左とか右とか、そういう分類や対立はもうやめたい。
松下竜一という作家がいた。「豆腐屋の四季」という一冊で、九州に暮らす貧しい生活作家として注目を集め、その後、近在の豊前火力発電所の反対運動などに身を投じた彼は、発電所建設を推進する側、いわば右的な人たちのみならず、当時さかんだった左的活動グループからも浮いた存在となり、しかし、自然と環境を守るとの一念を生涯押し通した。
以前キャンドルナイトの記事でエピソードを紹介したことがある。彼の「暗闇の思想」には、発電所建設の環境破壊に反対する活動の中で「発電所に反対するのに電気を使うのはおかしいのではないか」との批判を受けて、それじゃあ、と家の電気もこたつもぜんぶ消して、真冬にこども達、家族達と一緒に夜空を眺めるシーンが描かれていた。
彼は本質、左でも右でもない。人々とともに自然とともに、本来の生き方を追求する活動をしたにんげんだったと僕は考えている。
そんな彼が、こんな文章を残している。
松下竜一「暗闇の思想」を読む
だが、情勢は一挙に暗転した――
二月十九日、これまで豊前火力建設反対を決議していた唯一の関係自治体である椎田町議会が突如臨時議会で一転し、「発電所は公益事業であり、建設を認める」と議決したのである。
新聞は、「コペルニクス的転換」と皮肉って報じた。九電の裏工作の成果であった。もともと椎田町は反対運動の一番弱い地区であった。町議会が反対決議をして、町ぐるみで諸団体が「公害から椎田町を守る会」を結成しながら、皮肉にも、それゆえに反対運動の展開は停滞してしまったのだ。町ぐるみで反対を決めているのだから、運動の必要がないとう奇妙な情勢であった。九電がつけこまぬはずはない。一挙に議会で逆転され、と同時に椎田の「守る会」は機能をほぼ失ってしまったのである。
それが序幕であった。二十一日、福岡県と豊前市は、ついに「豊前火力建設に伴う環境保全協定」を九電との間に調印したのである。
私たちは怒りとくやしさで震えた。公民館学習会で、やっと初めて問題の本質を知り不安を抱く市民がふえ始めているのに、それを無視して押し切ったのである。否、「知る市民」が急速にふえ始めたことに驚き、あわてて押し切ってしまったというのこそ真相であろう。まだ地域学習会は七カ所も残っているのである。
松下竜一「暗闇の思想」
固有名詞を置き換えれば、2013年11月とか12月のできごととあまりにも似ていないだろうか。松下竜一が豊前火力の建設阻止に向けて活動していたのは、1970年代のことなのに。
その夜も公民館で、「残念ながら、けさ協定は結ばれてしまいました」と、私は告げた。しらじらしくも、なお中立司会をよそおいつつ、豊前市当局はもはや意義を失した地域学習会を予定通り続けるのである。落胆は深いが、私もまた懸命に訴えていくしかない。怒りをこめて、私は唐突な協定調印の非を説いた。一人の農業のおじいさんが立ち上がった。
「協定が結ばれたちゅうけんど、そらあどうもおかしいのう。わしんとこには、なあも相談にこんじゃったが」
おじいさんの発言に、あちこちで失笑がわいた。このおじいさんは、これほど重大な協定が結ばれるについては、豊前市当局は当然自分にもその可否を相談に来るはずだと考えているのだ。まさか百姓のおじいさん一人ひとりにまで意見を訪ねてまわるはずはない。それは今の社会機構を知る者の常識からすれば、つい失笑したくなるほど突飛な発想ですらある。だが考えてみれば、むしろこのおじいさんの考え方こそまっとうなのであり、それを失笑する常識人こそ現代の「衰弱した形式民主主義」にすっかりならされてしまっているのだ。真の民主主義とは、本当に一人ひとりの声に耳を傾けることでなければなるまい。現代の複雑多岐な社会機構でそれは現実出来に無理としても、そういう姿勢だけは根本に持たねばなるまい。
松下竜一「暗闇の思想」
「わしんとこには、なあも相談にこんじゃったが」
この古老の言葉を僕たちは何度でも噛み締めなければならないだろう。今だって、僕らの何も知らないところで、事は進められているのかもしれない。
いったい、豊前市当局は、協定調印にあたってどの程度に市民の声を聞く努力を払ったのか。確かに市議会はほとんど全員一致で賛成した。だが豊前市民は豊前火力問題を想定して試技を選任したわけではないのだ。彼らに火電賛否の票を預けたわけではない。彼らが火電問題を討議するに十分な知識を有しているとも、市民はしんじていない。まして豊前市議の大半は開発に利益関係の深い土建業者で占められているのであってみれば、とうてい一般市民の「声」の代弁者とは呼べまい。
そこで市当局は「民主的手続き」を整えるために市民代表で構成する公害対策審議委員会を作り、これに諮問したのである。そして委員会は協定案了承の答申を出し、これで「市民の声」は賛成であったとして「民主主義の手続き」は完了したわけである。
ところでこの公対委は市長の選任であり、岡本二郎会長は九電のコンクリート電柱を造る九州高圧コンクリートKK社長である。なんのことはない、九電の身内である。
松下竜一「暗闇の思想」
読んでいただければ、それぞれ思うところがあろうと思うので、事細かく説明はしたくない。みんなが思うこと、おそらくそれが真実なのだろうから。
特定秘密保護法でもそうだった。NHKの経営陣の人事についてもそうだった。集団的自衛権とか憲法改正とか、これからの政治のメニューにも同じ図式が繰り返されるのかもしれない。民意を汲み取るという目的の組織が実は、力を持つ人たちの手でコントロールされているーー。
こんなおかしな話はない。誰が見たってそうだろうから、あえて議論するまでもない。ただ、問題なのは、誰が考えたっておかしな話がどうして変な方向に進んでいくのか。その原動力が何なのかということだ。
よく言われるのは金だ。たしかに金で動く人はいるだろう。でもそこには程度の問題がある。あまりにひどい話(たとえば原子力発電のコストとか)が押し通される要因を、ただ金だけに求めるのは難しいのではないか。
お偉いさんがみんな「大丈夫」と言ってるのだから大丈夫だろう。でも、ちょっと考えてみただけで、無理なのは分かる。無理なことが自明なのに「大丈夫」と押し通す人たちの向こう側に何があるのか。それは金だけじゃないだろう。もちろん権力でもなさそうだ。
話は原発に限ったことではない。「金」だけでは納得できない「方向性」が押し通されていくその原動力は、過去の戦争にもはたらいていただろう。そしてこれから迎え入れることになるかもしれない戦争にも同様にはたらくかもしれない。
そのヒントになる文章を太宰治が「家庭の幸福」という短編に書き切っている。太宰治というと「走れメロス」とか「斜陽」とか、名品をものした作家という評価がある一方で、ダダイズムの自堕落な小説家とか、文学少年少女が若いうちに通過儀礼のように経験するはしかのような存在とする声も少なくない。しかし、彼のこの短編は未来に向けての現代の問題を鋭く突いている。
物語はこの一文から始まる。
「官僚が悪い」という言葉は、所謂(いわゆる)「清く明るくほがらかに」などという言葉と同様に、いかにも間が抜けて陳腐で、馬鹿らしくさえ感ぜられて、私には「官僚」という種属の正体はどんなものなのか、また、それが、どんな具合いに悪いのか、どうも、色あざやかには実感せられなかったのである。
「家庭の幸福」太宰治
ストーリーは、例によって戦後の太宰の自堕落な家庭生活を垣間みさせるような描写から始まるが、本筋は文章の半分以降。「街頭録音」という、「所謂政府の役人と、所謂民衆とが街頭に於いて互いに意見を述べ合う」という番組を巡っての話である。
所謂民衆たちは、ほとんど怒っているような口調で、れいの官僚に食ってかかる。すると、官僚は、妙な笑い声を交えながら、実に幼稚な観念語(たとえば、研究中、ごもっともながらそこを何とか、日本再建、官も民も力を合せ、それはよく心掛けているつもり、民主々義の世の中、まさかそんな極端な、ですから政府は皆さんの御助力を願って、云々(うんぬん))そんな事ばかり言っている。つまり、その官僚は、はじめから終りまで一言も何も言っていないのと同じであった。所謂民衆たちは、いよいよ怒り、舌鋒(ぜっぽう)するどく、その役人に迫る。役人は、ますますさかんに、れいのいやらしい笑いを発して、厚顔無恥の阿呆(あほ)らしい一般概論をクソていねいに繰りかえすばかり。民衆のひとりは、とうとう泣き声になって、役人につめ寄る。
寝床の中でそれを聞き、とうとう私も逆上した。もし私が、あの場に居合せたなら、そうして司会者から意見を求められたなら、きっとこう叫ぶ。
「家庭の幸福」太宰治
この一段を受けて、太宰の心の中での反駁が原稿用紙3枚以上も続く。迎合とか、お調子とりとか、言いたい方は言えばいいと思う。この短編の核心はさらにこの先にある。それは小説に登場する官僚が、家族たちと一緒に街頭録音の録音放送を聞く場面だ。
放送開始。
父は平然と煙草を吸いはじめる。しかし、火がすぐ消える。父は、それに気がつかず、さらにもう一度吸い、そのまま指の間にはさみ、自分の答弁に耳を傾ける。自分が予想していた以上に、自分の答弁が快調に録音せられている。まず、これでよし。大過無し。官庁に於ける評判もいいだろう。成功である。しかも、これは日本国中に、いま、放送せられているのだ。彼は自分の家族の顔を順々に見る。皆、誇りと満足に輝いている。
家庭の幸福。家庭の平和。
人生の最高の栄冠。
皮肉でも何でも無く、まさしく、うるわしい風景ではあるが、ちょっと待て。
「家庭の幸福」太宰治
小説家の妄想は、官僚の家庭での幸せあふれる時間から、庶民の時間へと横滑りする。はたして同じことが、ふつうの庶民の中にもないだろうか。問題は官僚が悪いとか、そういうことにとどまらないのではないだろうかと。そして最後の一文、
「曰(いわ)く、家庭の幸福は諸悪の本(もと)。」
へと続くのである。
三島の「言成地蔵尊」の話でも、「理」と「義」について考えた。
同じことなのである。
豊前火力の協定調印に向かって尽力した役場の人たちも、九州電力の社員達も、突き詰めれば「家庭の幸福」のために仕事をしてきたに違いないのだ。彼らの行動を誰が責め立てることができようか。
民主的手続きを整えるために集められた「公害対策審議委員会」のメンバーだって、いくら電力会社の関係者によって占められていたとしても、一人ひとりを見てみればおそらく「家庭の幸福」のために、波風を立てず、自らの社会的立場や待遇がよりよい方向に向かうようにと考えて、私見を捨て、大勢に乗ずることで、社会の安寧に貢献しようとしたのであろう。
金のためなんかじゃない。
そこには一面の「理」がある。
だがしかし、そこに「義」があったか?
改めてそう問うことは、経験したことのない未来を迎えるこれからの時代にあっては、たいせつなことなのではないか。
繰り返します。厳しい言葉ではありますが考えてみましょう。太宰の言葉。
「曰く、家庭の幸福は諸悪の本。」
文●井上良太
最終更新: