自分たち家族は浜松で避難生活。両親は南相馬。いますぐにでも戻りたいけれど、それができない(2011年11月27日)

iRyota25

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川里女久美(めぐみ)さんとご家族 (南相馬市から浜松市へ避難)

川里女久美(めぐみ)さんとご家族 (南相馬市から浜松市へ避難)

   福島県からは6万人を超える人々が県外へ避難し、見ず知らずの土地で生活しています。夫の実家の家族、妹家族も含め3世帯で静岡県浜松市で避難生活を送る川里女久美(めぐみ)さんもその1人。NPO法人伊豆どろんこの会が静岡県内への避難者支援のために開催した「伊豆の秋は自然楽校」で出会った川里さんは、そこにいるだけで周囲がぱっと明るくなるような女性です。彼女が語ったのは、目に見えない放射線への恐怖と、愛する郷里へ戻ることのできない苦しさ、そして福島第一原発から北へ20数キロにある南相馬市原町区でいまも生活する両親への思いでした。

この子と家族を守らなければ。それしか考えられませんでした

   その日は2週間前に生まれた赤ちゃんのお披露目をしようと、南相馬市の私の実家に飯舘から叔母たちを招いていたんです。地震は、赤ちゃんを抱っこして庭先に出た時に起こりました。物凄い揺れで立っていられなくて、とっさに子供に覆いかぶさって地面にうずくまりました。    どれくらい揺れたかわかりません。揺れがおさまった時、とにかく赤ちゃんのミルクをなんとかしなければと、無我夢中で離れの中に入って。でも、中がどうなっていたのか、よく覚えていないんです。なんとかミルクと哺乳瓶とおむつを持ちだしたら、ちょうど母と叔母が到着しました。仕事の打ち合わせでいわき市に向かっていた父もすぐに戻って来て、とにかく早く避難しようということになったんです。

   その時はまさか津波がくるとは思っていませんでした。でも赤ちゃんがいるので、お湯があるところでなければと、国道沿いの道の駅に母と行くことにしたんです。父は海沿いにあるお得意さんの会社で、従業員が作業しているかもしれないから確認に行くということで、そこで別れました。    道の駅に行くことに決めたのですが、妹や甥っ子たちのことも心配で、小学校を回らなければとか、携帯の充電器を買っておかなきゃとか、いろんなことが気になって、ふつうの気持ちではいられませんでした。充電器を買いにコンビニに入った時、ちょうど夫の車が通りかかったので呼びとめて、私たち家族3人はそこで落ち合うことができました。妹ともその後すぐに合流。海沿いに向かった父も、間一髪で津波を逃れて家族全員が集まることができました。うちは本当に運が良かったのだと思います。

川里さんのご両親に見せてもらった震災直後の実家の写真

川里さんのご両親に見せてもらった震災直後の実家の写真

   父は地震の前から何度も津波の夢を見ていたそうです。浜辺の松林の上に煙のようなものが舞いあがり、津波が町に向かって崩れ落ちる――。夢で見たのと同じ光景を目にして、急いで海から離れる方向に走り通したと言っていました。    私たち姉妹と弟はみんなサックスをやっているので、妹は一度楽器を取りに戻ろうとしたんです。でも引き止めてよかった。河口から1.2キロくらいの場所にあった実家は、津波の被害をもろに受けてしまいました。離れは基礎だけを残して流出。母屋も1階部分は津波に壁が抜かれてしまって、柱の上に2階部分が乗っているような状態でした。うちは全員無事でしたが、ご近所には流されてしまった方も少なくありません。

「母親」の心を揺さぶる放射能の恐怖

雪の積もった夜の飯舘村(2012年1月)

雪の積もった夜の飯舘村(2012年1月)

   その日は、飯舘村にある私の夫の実家に寄せてもらうことにしました。余震はまだ続いていましたが、山あいの飯舘なら津波の心配はありません。そしたら、飯舘に避難した翌日から原発事故のニュースです。立ち入り禁止区域や警戒区域は発表されるたびに大きくなっていきました。私は頭がおかしくなりそうでした。    母と妹は3月14日に原発が爆発する音を聞いているんです。荷物の整理で南相馬に出掛けていて、ちょうど携帯で話をしている時、ボンという音がしたと言うんです。    原発が爆発と聞いてイメージしたのは原爆でした。「もうここにはいられない。何もいらない。とにかく逃げなければ」。子供のことを思うともう居ても立ってもいられない。どこかに避難することしか考えられません。テレビをつけてもメルトダウンとかそういうことばかりで、もうニュースを見るのもイヤになっていました。

   当時はガソリンが不足していたんですが、幸い夫の実家には車が何台もあったので、全員が避難できるようにワゴン車と乗用車の2台にガソリンを集めました。農業機械からもガソリンを抜き取ってかき集め、すぐにでも逃げられる準備をしました。    父は「残る」と言いました。でも私たちは16日の朝6時、雪が降る中、飯舘を出発しました。

原発から逃げて走った18時間は戦争のようでした

   行くあてはありませんでした。「とにかく遠くへ」。私の頭の中にはそれしかありません。しかし中通り地方のガソリンスタンドはどこも長蛇の列。しかも2,000円分しか売ってくれません。どこまで逃げられるだろうか。いざとなったら那須塩原で車を乗り捨てて新幹線で逃げようか。そんなことが頭の中でぐるぐる回っていました。    その時、父から電話が入ったんです。「いまどこにいる?逃げるのなら、家族みんなで逃げよう」。    父が合流してくれたのは本当に心強かったです。栃木県で待ち合わせて12人で関東方面に向かいました。 地震の後、妹の知人で群馬に住んでいる人から「自分のところの学生寮に避難すれば」と言われていたので、最初は群馬に向かうつもりでした。そしたら急に「ごめん、国を通さなければ貸せなくなった」って言うんです。いま思えば、被災者支援のための一括借り上げだったのですが、自分たちにとっては望みが断たれたような感覚でした。

   当時、弟は音楽の勉強のためフランスに留学していたんですが、Facebookやメールで海外からの情報をどんどん送ってくれました。離れているだけにとっても心配だったのだと思います。弟が言い続けたのは「まだそんなところにいるのか。とにかくそこから逃げてくれ。できれるだけ遠くに。できれば西日本に避難してくれ」。家族の中で一番危機感を強く持っていたのは弟だったかもしれません。    そんな時、父の実兄に当たる伯父から「浜松に来い」と声をかけてもらいました。「高速のサービスエリアにあるスタンドは営業していると聞いている。もしガス欠になったら、こっちからガソリンを届けに行くから」とまで言ってもらって。うれしかったですね。浜松なら福島の原発から何百キロも離れている。浜松に行けばなんとかなる。そんな希望が見えた気がしました。

   しかし、車には生まれたばかりの赤ちゃんがいました。小学生の甥っ子も2人います。そして酸素吸入が必要な飯舘のおばあちゃんもいました。ふつうならそんな長旅は無謀でしかありません。それでも、その時はふつうじゃなかった。そう、ほとんど戦争みたいな感じでした。私たち12人は、18時間かけて浜松へ向かったのです。    浜松では伯父の家にお世話になった後、3月21日には市営住宅をお世話してもらえました。対応がすごく早いので驚いたくらいです。市役所の方も民生委員の方も、ほんとに力を入れて面倒を見てくれました。感謝の言葉しかありません。

信じられないから自分たちで決めるしかない

   原発事故から逃れて、ようやく浜松に避難できたのですが、父にとっては「やっぱり地元にいて、地元を守っていかなければならない」という思いが強かったようです。父は南相馬市の原町区で電気設備の会社を経営しています。従業員も20人います。母も生命保険の仕事を30年以上続けてきたので地元にたくさんのお客さんが待っています。    けっきょく2人は3月の末に浜松から南相馬に戻りました。義父も農業機械関係の仕事で東北に戻りました。    南相馬市の原町区は警戒区域のすぐ外側の町です。父の会社からほんの数分走れば「立入禁止」のゲートがあるような場所なんです。娘としては、どれだけ危険なのか分からない場所にいてほしくはありません。強制的に避難させられた方がよかったのではないかと思うことさえあります。でも、仕事や従業員のこと、お客さんのことを考えると投げ出すわけにはいかないという気持ちも、とてもよく分かるんです。

   もちろん、私もできることなら自分の郷里で暮らしたいと、いまでも思っています。でも子供の健康や将来のことを考えると、簡単に判断できることではありません。    福島の友人と電話で話していると「なんで戻ってこないの?」と、避難していることを不思議がる人もたくさんいます。とても仲の良い人でもそうです。そんな感覚の違いは経験しなければわからないと思いますが、とても辛いものなんですよ。それでも自分としては「あの時に戻っていなければ」と後悔することだけはイヤなんです。

   原発が爆発してから後、必死で逃げていた間も、ずっと頭にあったのは、「どこまで本当のことを言っているのか、国を信用できない」ということです。その不信感はいまも変わりません。    夫はこれまで浜松でアルバイトをしていましたが、正社員としての仕事を探すと言うようになりました。私も福島で働いていた会社の浜松支社での復職を検討しています。南相馬が大好きで、本当はいますぐにでも戻りたくて、両親や義父のことが気がかりでならない私たちにとって、「当面の結論」はこれしかないのです。

川里女久美(めぐみ)さん

川里女久美(めぐみ)さん

   福島県原町市(現・南相馬市)出身。母と同じ生命保険会社に勤務するかたわら、女性だけのサキソフォン四重奏「インカンタトーレクァルテット」のリーダーとして音楽活動を続けてきた。地元のイベントはもちろん、宮城県や埼玉県などで演奏する機会も多かったという。津波で楽器は流されてしまったが、何本かは奇跡的に実家の近くで見つかったとか。震災を生き抜き、修復された楽器を使って、避難先でお世話になった方々へのお礼や、被災された人たちを勇気づけるために、音楽活動を再開したいと語る。

川里女久美さんとご両親の完戸富吉(ししど・とみよし)さん・幸子(ゆきこ)さんたちご家族の震災後を紹介する記事はこちらです。

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 ずっと地元で生きてきたから、復興の現実を見つめる目はシビア。それでも弱音を吐かない強さ
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 いまは仕事はあるけれど――。 完戸さんが危惧する数年先の南相馬(2012年1月21日)
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編集後記

   ご両親は東京電力福島第一原子力発電所から半径20~30キロ圏に当たる「緊急時避難準備区域(2011年9月30日に解除)」に暮らし、女久美さんは夫と0歳の息子、夫の両親、妹の家族とともに静岡県で避難生活。夫の兄弟家族は北海道へ避難。かつては南相馬市と飯舘村という隣り合わせの地域で生活していた人々が、ばらばらに暮らすことを余儀なくされています。その原因は原発事故に他なりません。明るく快活な女久美さんの人柄と、語られる言葉の重さとのコントラストをしっかり受け止めなければならないと感じました。(2011年11月27日)

文・構成●井上良太
取材協力・写真協力:NPO法人伊豆どろんこの会

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