88年前の大震災の後に、こんな言葉がありました
1923年、大正12年9月1日11時58分32秒、相模トラフ付近を震源域とするM7.9の大地震が発生しました。大正関東地震(関東大震災)です。
地震発生から11日後の9月12日、次のような言葉が語られました。
9月1日の激震は突然の出来事で、その震動はきわめて峻烈だった。家屋は倒壊し無惨にも命を失った人々の数は何万に上るかわからない。しかも方々で大火災が発生し、その火炎は天にまで昇り、京浜地区などの町々は一夜にして焦土と化した。この間、交通は寸断され、そのために流言飛語が広まり、震災による被害をますます大きなものにした。かつての安政の大地震に比べても、むしろ凄愴な状況だろう。
この大震災の被害に深く思うのは、天災地変を人の力で予防することは困難であり、私たちにできることは人事を尽くして人々の心の安定を図ることのみということだ。
非常の際には非常の判断と果敢な行動をとらねばならない。もしも、平時の決まりごとにとらわれて、なすべき判断を誤ったり、スピーディに対処しなかったり、さらには個人や一企業の利益を守るために、罹災した多くの人々の安全や生活を脅かすようなことがあれば、人々の心は動揺して、その不満をとどめることはできないだろう。
88年前の言葉が突き付けるもの
とても88年前の言葉とは思えません。東日本大震災とその後の状況に向けての言葉として読み換えるには、「津波」の文字を加えるだけで足りるでしょう。
「非常の際には非常の判断と果敢な行動をとらねばならない」ことや「一企業の利益を守るために、罹災した多くの人々の安全や生活を脅かすようなことがあってはならない」という言葉は、2011年に語られたのではないかとさえ思えます。
88年前に、このような言葉を語った人物がいたことに、敬意を表したいと思います。
同時に、この言葉が東日本大震災に向けての言葉として読み換えることができることが、とても残念です。 9月1日を「防災の日」と定め、さまざまな機会を通じて訓練や学習を行ってきたはずですが、私たちは10万人を超える人々が亡くなった関東大震災の教訓をほとんど学んでいなかったのです。
東日本大震災で被災した人々をしっかりサポートできないままでいる私たちに対して、この言葉が突き付ける意味は、重く厳しいものだと思います。
● この言葉は「関東大震災直後ノ詔書」を筆者の責任で抜粋し、意訳したものです。当時、大正天皇は病が重篤で、数年前から摂政の宮(のちの昭和天皇)が国事を司っていました。
2012年に生きる自分が心に刻まなければならない
「関東大震災直後ノ詔書」について知った直後、東北地方でボランティア活動を行っている知人にこの言葉を伝えた時、彼は一言、「官僚が書いたものだろうな」と言いました。
自分はそんな風には考えていませんでしたが、もし彼が言うように官僚や側近が文章を作ったのだとすれば、この言葉は天皇お一人のものではなく、より多くの人々が共有していた思いを表したものだと考えることができます。
どなたか作られたのかに関わらず、この言葉の意味するものは、2012年に生きる自分は、しっかりと心に刻まなければならないと思います。
「関東大震災直後ノ詔書」の原文は次のとおりです。(抜粋の部分のみ)
九月一日ノ激震ハ事咄嗟ニ起リ其ノ震動極メテ峻烈ニシテ家屋ノ潰倒男女ノ惨死幾万ナルヲ知ラス剰ヘ火災四方ニ起リテ火焔天ニ冲リ京浜其ノ他ノ市邑一夜ニシテ焦土ト化ス此ノ間交通機関杜絶シ為ニ流言蜚語盛ニ伝ハリ人心洶々トシテ倍々其ノ惨害ヲ大ナラシム之ヲ安政当時ノ震災ニ較フレハ寧ロ凄愴ナルヲ想知セシム朕深ク自ラ戒慎シテ已マサルモ惟フニ天災地変ハ人力ヲ以テ予防シ難ク只速ニ人事ヲ尽シテ民心ヲ安定スルノ一途アルノミ凡ソ非常ノ秋ニ際シテハ非常ノ果断ナカルヘカラス若シ夫レ平時ノ条規ニ膠柱シテ活用スルコトヲ悟ラス緩急其ノ宜ヲ失シテ前後ヲ誤リ或ハ個人若ハ一会社ノ利益保障ノ為ニ多衆災民ノ安固ヲ脅スカ如キアラハ人心動揺シテ抵止スル所ヲ知ラス
私たちにできること
抜粋した部分の後に「恵撫慈養ノ実ヲ挙ケムト欲ス」という言葉が登場します。大正12年の大震災では被災者のための「恵撫慈養」を図ることが大きな目標として掲げられていたのです。
東日本大震災にあたって、私たちができる「恵撫慈養」とは何か。それは2012年を生きる私たちの問題です。
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