造り酒屋の酒樽タンクが流れついていた場所の少し南で、こんな景色が見られます。
新しく立てられた電柱です。まだ立てられたばかりなので、素の状態の柱が立っているだけです。
でも、このあたりに立てられた電柱、ちょっと不思議なんです。
電柱に巻きつけられたお知らせには、やむを得ず許可なく仮設の電柱を設置したと書かれています。長く警戒区域として立入が制限されてきた楢葉町。避難指示解除準備区域となったいまでも、地元の人たちが普通に活動する状況にはないのです。
そして驚かされるのが右の写真です。右奥の方向にある海からやってくる何かに備えるかのように、心張棒のような支柱が2本も立てられていました。
でも、今日の本題はこの電柱ではありません。
連絡が取れないからやむを得ず、と立てられた電柱のそばに、津波で被災した物が流れ着いたのか、道路から撤去されたのか、残されています。
電柱を立てる上での連絡がつかないくらいだから、被災した物が持ち主と再会する機会はこれまでなかったかもしれません。
でも、ひとつひとつの被災物には、2011年3月11日まで、持ち主と過ごした時間と人肌の温かさが残されていました。
このソファは1人掛けだったのでしょうか。
それともシステムソファの一部?
懐かしいスタイルのサマーベッド。そう、ここは海のすぐ近く。東北というイメージからは想像できないくらい温暖なビーチが徒歩5分の場所に広がっています。
きっと、このサマーベッドも、ビーチパラソルやキンキンに飲み物が冷やされたクーラーボックスと一緒に、家族の海あそびのベースとして活躍したんでしょうね。
津波からすでに2年以上。海から来た泥水に流された後、700日以上の長きにわたって風雨や強い日差しに晒されてきたから、まるで10年以上も昔の廃材のような見る影もない姿。でもよく見るとそれぞれ小屋根の部材だったり、内装用の合板だったり、廻縁の一部だったり。
手前にある押入れの簀子だけじゃなく、ほかの材木も住む人の暮らしを支えてきた家の一部でした。
左のカーリーコードのように見えるのは、洗濯機の風呂水ポンプみたいです。
流されるうちに引っ張られて、らせん状のホースの骨がほどけてしまったようです。
右の写真の縁台は手作りです。ルーターのようなものでホゾを切って脚を差し込んで、真鍮釘が斜め打ちされています。きっとボンドが固まるまでの仮止め用に打った釘なんでしょう。もしかしたら、ボンドが固まった後は抜くつもりで、すべりの良い真鍮釘を使ったのかもしれません。
こちらの背負子はさらに手が込んでいます。
背当ての部分は樹脂製の平紐を編んだものです。手作りはこの部分だけかと思ったら、よく見ると金属製のフレームも、背負い紐もすべて手作りでした。
金属部分はビス止めで作られています。溶接を使わずに頑丈な構造を実現するために、考え抜かれたつくりのように見受けられます。背負い紐そのものも留め金を手で縫い付けているみたいです。
こんなにしっかりした背負子、いったい何に使われていたのでしょうか?
手づくりの才能にあふれる背負子の作者は、いまどこにいるのでしょうか。
縁があれば、ぜひお会いしたい。会って、この背負子のことをもっと聞きたい。手づくり工作の話で盛り上がりたいなあ…。
そんなことを思いました。
酒造工場の酒樽タンクが流れ着いた場所は、見れば見るほどたくさんの物語でいっぱいの場所でした。
じっくり見て歩けば、もっともっと多くの物語に出会えるはずです。
津波の恐ろしさはもちろんですが、そればかりではない、ひとがここで生きてきた証のような物語。(ガレキ)という呼び名で、この被災物たちが撤去されてしまうまで、集めていきたいと思います。
津波や災害から生きのびることと、ひとの生業のなかにある強いものを伝えるために。
福島県楢葉町
木戸駅周辺
●TEXT+PHOTO:井上良太(株式会社ジェーピーツーワン)
最終更新:
iRyota25
おばあちゃんが歩いたであろう道は、大型ダンプばかりが通る道に変わってしまったようです。2016年4月のGoogle Earthの画像では黒や青のフレコンバッグ(保管用大型土のう)や大量の伐採木らしきもの(あるいは廃材か)が並ぶ廃棄物の仮置き場になっているようです。近所に残っていた民家もすでに見られません。
pamapama
しょいこを背負っているおばあちゃんの姿が浮かぶようですね。「おばあちゃん」というのはあくまでも想像ですが、なんとなくそんな温かみを感じます。