[関東大震災の記憶]無事な家を見ると腹が立つ

iRyota25

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「大正大震災記」が描いた大震災 ~1

戦前の東京で五大新聞社のひとつに数えられていた時事新報社。関東大震災発生から3カ月後の1923年12月2日発行された「大正大震災記」は、関東大震災の被災地で何が起きたのか、震災直後の様子から、復興に向けての動き、さらに甘粕事件など混乱下で起こった事件まで、時事新報社が総合的にまとめた一冊です。いまから91年前に作られた一冊を紐解くと、今後に通じる都市災害の恐ろしさがまざまざと見えてきます。

ここでは、64ページの本書の第28ページに掲載された「無事な家を見ると腹が立つ」の全文を引用して紹介します。東京を中心に、関東大震災で被災した人たちがどのように生きのび、どのように生活再建に向けて歩み出そうとしたのかが、記事には凝縮されています。

幸運の人だけが不思議に命拾いをしたのだ

無事な家を見ると腹が立つ
死線を逃れた避難民の暗い心理

地震で表に飛び出した人々は続いて起こった猛火に追われて、あてどもなく無暗に逃げ惑った。本所、深川、日本橋、京橋、浅草、神田の6区は火のためにほとんど全く全滅してしまったのだから、同じ避難するにしても、なみ大抵のことではなかったのだ。命がけということをよく言うが、これこそ本当の命がけで、幸運の人だけが不思議に命拾いをしたのだといった方が適当だろう。

本所区では安全第一と認められた数万坪の被服廠跡の空地へ逃れたのが、かえって死を求めて行ったようなものだなどと、誰があの当時考えられようか。

「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日

その場に居合わせた者でなくては想像もつくまい

初めのうちこそ家財道具を持ち出したものの、命が大切だと思えば争って棄てて逃げたのだ。外神田、本郷、下谷、浅草の住民は妻子を伴って、いずれも上野公園指してドシドシと避難したが、公園入口の広場はこれら避難者で身動きも出来なかったことは、真にその場に居合わせた者でなくては想像もつくまい。

日本橋、京橋方面の住民は先を争って宮城前の広場へと逃れようとあせったが、行く先々が猛火で迂回しなければならなかったのだ。呉服橋を渡ろうとしたものは、高田商会や鉄道省の火に遮られて進むことができず、橋の袂の共同便所へ駆け込んだものは、間もなく折り重なって死んでいった。

電気局が焼けているので有楽橋も駄目だ。唯一の道は鍛冶橋よりほかはないというので、その日の鍛冶橋の混雑は実に名状しがたいものであった。あとからあとから続く避難者の群は早く早くと気を揉むが、渡りきったものはホッと安心して立ち止まるので混雑はますます劇しくなるばかりだ。

それでもようやく二重橋前の広場へ落ち着いた連中は、腹の減ったのも咽喉が渇いたのも一時は忘れグッタリとなってしまうのが多いが、中には妻子と別れ別れになったので、狂気のように尋ね廻っているのも少なくはない。夜に入ると下町方面の火の手は赤く天を焦がして、燈火がなくても人の顔を識別することは困難ではない。

「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日

地震発生が11時58分で、まさに昼食準備の最中にあったことから、大きな揺れの後にはすぐに火の手が上がった。震災後の火元調査では料理の火ばかりではなく、医院や研究機関等の薬品から発火した箇所も少なくない。いずれにしろ東京は、揺れの直後に各所から出火、数時間のうちに逃げ場を失ってしまうほどの延焼を見た。

関東大震災の大火災の原因は、多くの人たちが持ち出そうとした家財道具に火の粉が降りかかって引火したことだと指摘されることが多い。しかしここに記された、「初めのうちこそ家財道具を持ち出したものの、命が大切だと思えば争って棄てて逃げたのだ」との一言だ。記者の実体験に基づく言葉の強さにハッとさせられる。私財を失わないようにとの一念で行動した人もあったろう。しかし、持ち出した家財を打ち棄てて逃げた人もいた。人の行動は多彩だ。たとえ群集心理が働くような場所でも、様々な行動が交錯するように現れる。出来事を理解するのに単純化しすぎるのはよくないことを、91年前の書物によって思い出させてもらった感じがする。

知るも知らぬも互いに不安と恐怖のうちに送った一夜

九段の靖国神社境内は、神田方面からの避難民で、昼のうちに立錐の余地もないほどだったが、夜に入ると富士見町や飯田町から火に追われてきた人々で、さらに一層の混雑を見るに至った。

焔々と全市の半ば以上を狂い廻る恐ろしい火の手を眺めつつ、知るも知らぬも一塊となって互いに不安と恐怖のうちに一夜を送ったのであったが、夜が明け放たれると、空を焦がす黒煙のために、日の光さえ遮られ薄気味悪い有様を呈している。

「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日

これもまた別の記者の実体験に基づく言葉なのだろう。

避難場所にまで火は回って来るのか。果たして生き延びることはできるのか。市中の空を焦がす火焔を見詰めながら、立錐の余地がないまでに混雑した神社の境内で、知らない者同士が不安と恐怖を分け合う。まったくよく似た夜の光景を思い起こさずにはいられない。

食を求めるすべさえなかった避難者

極度の餓えと疲れとに元気を失った避難者は、食を求めるすべさえ知らなかったが、それでも日比谷公園の緋鯉や動物は餓えた避難者の貪り喰らう所となったそうだ。

東京全市がことごとく火の海と化したと思っていたのが小石川、牛込、四谷は無事と聞いて、導の家へ避難すべく気を取り直したものは、疲れた足を曳き摺りながら、竹杖を求めて喘ぎあえぎ焦土の巷を歩のであった。

「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日

火災旋風を逃れることを得た避難者たちは、すぐに次の問題に直面した。ひとつは離れ離れになった家族達の行方を捜すこと。そしてもうひとつは食糧だ。炎に追われ命からがら逃げのびた人たちは、避難途中で家族とバラバラになることが多かった。それどころか、地域がまとまって避難するということもなかった。生き残った者は、誰を頼ることもできず、自分で家族を捜し、また生きていくための糧を求めなければならなかったのだ。

関東大震災時、東京では3~4日間、いっさい食べ物にありつけない避難者が多かったという。横浜はさらに悲惨で、飲み物食べ物がない状況が1週間にもわたったという。

東日本大震災で被災した知人は、とにかく3日分の食べ物と飲み物をと言う。しかし91年前の大震災は、都市部の災害では食料確保に苦しむ期間がさらに長期化する可能性を示している。

思わず呪いの言葉を口にした男

まるで戦争でも始まったように、あとからあとからと避難者の行列は焼け残った山の手へ、郡部へと続いていく。煙と汗に汚れたシャツ一枚の男や、浴衣の裾を端折った女が、若いのも年老いたのも、裸足や足袋裸足で力なく歩み続けていくのだが、焼け残った街を通る時には「この辺は無事で癪に触る!」と思わず呪いの言葉を口にした男があったのによっても、罹災者の眼には焼け残った街がどんなにか嫉ましく見えたことだろう。

「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日

衝撃の言葉だ。しかし、この言葉に震災の現実が結晶しているように思う。こんな言葉を吐かずにいられない気持ちを理解しなければ、本当の意味で防災を考えることはできないのではないだろうか。

上野公園で70余名、この晩、新しい命も誕生した

なおこれらの避難者中には臨月のお腹を抱えて逃げ廻った夫人も少なくなかったが、上野公園で70余名、日比谷公園で10数名、東京駅でも数名分娩した。もちろん第一夜は医師も産婆の手も借りずに分娩したのであるが、生後半ケ月も産湯をつかわせることのできなかったのも数々あったとのことだ。

「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日

「大正大震災記」は、各方面ごとの被害状況、震災後の政府等の対応、食糧等の支援状況、被災者の生活再建、また甘粕事件や朝鮮人暴動など大震災をめぐる様々な課題を総括的にまとめた冊子だ。その中でこの一文は、取材に当たって記者が、実体験を元に構成したものと思われる。炎の中を逃げ惑い、避難所で延焼に恐れ戦きながら一夜を明かした実体験が、大正大震災記に記された記事のリアリティを増しているように感じる。

91年前の記者が書いたものでありながら、古びた感じがまったくしない。それどころか東日本大震災で心ある記者たちが描いた被災地の姿に通じるものすら感じられる。

まさか被服廠跡で3万人もの人が焼け死ぬとは思いもよらなかった。まさか火の粉が大川をも越えて飛び火していくとは考えようもなかった。まさか通信や新聞発行が不可能となり流言が支配する恐怖の日々がやってくるなど思ってもみなかった。関東大震災でもたくさんの「想定外」が語られていたことを、私達は当時の生の記録から知ることができる。人知を超える大規模な災害に直面した時の絶望的な心理状況を、自分のものとして追体験させてもらうことができる。

関東大震災の直後に残された資料を読み解くことで、大災害をいかに生き延びていくのか、引き続き考えていきたいと思います。

文●井上良太

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