発達した台風は、その気圧の低さと暴風で海面を吸い上げ高潮を起こします。満潮と合わさった高潮は3メートルを超える潮位で陸地を襲うことがあります。その様子はまさに「津波」そのものです。しかも高潮災害では、台風による激しい暴風雨による被害も同時に発生するため、準備を怠らないことが大切です。
大正6年、1917年9月30日本州中部に上陸した台風は、急速に東日本を縦断しながら各地に大きな被害の爪痕を残しました。全国の死者・行方不明者は1,300人以上、全壊家屋4万余、床上浸水約20万戸という甚大な被害をもたらしました。
いまから100年近く前に起こったこの災害、台風が原因とされるのに「大津波」の名で伝えられてきたのは、猛烈な低気圧(台風)による高潮によって引き起こされた大水害が、まさに津波に匹敵する甚大な被害を引き起こしたからです。
この台風での海面上昇は、東京湾で3メートルだったと記録されています。晴れていれば美しい月夜だっただろう十五夜の夜、満潮に一致する時間に台風による海面の吸い上げで潮位が上がり、当時の低い堤防を乗り越えた水のかたまりが、海辺沿いや川沿いの集落を襲ったのです。
強力な低気圧によって吸い上げられ、台風の激しい風の力ででさらに高さを増した波は陸上に乗り上げた後も、波と波が合流して高台に駆け上がったり、引き波と寄せる波が渦を巻いたり、津波の地獄絵そのままの悲劇が繰り広げられていたことでしょう。
さらに、高波からの避難を躊躇させるような状況が台風によって引き起こされていました。それは激しい風雨です。瓦を飛ばし、戸板を開けるだけで荒れ狂う風に屋内が吹き乱されるような暴風の中、家から避難することができずに高波に襲われた人も少なくなかったようです。さらに、普及が進んでいた電灯も風雨と高潮で電灯線が壊滅し、暗黒の夜だったとも伝えられます。
この千葉県のページにはたいへん充実していて、数ページの中に高潮災害のしくみや過去の災害データなどが盛り込まれているので、ぜひご一読を。
大正6年の大津波での潮位上昇は3メートルでしたが、昭和34年の伊勢湾台風では3.9メートルに上り5,000人以上の犠牲を出したこと。屋根上に逃れていたところに流れ着いたお釜に流れ着いた話。さまざまな情報やお話が詰め込まれていますが、悲しかったのが次の話。
助かった樽少年
浦安町堀江5番通りの長屋に住む何某かは、家が低地帯にあるので、堤防が決壊すると同時に浸水し、危険な状態になったので、両親は8歳の男の子を大きな樽に入れ高いところにおいた。家は押し寄せた水の勢いでばらばらになり、両親は行方不明になった。台風通過後、駐在所の巡査が漂っている樽の縁に何気なく手を掛けたところ、樽の中から半ば心身状態の男の子がよっこり頭をもたげたので巡査は驚いた。少年は幸運にもかすり傷ひとつも負わず、九死に一生を得たという話です。
災害から長い時間が経過しているせいか、どこかユーモラスな文章ですが、樽少年の物語は、東日本大震災で奇跡的に助かった人たちの物語を思い出させます。津波に流される家の屋根伝い走って逃れた話とか、漁業用の水槽に乗って一晩漂流した話、海岸線の松の木によじ登って助かった話とか。
助かった人たちのことに限っては喜ばしい話なのですが、まわりにはたくさんの犠牲者があった。浦安の樽少年の両親も行方不明と記されています。
もう百年近く昔の話ではありますが、台風と満潮が重なることで津波に匹敵するような大災害が引き起こされることがあること。さらに、台風や巨大低気圧による高潮には、避難行動を困難にするような暴風や、場合によっては暴風雨が伴うこと。そのことを忘れないようにしたいと思います。
当時の東京日日新聞の紙面より
直後の紙面だけに、当時の緊迫感が伝わるかと。
東京の大暴風雨
今暁二時より襲来
▼雨中十数カ所の出火
市中暗黒となり、倒壊家屋多し
今暁二時頃より東京も暴風雨の襲うところとなり、南東の風凄まじく、二階、三階の高屋は家鳴震動して人々安き心なく、電光ははためき、屋根瓦の落下するもの多く、往来への一歩も踏み出すあたわず。各電灯会社も最初は送電を中止せざりしが、電灯線を各所にて切断して、市中は暗黒の箇所多く、動力船は全く送電するをえず。各新聞社はあたかも市内版印刷時間なるも輪転機の運転中止し、印刷するあたわず。辛うじて交流線に切り替え、わずかに十二台を印刷するのみなりし。
▲海運橋筋
床上浸水
避難準備忙し
日本橋区海運橋筋は紅葉川氾濫して、ついに床上浸水を見るに至り、各戸避難せんとするも屋根瓦の飛散危険にて外出するあたわず、戸を開かば屋内をめくらるる恐れあるより、堅く戸を閉じ……(以下、判読不能)
▲各区の出水
いずこの往来も河と変ず
連日の霖雨と昨日の豪雨にて浅草、本所、深川をはじめ、各区出水を見たる矢先へ暴風となりたれば、ますます増水して出水激しく、至るところの往来はにわかに河と変じ、往来途絶したり。
東京日日新聞 大正6年10月1日
浦安町はほとんど全滅
発見死体百十一
生存者も半死の態
千葉県東葛飾郡浦安町は全部激浪に呑まれ、今なお水中に埋没しているが、二日午後六時半ごろの満潮時に至り、増水三十余尺に及び、倒潰せる無数の家屋、電柱は雑然として海岸に打ち寄せられ、辛くも生き残れる遭難民は飢餓と疲労にて半死の状態にありて、死者は二日までに発見せるもの百十一名に達す。
行徳町原木一部落はほとんど全滅し、二日午後三時まで同海岸に漂着せる死体十七を算す。家屋の倒壊、小学校舎二棟ほか七十二戸にして、いずれも激浪に浚い去られたり。(三日、船橋電話)
東京日日新聞 大正6年10月3日
文末に「船橋電話」とあるのは、ようやく電話が通じた船橋の住人に電話で聞き取りして作った記事ということだろう。増水が30尺とすれば10メートル近い高さということになるが、東葛飾郡役所による「大正六年暴風海嘯災害誌」では流山で4.5メートル、関宿で4.8メートルと記録されている。
千葉県下
暴風雨中千葉袖ヶ浦一体沿岸に大海嘯起こり、千葉全市街は水中に没し、寒川一面はほとんど全滅の状態なり。午前中に判明せる死者は十二名、行方不明銃名にて、負傷者なお多かるべし。倒壊家屋中主なるものは町立第二および第三尋常小学校並びに通町基督教街堂などにて、また浸水家屋は約一万余戸に達し、田中内務部長は県公会堂に、三沢警察部長は巡査教習所に避難せり。
海嘯の最も激烈なりし寒川方面においては、一家五名枕を並べて溺死せる悲惨事あり。稲毛海岸の格納庫に入れありたる民間飛行家白戸氏の飛行機二台は滅茶苦茶に破損し、稲毛より市原郡八幡町間の国道は、海嘯に浚われ全滅の部落もあり、市原郡湿津村(うるつむら)尋常高等小学校舎も倒潰せり。
東京日日新聞 大正6年10月4日
山が人々に襲い掛かる土石流災害ばかりでなく、台風や低気圧の接近では、津波のように押し寄せてくる高潮や風雨による被害など、さまざまなリスクへの対処を怠りなく!
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