵便局は古い煉瓦建てだけに、潰れるのが早いか地震が早いか解らなかったくらいだった。茶呑場から火を噴き出した。局員百三十名死んだが、局外の者も多数ある。
中央電話局は郵便局と向かい合って同様の建物だ。交換に最も忙しい正午の地震とて、逃げ出したものは休憩中のものの一部のみで、大方は煉瓦の下積となってしまった。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
ホテルのランチタイムに起きたこと
グランドホテルでは昼の食堂が開かれていて、一人残らず下敷きになった。雇人二百名中で助かった者は八名。外人ばかりの客の消息は皆目知れない。いまだに死体の発掘に手も付けられないのでいる。
オリエンタルホテルは建物が高かっただけ、潰れた跡は目も当てられず、おそらく三百に近い人が死んでいるだろうと言われている。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
徒労という言葉の向こうに
税関は古い煉瓦建てで、神鞭税関長は出張中で無事だったが、高級吏員以下ほとんど全滅。煉瓦を押しのけ表へ出たものが鋸で煉瓦を切って救い出そうとしたが、徒労に帰したと聞くも哀れだ。死者六十余名。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
保土ヶ谷の女工
保土ヶ谷の富士紡績工場では二千の女工が作業中崩れ落ちて、一時全滅の噂もあったが、死者二百名くらい。小さい包みを持った見すぼらしい女工達はひとまず船で故郷へ帰されたが、寝食をともにした友のため泣いて工場の門を出て行った。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
横浜一の繁華街も
伊勢佐木町通りは土曜日だったので、活動(注:映画館)や劇場はすでに見物を入場させていた。幸い多くは逃げ出すことができたが、喜楽座と朝日座は圧死者各百名づつを出し、横浜の浅草も見る影もなく灰に化して、日が暮れてからは灯を持たずに歩めないほど道路が凸凹しているのだった。
大岡川および出川筋は橋梁墜落焼失し、船の焼失二百余、焼死・溺死者八百名と算せられている。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
紙面の都合なのか、あまりの被害の凄惨さに記者自身が倦んでしまったからなのか、後半は説明が淡々としてくる。見たこと聞いたことだけをそのまま書いているといった感じがする。そんな中にぽつりぽつりと恐ろしい言葉が滲みだしている。
「外人ばかりの客の消息は皆目知れない」
「いまだに死体の発掘に手も付けられない」
「ノコギリで煉瓦を切って救い出そうとしたが徒労に終わった哀れ」
「寝食をともにした友のため、泣いて工場の門を出て行く女工」
横浜の惨劇は建物が古い煉瓦造りだったからと理由づけられているケースが多い。耐震性の高い現代建築では同じことは起きそうにない。しかし、大震災の正体は複合災害であるという。揺れや火災に強くても、それ以外の要因で惨禍が引き起こされないと誰が断言できるだろう。ましてや現代の都市は、大正時代よりもはるかに人口も増加し過密になっている。
液状化による倒壊、電車・自動車・飛行機など交通機関がらみの事故、電気設備や薬品からの出火、閉じ込め、帰宅不能、孤立、水と食料の欠乏、いくら待ってもやってこない救援、そして情報断絶から自然発生的に広まって行く悪い噂。風説に怯え暴徒化していく人々。
何度でも繰り返そう、関東大震災から学ぶことは多い。
(つづく)
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