UPDATE 1- 画像と記事を追加しました
大正12年(1923年)9月1日11時58分、相模湾沖80kmを震源とする大正関東地震が発生。震源近くの沿岸地域はもとより、横浜、東京など都市部に壊滅的被害をもたらす関東大震災起こった。
91年前に首都圏を襲った震災の模様を、実に震災から1カ月後、10月1日に発行された「関東大震災画報」(写真時報社)のデジタル画像で見てみよう。(画像はすべて国立国会図書館デジタルコレクションによるもの)
しかし、表紙を開くと意外な図版が冒頭に掲げられていた。それは……
幕末の安政大地震でも火災によって大きな被害が出た。その教訓が生かされなかったことの戒め、とも受け取れる。
続くページには摂政宮殿下(のちの昭和天皇)の姿。
病身の大正天皇に代わって摂政の立場にあった後の昭和天皇は、震災後の市中を精力的に巡視されたという。
さらに、震災で亡くなられた皇族の写真が続く。
これ以降、各地の被害状況の写真と解説ページが続く。
一瞬にして潰滅し、2日間かけて焼き尽くされた東京
左ページの記事にはこう記されている。
東京の繁華を代表する銀座尾張町の四ツ角に立つ時、いまは東西南北これただ荒漠たる野原である。何たる神の悪戯であろう。下図は大正12年9月1日午前11時55分、直前の銀座通りである
記載された文章を拾ってみよう。
焼け残った吾妻橋。この橋は橋板が焼けただけで、残ったその後へ、早速工兵が板を渡して修理したので数万の群衆が詰めかけている。
折れた十二階。浅草名物のひとつ十二階が地震で第八階目からポッキリ折れた。上にいた見物人は生きた者はない。
吉原の焼け跡。東京一の歓楽境、名物の吉原もたびたび火災に見舞われたが、今度は地震と火事の両方で遊君の死者1500名とは何たる惨事であろう。
吉原焼け跡見聞記
赤札白札の死体
不夜城もいまは夢の跡
娼妓千人は水火に死亡
灰の中で読経
(※注:見出しに「水火に死亡」とあるのは、町が火炎に囲まれた後、人々は小さな池に押し寄せて、次から次へと水を求めようとしたため、下敷きになった人は水に溺れ、溺れた上からさらに人が積み重なっていったからで、鎮火後の池は溺死者と焼死者が積み重なる惨憺たる状況だったと伝えられる)
本所被服廠跡に避難した4万人のうち3万8000人が焼死した一方、上野の山に避難した5万人は火災を免れた。何が生死を分けたのだろうか。
倒壊した建物に覆いかぶさるような火災の煙が凄まじい。
左ページの記事を拾ってみる。
恐るべき猛火の前には何物もない。わずか前の時間まで轟然たる響きを立てて走っていた電車も、哀れに骨を残して焼けてしまった。
涙をさそう迷子の群れ
警視庁に八百余名
今回の大災害に際し親に捨てられたあわれな迷子が現在警視庁に34名、管下各署に803名、計837名が保護されているが、うち20名ばかりは10日夕刻までに身元が判明して、それぞれ母の手に渡された。なかにはほとんど半狂乱となり、親の名前や住所を忘れてしまった者が多く、10日夕刻済生会から警視庁に送られた鎌倉生まれの沢本しづ子(28)の如きは、可愛い我が子の顔を見て何ら感ずる様子もなく、行く先も解らないでいる。このほか衛生不良に陥って死亡する憐れな小児が多い。
辛うじて火を逃れた電車は、焼け出された人々の立ち退き所として屈強のものであった
踏み越えた死体は
娘夫婦と孫
わが家族のゆくえもわからぬ清政技師
損害100億円か
建築のみで35億
恢復には20年を要する
仮小屋で芝居
20日杉に万事決定
焼残った歌舞伎座は工事を進め
人心を和らげる娯楽物
余りの被害に震源地は横浜直下だったのではとの説も
震源に近い横浜や湘南地方では、地震の揺れによる家屋の倒壊が多かった。その上に火災に見舞われ、壊滅したした地域も少なくない。さらに山崩れで列車が駅ごと流されたり、沿岸部では津波による被害も著しかったという。
記事を拾ってみる。
稀有のしんさいの魔の手に呪われた神奈川県下の惨害は、調査の進むにしたがってますます酸鼻の極に達し、到底筆紙のよくするところではない。累々たる死体の山、茫漠なる焼け野原にさ迷う飢民の群れ。宛として(あたかも)この世ながらの修羅地である。8日朝までに達した各地の情報は左のとおり。
横浜の死者3万余
郡部の死者4千余
横浜市の死傷者は所轄警察署の調査(8日)するところによれば左のごとし。
▲伊勢佐木署 住民7万4655人、死者1万2153人、負傷者2万449人
▲加賀町署 住民8万4168人、死者4890人、負傷者7870人
▲寿町署 住民6万9182人、死者2368人、負傷者3468人
▲戸部署 住民10万8000人、死者2179人、負傷者3999人
▲山手本町署 住民6万人、死者7769人、負傷者1464人
▲水上署 住民6000人、死者1280人、負傷者770人
▲神奈川署 住民3万2165人、死者132人、負傷者3888人
湘南地方
山崩れで埋没
死傷1万余名
小田原箱根の惨状
平塚火薬庫爆発し
相模紡また全潰
全町師匠650余
富士紡工場全壊し
女工1500名惨死
従業員140名も死す
東海道上の空中から見た相模国厚木町のしん災状況で、町の半分は火で焼かれたのである
東海道線藤沢駅とその付近を空中からみたので、この附近は幸いにも火を免れたが、地震は東京以上に甚だしかった。満足の家は一軒もない
凡ソ非常ノ秋ニ際シテハ非常ノ果断ナカルヘカラス
「関東大震災直後ノ詔書」には次のような内容が記されている。
9月1日の激震は突然の出来事で、その震動はきわめて峻烈だった。家屋は倒壊し無惨にも命を失った人々の数は何万に上るかわからない。しかも方々で大火災が発生し、その火炎は天にまで昇り、京浜地区などの町々は一夜にして焦土と化した。この間、交通は寸断され、そのために流言飛語が広まり、震災による被害をますます大きなものにした。かつての安政の大地震に比べても、むしろ凄愴な状況だろう。
この大震災の被害に深く思うのは、天災地変を人の力で予防することは困難であり、私たちにできることは人事を尽くして人々の心の安定を図ることのみということだ。
非常の際には非常の判断と果敢な行動をとらねばならない。もしも、平時の決まりごとにとらわれて、なすべき判断を誤ったり、スピーディに対処しなかったり、さらには個人や一企業の利益を守るために、罹災した多くの人々の安全や生活を脅かすようなことがあれば、人々の心は動揺して、その不満をとどめることはできないだろう。
関東大震災は遠い過去の出来事に思われるかもしれない。東京や横浜の町を歩いて、当時の震災の跡を見出すことはほとんど不可能だ。しかし、いまから3~4世代も遡った父祖たちにとって、関東大震災は忘れることのできない凄惨な記憶だったはずだ。震災が起きた9月1日には、大地震に見舞われた大都市がどうなるのか、そこに生きていた人々はどうなったのか、できる限りつぶさに、具体的に、ことの細部まで思い起こして追体験したい。
昭和天皇の言葉にあるように、天災地変を人の力で予防することは不可能だ。しかし、人事を尽くして人々の心の安定を図ることは今を生きる私たちの神聖な義務だと思わずにいられない。
今暁もなほ延焼
小学生200名、山崩れで生き埋め
山崩れによる事故の記事は残念ながら判読不能。その隣の記事には、頭だけを出していた被災者に牛乳やウィスキーを飲ませていたが、2日目にようやく全身を掘り出したところ絶命したといった内容が記されているようだ。死んだと思っていたら6日になってひょっこり徒歩で帰ってきたというような内容も読み取れる。
▲横須賀 死者450人、負傷800人、行方不明200人
▲川崎 死者180人、負傷者200人
▲鶴見 死者10人、負傷者30人
▲小田原 死者1381人、負傷者1万236人
郡部の総合系
死者 4331人
負傷 2万3883人
行方不明 353人
裁判長、検事正、みな圧死
「新名所」が何を意味するのかよく分からないが、記事を抜き書きしてみると、
亡びゆく名所と再生の都の新名所
一夜にして烏有に帰した大江戸文化の数々
(烏有に帰す:ウユウニキス 何もなくなってしまう)
上野公園下から広小路方面を望む。正面に見えていた坂屋(松坂屋の脱字か)は、まったく焼け落ちてしまった。
下は赤坂見附自働車隊の活動
軍隊による復興支援が新名所ということだろうか。
左ページの内容は悲惨である。
全滅せる横浜
横浜方面では1日正午少し前、突然空中に振り回される如き激震起こり、わずかに数分、家屋はことごとく倒壊。血みどろの市民は右往左往の中に、市中数か所から出火。忽ちにして横浜市はこの世から葬り去られた。当時の光景を表すべき形容詞は、まだ人間によって作られしを覚えず。倒壊を免れた建物は正金銀行その他の大建築も間もなく猛火のために焼き尽くされ、死者数万に上った。
裁判長、検事正、みな圧死
横浜地方裁判所は執務中に全滅
末永横浜地方裁判所長、福鎌検事正以下四十有余名の判検事は執務中に全員圧死した。司法省では目下善後策を講じている。
(横浜地方裁判所ではレンガ造りの建物の倒壊と火災により、判事や検事のみならず弁護士、裁判所職員、新聞記者、証人、鑑定人、訴訟関係者まで裁判所にいたほぼ全員が死亡。この場所での死者は100人を超えるという)
大震源地は横浜附近か
中村博士の新研究
余震震源はこの辺
(残念ながら本文は判読できず)
罹災者の再起という、あまりに重い課題
昨夜からの豪雨で難渋しているのは、日比谷公園を始め各地の野天に小屋掛けしている避難者の群れである。彼らはブリキや敗れ板で■に囲いをしているが、雨は漏り放題、下からは湿気があがって衣服も何もビショ濡れだ。体のためには非常に悪いがどうすることもできぬ。
それに冷気が加わっても十分の夜具がないので、大概、紫色の唇に鼻汁をたらしているという悲惨なあり様。定めし病人も増すことであろう。しかし行くところがないので観念しているようである。
海軍省の廊下には500人余の避難者が、いずれもアンペラ(安いむしろ)の上に寝転んでいる。これでさえほかの避難者よりもよほどよい。日々や辺りでは医師の巡回診療が焦眉の急である。
悲惨中の惨として永久に恨の消えないのは
左ページには、天皇陛下からの見舞金、亡くなった皇族ご遺族の言葉、皇族方の消息にあわせて、「関東大震災記」との一文が掲載されている。おそらく編集長か会社の主筆による「関東大震災記」から、迫真の描写を一部抜粋する。
午前11時58分、人々の多くは今まさに昼の食事につかんとし、あるいは既に一家たのしい食膳を囲んでいる時であった。突如いずこともなく異様な響きを聞くとともに大地はぶるぶるとふるえ出し、あるいはドンと突き上げられた。来る! 来る! 大地震来る。スワと思う間もなくレンガ崩れ瓦飛び、柱は挫けて家は倒れ、濛々たる土砂の煙り立ち上がると見れば、たちまち紅蓮の焔は四方に起こって家から家へ、町から町へと燃え移る。
驚いて戸外に飛び出すもの、倒れて傷つくもの、逃げ後れて圧死を遂げるもの、逃れ惑うて泣き叫ぶもの。子は親を失い、妻は夫に別れ、阿鼻叫喚の声、全市に満ちて惨また惨。地は間断なくふるい、地震とともに水の手が止まった上に、二百十日の烈風が吹き出したので、猛火は縦横に燃え拡がり、黒煙天日を閉ざして物凄く、いまにも世の終わりが来たかと思うような阿修羅地獄を現出した。
かくして東京市中八十八カ所に起こった火は、日比谷といわず、銀座といわず、日本橋、両国、本所、浅草、下谷、神田、芝、赤坂と、忽ちのうちに帝都の大部は怖ろしき火焔の海の底に沈められた。
前肢は焦熱地獄と化した。ソノ火はその日の昼から一晩中燃え、翌2日も一日燃え続けて、その日の夕方にようやく止んだ。見れば全市一望焦土と化し、ここに300年の文化の華、大江戸の昔から築き上げられた東洋一の大帝都大東京は一瞬の間に茫々たる焼野原となってしまった。何たる大惨事であろう。
「関東大震災画報」(写真時報社)
ことに悲惨中の惨として永久に恨の消えないのは、本所被服廠跡で3万4000人の人々が避難中に火焔の大旋風でひとたまりもなく焼かれたことと、隅田川の各橋上に避難した人々が、橋の両端から焼けてくる火に攻められて、雨のように水中に焼け落ちたというそれである。
「関東大震災画報」(写真時報社)
かくの如きは今までの人知の限りでは到底想像だにし得なかった、空前絶後、酸鼻の極というべきである。我らはこれを叙し、それを弔うべき筆も文字も到底持ち得ない。
「関東大震災画報」(写真時報社)
また、さらに眼を湘南一帯に転ぜんか、震源が相模湾にありしためか、横浜、鎌倉、小田原、その他の都市村落ひとつとして惨害を蒙らぬはなく、あるいは激震により倒され火事に焼かれ、または海嘯に襲われて死傷算なきうちに、ことに酸鼻を極めたのは横浜市であった。第一回地震が東京よりもよほど烈しく、全市は全く一軒も残さず、一度に破壊しつくされ、続いて火炎を起こし、完全に焼けてしまった。横浜全滅の文字は決して誇張でもなんでもない。すなわち震源地は横浜直下ではないかと云われるくらい、空前の大激震であった。
「関東大震災画報」(写真時報社)
足らなくなった2種類の活字
引用した部分では字を補ったが、原資料では地震を「地シン」、震災を「シン災」と記している箇所が異常に多い。ことに後半になるほど地シン、シン災が多くなる。
どうやらこれは、「震」という活字が足りなくなったからのようだ。
そして、カタカナ表記や、明らかに大きさが違う活字が使われているものに、もうひとつ「惨」という字があった。
30数ページの写真集を印刷するのに、「震」と「惨」の活字が足りなくなってしまったことに、関東大震災の恐るべき猛威が象徴されているように思う。
そしてもうひとつ考えるのは、もしも今まだ活字の時代だったとしたならば、2011年の大震災の折にもやはり、「震」「津」「波」、そして「惨」の活字が足りなくなり、カタカナで表記せざるを得なかったのではないかということだ。
東京の下町を歩いても、横浜の丘の上に立って町を眺めても、現代的な都市の光景が広がるばかり。しかし91年前、この場所は阿鼻叫喚の地獄そのものだった。「惨」の活字がなくなるなくなるまで、震災のむごたらしい状況を描いて、描いて、描きつくそうとしてもなお、91年前の記者が「その惨状を伝える言葉を人間は持っていない」と語らざるをえなかったほどの惨状。それが災害の実像なのだろう。
災害がなんなのか、大都市が大災害の被災地になるのがどういうことなのか。関東大震災の惨劇をこころに刻み、悲劇を繰り返さないために何をなすべきかを考えたい。
次の世代に災害の脅威を伝えなければならなくなった時、「教訓として生かされなかったひとつ前の災害を、自戒のために掲載する」ということが繰り返されてはならない。編集者たちが「関東大震災画報」の冒頭に安政の地震の絵図を掲載したのは、言葉で言い表すことのできない惨や恨、無念さを伝えるためだったのに違いない。
最終ページ
帝都の焼失総戸数は31万6000余戸
罹災民135万人余
帝都の死体の取かたづけについては13台の貨物自動車で、1000名の妊婦を以て極力焼却につとめているが、8日夜半までに収容焼却した数は
(中略)
その他、旧火葬場等で焼却した分を合算すると約6万以上に達しているが、なおこのほか隅田川に墜落溺死している者、家屋の下敷きとなって圧死あるいは焼死している者、道路に黒焦になって倒れている死体は実に20万を突破する見込である。
――関東大震災はむかし話ではない。まして他人事などではない。
文●井上良太
最終更新: