「自分の知っている地名がたくさん出てくるので、関東大震災でどんなことが起きたのか、身近に感じられることができました」と、横浜の惨状が記された「大正大震災記」を読んだという知人が先日しみじみ話してくれました。
たしかにそうだと思います。本牧、磯子、根岸、藤棚、神奈川、横浜税関倉庫…。その地で91年前に「こんなことがあったんだ」と思えば、迫ってくるものも違います。
今回も、震災から3カ月後に発行された「大正大震災記」(時事新報社)から、関東大震災での横浜の様子をお伝えします。できるだけ当時の雰囲気を伝えるため、言葉遣いや表記の一部を現代語に改め、句読点等を補う程度で、ほぼ原文のままの紹介です。
今回の記事は、家一軒すら残さないほどに地震と火災に破壊され、海に浮かぶ船に避難の場所を求める人々も集まっていたという震災当日の夜から始まります。
夜になっても惨劇は終わらない
その夜だ。陸上の余燼炎々として、海に深紅な影を投げていたが、7時頃大音響と同時にオリエンタルホテル前の石油船が爆発して、南防波堤を破壊して火の海となった。係留中の大小汽船は火に囲まれつつ、艫(ともづな:係留ロープ)を切って沖合に逃げ、避難者の一群が最後の生命を託した岸壁の船も焼かれ、船中の人と思しく海上からは断末魔の叫びが聞こえた。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
横浜の町は完全に破壊されてしまいました。「1日の夜は初秋の月澄んで、2里四方の焦土を照らした」という記述も見られます。荒涼たる風景。しかし、悲劇が終わりを告げたわけではなかったのです。
神奈川台、野毛山の奥、藤棚、中村町の山上等に避難した人は、夜に入って我が子の行方を捜し、夫を尋ね妻を見つけ廻っていた。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
凄まじい災禍から身一つで逃げ延びた人々が、夜になっても家族を捜して歩き回る。そんな中でさらなる悲劇が発生していくのです。
放火、掠奪、飢渇ゆえの暴挙
本牧方面では不逞の徒が潰れた屋根へ上がって火を放ち、喪心者の背後から斬りつけたりした。
2日の朝、県当局へ報告した巡査の談によれば、放火の現状(注:あるいは「現場」の誤植か)で2名は付近の人に殺されたが、住民の方でも数名傷を受けたという。2日の朝、20名の不逞者が藤棚を襲ったが撃退されたので、本牧の如き惨事は起こらなかった。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
不逞の徒。放火。心が空っぽのようになった人に背後から斬りつける。不逞者は付近の住民に殺されたが住民側も傷を負った……。
この生々しい記事をどう読まれましたか。
阪神淡路大震災でも東日本大震災でも、罹災した日本人は暴動を起こすこともなく立派だったと海外メディアが伝えたのは記憶に新しいところです。しかしそれは、日本人が道徳的に優れていたということではないのかもしれません。見たくないこと、知りたくないことではありますが、「しっかり見ておかなければならない」という声がどこかから聞こえてくるように思えるのです。
白日を仰いで一息した市民は、にわかに空腹を感じた。焼け跡をほっつき歩いて熱灰をかき分けて缶詰を拾い出すもの、茄子の半焼け、黒焦げの米などが罹災者の餓えを一時つなぐことができた。
一部の者は税関倉庫を襲って手当たり次第に在庫品を奪い去った。本牧、磯子、根岸、藤棚、神奈川等焼け残った一部の家を襲った窮民は、次第に迫る飢渇のため、不穏な行為に出たのであった。
4日、税関と船渠倉庫が開放された。女子供も老人も混じって数万の窮民は、一時に倉庫になだれ込み、10数名の死者と多数の負傷者を出した。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
焼け跡に残った食料をあさるようにして口に入れ、税関の倉庫を襲う――。この時代にはすでに「赤レンガ倉庫」が税関の施設として造られていましたから、ここで記されている税関倉庫は、もしかしたらあの瀟洒な歴史的建物なのかもしれません。
しかし、そこで起きた一部の人々による不穏な動きは、迫りくる飢えと渇きによるものだと記者は強調しています。いつ支援があるのかも分からず、餓えのみならず不安に苛まれていた数万の人々は、倉庫が開放されたとの知らせに殺到します。
将棋倒しになったのでしょう。10数人者死者が出てしまったのです。烈震と火災の地獄を生きのびたのに。
しかし、不穏な動き、掠奪は必ずしも飢渇のみによるものではなかったと記者は続けます。この横浜勤務の記者は、東京の震災被害をリポートした複数の記者たちよりも冷静な目を持っているようにも感じられるのです。
この間、飢渇のためならず、最初から恐ろしい目論見をもって行われた掠奪事実もある。1日午後4時火災の最中、大岡川筋を小舟を漕いで川岸に持ち出した金品を窃盗したり、越前屋呉服店の土蔵の中に店員の見知らぬ男が3人、懐中に貴金属を詰め込んで死んでいたり、県立女子師範の寄宿舎に押し入って白刃を振い、寝具書籍まで奪い去ったり、その例は少ないが、風説一層大きく伝わって、生き残った市民全部は今にも攻め殺されるような噂が喧伝された。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
死因は分からないが土蔵の中で3人の男が懐に貴金属を詰め込んで死んでいた。女子寮に乱入した賊徒が寝具や書籍まで奪って行った――。
そして衝撃だったのが、生き残った市民もいずれ攻め殺されてしまうのだという風説が広まっていったという記述です。口にするべき食べ物がない。不逞の徒が跋扈する中、助けは来ない。真っ黒い不安がエスカレートしていきます。
2日の晩から男という男はヘトヘトの腹を抱え、足を引き摺って金棒を振るって起った。竹槍を突いて闇中に眼を光らした。3日の朝、騎兵20余騎は東京から神奈川に乗り込んだが、その間、巡査の姿はさらに見えなかった。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
3日の朝になってようやく騎兵部隊が東京からやってきます。しかし、それまでの間、町に巡査の姿はなく、横浜は無法地帯、棄てられた土地と化していたのです。だから、男たちは金棒や竹槍を手にして自衛するよりほかになかったということです。
治安維持のため軍隊は出動したものの
その日の午後、ようやく戒厳令は布告されて、4日、奥戸少将の率ゆる歩兵1ケ連隊は市中に到着し、銃剣によって不安な市中は警備されることとなった。
「略奪行為に出るものは射殺せらるべし」と厳命された。だが、一粒の米も一滴の水もめぐまれない市民は灰燼の巷に餓えと疲れとに死んでいった。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
警察はまったく機能しない。人々の飢渇は進むばかり。略奪行為も横行する。だから、市民の自由を多少奪うことになるものの、行政の権限を軍に一元化し、武力による強権の元に市内の安全を確保する。そんな戒厳令が布告された時には、3日間にわたって一粒の米も一滴の水もめぐまれなかった人々は死んでいったというのです。
市民を守るために出動した時には、多くの人々がすでに斃れていた。そんな批判が込められているように思われます。さらに――。
4日の朝「関西から救護米が多量に積み出された」と布告されたが、陸揚げすべき港は飴のように歪み倒された上屋が、丈余潰落して船着き場に力ない波を打ち寄せてるのみ。積んでくる艀舟は一隻も見当たらない。
5日の朝、市役所では「日給5円」で人夫を募集したが、「5円が何になる。米と家を与えよ」と叫んで応ずるものがなかった。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
関西方面からの救援米が船で届けられると発表されたが、港の施設は壊滅し、ハシケの1艘すらない。市役所では荷揚げする作業員を日給5円の好待遇で募集しますが応じるものはありません。
「5円が何になる。米と家を与えよ」
追い詰められた人々の肉声が耳元に聞こえて来るようです。
母親の乳が上がったので泣き声も立てずに嬰児は死んでいく。死児を抱えて狂う女がここにもかしこにも見受けられた。川に道路に横たわった市街は腐乱して臭気は鼻を衝く。酸鼻の極みだ。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
潰滅した街での、震災発生4日目、5日目の惨状です。
米は来たが炊く水がない
救護米が海軍のボートで陸揚げされたのは8日であった。9日には大方全市に配給された。赤錆びの釜を掘ってかまどを築き、米を炊こうとするにも水がない。井戸は散水用のものが市中に数10あるのみで用をなさない。
10日頃10数台の自動車が仮県庁及び市役所前に配置され、酒樽をもって市街1里の西ヶ谷浄水池の水を汲んで運んだ。これも群がってくる人々の桶を十分に満たすことができない。男は半日がかりで石油缶を吊って水を汲んだ。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
震災から1週間以上が経過して、ようやく届いた米。阪神淡路大震災や東日本大震災の時には、それでも支援・救援が来てくれるという確信が持てたでしょうし、何もかも失われたと言いながらも場所によっては、コンビニや商店に食べるものが少しは残っていた場合もあったでしょう。
しかし烈震と火災で完全に潰滅してしまった横浜の街には、食べるものなどほとんどなかったのです。
せっかくの米が届いたのに炊くための水がない。仮県庁や市役所の水の配給に並ぶ人はどんな気持ちだったことでしょう。
汚い手掘りの井戸
神戸、大阪、遠くは満州から汽船が水を運んでくれたが40万の人は渇を医するに足らぬ。手で土を掻いた井戸が各所に掘られていった。臭い水だったが、渇した市民は平気でそれを呑んでいた。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
港町・横浜だけに水の支援は船でも届きました。しかし40万人の人々の渇きをいやすには至りません。そこで人々は素手で土を掻いて井戸を掘ったというのです。
低地であれば1~2メートルほど掘れば水が湧き出す所は少なくありません。しかし、ドブ川などの生活排水が染み出した汚れた水です。それでも「平気で呑んでいた」というところに、やはり当時の横浜市民が置かれた状況が如実に現れています。
起伏の多い横浜の街ですから、高台の裾あたりを掘れば少しはきれいな水もでたかもしれませんが、そんなことなど言っていられないほどに追い詰められていたのです。
避難のための順番待ち
6日、ロンドン丸をはじめ海路関西方面に避難者を送るため、海岸通りからボートで送られたが、最初は3日間位野宿として待たなければ順番が来なかった。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
国も横浜の窮状を救おうと、市内からの避難船を仕立てますが、当時から日本の六大都市に数えられていた大都市・横浜ですから、避難するためにも野宿して順番待ちをしなければならなかったということです。
日本全体の人口の4分の1から3分の1に相当する、3000万人~4000万人が暮らす首都圏で、被害が広域に及ぶ大災害が発生した場合には、大正時代の横浜と同様か、もっと大変な状況になることは間違いないでしょう。
列車で脱出するのも、文字通り命がけ
京浜間1日4回の列車運転も6日から開始されたが、無蓋貨車で焼原に停車するため、乗り降りには悲鳴を挙げ、発車してから助けてくれと叫ぶものがある。
機関車の上も連結の間も人で真っ黒だった。
折角しがみついたものの汽車の進行する動揺のため、たちまち振い落されて、線路の上に無惨な姿を横たえるものもあった。ほんとの命がけで無事に運ばれたものも生きた心地がなかった。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
無蓋貨車って分かりますか。砂利や木材などを運ぶのに使われていた、屋根のない箱型の貨車です。そこに人が押し合って重なり合うようにして乗り込む。貨車だけでは足りずに機関車や連結器の上にも人が「真っ黒」に見えるほど乗っている。そんな状態で列車が走るのです。
当然、振り落とされてしまう人も続出したのでしょう。線路の上に無惨な姿を横たえたという表現は、単に怪我をしたということではないようです。廃墟となった横浜から列車で東京に向かうのも、文字通り「命がけ」だったというのです。
そんな中でも少しずつ応急の生きる手立てが進む
市中の焼け跡は焼けトタンを葺いた小屋が急造され、8日頃からようやく新しい木造のバラックも出来た。
1杯10銭の牛めし屋も埃の中にちらほら開業された。神奈川の高台には15日の夜電灯が点いた。藤棚では13日の夕、たらたら水道の水が洩れてきた。12日、横浜公園内で郵便事務所の開始することが張札で知られた。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
今回とり上げるページは、上の文章で終わります。地獄のような状況の中からでも、何とか立ち上がろうとする人間のしぶとさのかけらが感じられる文章です。しかし、記者がここまでに経験した横浜の惨状は、希望的な光をはるかに上回って余りあるものだったようです。
記者には「水道が復旧!」とは書けなかったのです。ようやく水道から水が出るようになったことを「たらたら、洩れてきた」と記すように、記者の心は震災後の街を生き抜いていく中で困憊し、磨り減っていたのでしょう。
廃墟からの復活。それは単なる言葉の表現ではなく、人間の生身が、本性までまるごと剥き出された上に切り刻まれ、それでも何とか生き延びた先にようやく見えてくる、小さな小さな光明であるように感じます。
関内、本牧、磯子、根岸、藤棚、神奈川、大岡川、赤レンガ倉庫…。関東大震災直後の横浜の街は、そんな極限の中にあったのです。
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