お世話になったその方の仮設住宅へは港から山の方へ向かう道を通って行った。津波で大きな被害を受けたその道の両側は、いつしか町中のガレキが集められ、積み上げられてガレキ置き場に変わっていった。
震災から1年。その方の仮設住宅へ通うたびにガレキの山はどんどん高くなった。大きな重機でも1台では積めないくらい高くなって、ガレキの山の途中にもう1台重機を上げて、中継しながら積み上げているほどだった。
「あれ、ガレキじゃねんだよ」
ある日、仮設住宅の彼女がつぶやくように言った。外からやってくるボランティアの中では「ガレキ通り」とか「ガレキロード」と通称する人たちもいた頃のことだ。
他人にとってはゴミのように見えるかもしれない。でも、あそこに積み上げられているものはすべて、津波を喰らうまでは誰かの大切な何かだったんだ。彼女の一言に教えられた。
その後、町なかのガレキ撤去は進み、ガレキの山もまた処分が進められてだんだん小さくなっていった。震災から3年たったいま、岩手県と宮城県のガレキ処理はほぼ完了したとニュースでは言っている。でも、作業が進んでいるとされる町でも、少し目を凝らすと、いたる場所に「津波を喰らうまでは誰かの大切な何か」を見出すことができた。そのことを少しでも伝えたいと考えて作ったのが「ガレキと呼ばないで」という写真記事だった。
【アーカイブス】ガレキと呼ばないで
かさ上げ工事が進む女川町。大型ダンプが走り抜けていく女川街道から少し入った住宅の跡地には、ところどころにこんな品が残されている。先日は立派な一眼レフカメラも見つけた。持ち主が取りに来ることのない品々を、ガレキと呼ぶのはできない。
この場所に積み上げられていたクルマたちは、いまは別の場所に運ばれたらしい。多い時期には数千台。三段重ねで積み上げられたクルマたちには悲しい話がある。たとえ廃車にするのでも、持ち主は車を確認しなければならないはず。それなのにずっと迎えにきてもらえず、海岸近くに積み上げられたクルマたち。
カールした針金の束がどうして地面から生えているのか?
陸前高田の町の中心部だったあたりで、不思議な物体に出会った。一目見ただけではいったい何なのか、まったく判らなかった。
被災地に残された被災物の中には、自然災害の恐ろしさを身を持って教えてくれるものが少なくない。これはかつて電柱だったもの。津波の烈しい波に薙ぎ倒され、引きずられるうちにコンクリートが剥がれ落ち、鉄筋として入れられていた針金だけが残されたのだ。
そうと気づいて体がふるえた。
この光景を見ると、やはり福島はほかの場所とは違うのだということを思わずにはいられなかった。美容院の割れたガラスの向うには泥まみれのカセットテープやCDが入れられたカゴ。きっと美容院の中でのお客さんとの楽しいお喋りの時間を、このカセットやCDの音楽が彩っていたのだろう。
店舗の中は申し訳なくて写真を撮ることができなかった。泥混じりの津波で掻きまわされ、水が引いた後のそのままの状態。放射能のせいで片付けすらできない無人の町に被災した物たちが残されていた2013年の富岡町。
なぜなのか理由は分からない。被害を受けた町を歩いていると、クツとナベによく出会う。大きな被災物が片付けられた後、まるで空き地のようになった場所にぽつんと落ちたままのクツ、そしてナベ。胸が締め付けられるのはなぜだろう。
気仙沼にあるリアスアーク美術館では、被災した物と被災直後の写真をとり交ぜた展覧会「東日本大震災の記録と津波の災害史」が常設展示されている。
「被災物」は学芸員の山内宏泰さんが提唱した呼び名。被災した物はガレキではない。それは、そこにあった人々の生活の記憶であり、生きたあかしであり、時には人知をはるかに超えた自然災害の猛威を教えてくれるものであり、町の復活に向けての課題を声なき声で語りかけてくれるものだ。
展示された被災物に添えられた言葉から、声なき声が聞こえてくる。たとえ小さくても「風化」にあらがう強い声が。
文●井上良太
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