3月11日、夜中近くに灯をともす。
三年前のあの夜、
いわき市久之浜の遠藤さんは、高台に避難した後、何度も何度も自宅兼店舗の建物に近づこうと津波後の町におりていっていた。がれきの山を乗り越えて。迫り来る火災をも気に留めることなく。
双葉町の佐藤さんは、地割れでふつうのクルマでは走れなくなった道に、趣味のオフロードバイクで飛び出して行き、交通整理に当たっていた。まさか送電鉄塔が倒れたことで福島第一原発が冷却機能停止に向かっているとは想像すらしていなかった。
南相馬市の川里さんは、実家の家族とともに夫の実家のある飯舘村へ避難した。乳飲み子がいた。少しでも原発から離れたかった。まさか飯舘村の方向に放射能を含むプルームが流れてくるなど、思いも寄らなかった。
石巻市では石巻日々新聞社の近江さんが情報の断絶に危機感を募らせていた。このままでは暴動だって起こりかねない。情報が生命を左右する。それなのに、情報機関である自分たちが動けない。活路を見つけ出さなければと考え続けていた。
がんばろう!石巻の看板を震災1カ月後に立てることになる黒澤さんは、港近くの松の木の上にいた。いや、ようやく木からおりることができた頃か。黒澤さんは地震の直後に奇跡的に奥さんに通じた電話でのやり取りを悔やみ続けていた。電話はもう何時間も前から不通となっていた。
女川の石田さんは近所の数家族とともに裏山に駆け上がって難を逃れたものの、降りしきる雪の中、グループにいた赤ちゃんやこども達の命を守るためにどうすればいいか、必死で考え抜いていた。
女川の青木さんは地震発生の瞬間、漁港の埠頭の先端にいた。沖に逃げる漁船に乗り込むことも考えたが、町に残している家族の元へと、防波堤の巨大ブロックがひしめくように揺れる中、一気に埠頭を駆け抜けて店舗へ、そして家族ともども高台へ走った。
女川の檜垣さんは通りがかったタクシー運転手に、「何してる、津波がくるぞ、すぐ逃げろ」と怒鳴られ、我に返ってクルマを高台に走らせた。その晩は眠れなかった。カーラジオから聞こえてくる、「女川町役場とは連絡がとれません」「仙台市の荒浜地区では200から300体の遺体が打ち上げられているとの情報があります」との放送に、現実離れした内容への当惑と同時に憤りを感じていた。200から300体のご遺体というアバウトさはいったい何なんだろう。
その日、檜垣さんは自分にこう言い聞かせて、クルマの中で無理矢理眠ろうと努めたという。明日になったら、いま目の前で起きていることは全部夢で、元通りの町がよみがえっているのではないか。
石巻の佐藤さん、松本さんなど数多くの人たちが言う。津波の前に避難場所に集まってきた人たちはみな着の身着のままで食べ物、飲み物等ほとんど持っていない。たまたまポッケに入っていたあめ玉とか、たまたま持っていたペットボトルの飲み物を分け合って一夜を明かしたと。
夜、灯りのなかった場所も少なくない。次の朝になっても孤立したままで、限られた水分とお菓子等の食料で、どう食いつなぐかが差し迫った問題だったと話してくれる人も多い。
公の避難所ではない場所に逃げた人たちには、「孤立」の恐怖が大きかった。石ノ森漫画間の大森さんは、翌日から避難者がいることを市当局に伝えるため、決死隊の覚悟で真冬の水を泳ぐようにして市役所へ向かった。
いわき市久之浜で神社の禰宜を努める高木さんは、地元の人たちの生活の歴史を刻んできた文物などの整理と避難を夜通し続けていた。火の手はすぐ近くまで迫っていた。プロパンガスのボンペがまるで爆弾か花火のように空中に飛び上がって破裂する。その音が迫ってくるのを感じながら、朝まで作業を続けていた。
いわき市内の勤務先から夜になって久之浜にたどり着き、夜中からは父親と二人で神社の作業を夜通し続けてきた高木さんは、3月12日の朝日が海から昇るのを、特別な感慨で見ていたという。
その朝日は町の被害の全容を、火災の煙が立ち上る中おぼろげながらもあからさまにするものでもあったからだ。
その日から
3月11日、14時46分。その時刻に発生した巨大地震。大津波に襲われたのは、地域によって時間差はあるものの15時30分前後。さらにそこから、大震災の被害が起こっていった。
起こったこと。多くの人たちが死に追いやられたこと。生き残った人の苦難が始まったこと。せっかく救助されたのに、この夜のうちに命を落とした方がた。数日のうちに亡くなった人たち。
あの日何が起きたのか、ではなく正しくは「あの日から何が起こったのか、いまどうなのか、将来にどうつながっているのか」。
3月11日はそのはじまりの日。今日から四年目です。
文●井上良太
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