行って、会って、話をする。「自分たちだからこそ」の支援はきっとある。(2011年10月18日)

iRyota25

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河合孝彦さん(NPO法人 伊豆どろんこの会理事)47歳

河合孝彦さん(NPO法人 伊豆どろんこの会理事)47歳

2011年3月11日。東日本大震災のニュースを目にした人の多くが思ったはずだ。自分にできることは何だろう?震災の3週間後に被災地に入った“お笑い福祉士”めんぼーくんこと河合孝彦さんの思いも同じだった。「自分だからこそできる形で被災者のお手伝いがしたい」。そんな思いを持ち続け、現在も地元と被災地を往復する日々を送るめんぼーくん。彼が被災地での活動に取り組むようになった当初、何を感じ、どんな活動をしていたのかリポートする。

   本名よりも、地元では“お笑い福祉士めんぼーくん”として知られる河合孝彦さん。町を歩いていると、学校帰りの子どもたちやお母さん方、さらにはご年配の方々から次々と声を掛けられる。福祉関係の仕事のかたわら(一環として)、地域密着の“パフォーマー”としてみんなに親しまれてきたから、地元での知名度は抜群なのだ。そんなめんぼーくんが東日本大震災の被災地に入ったのは、2011年4月1日のこと。支援物資を満載したトラックを運転して郡山市、伊達市、いわき市など福島県内の避難所を回ったという。

   「避難所の中に入ったのは伊達市の梁川高校の体育館が最初だったかな。中に入って驚いたのはほとんど音がしないこと。中には足の踏み場もないくらい、たくさんの人がいるんですよ。それなのに聞こえて来るのは、音量を絞ったNHKの音声と、あちこちからの咳払いの音だけ。しーんと静まり返っているって言うより、逆にもっと静かな感じでしたよ」

   精神保健福祉士として、たくさんの人々に接してきためんぼーくんだが、この時は今までにない空気の重さを感じたという。

   「たまたま僕たちがいた時に、ミュージシャンがやってきてギターを弾いて歌をうたったんです。被災者の方々も手拍子をしたりはしているんだけど、僕はなにかトンチンカンな感じがしました。阪神淡路の時と同じで、今は“パフォーマー・めんぼーくん”の時期ではなく、“コミュニケーター”に徹する時なんだと直感しました」

   支援物資を届けるのがこの時の目的だったが、めんぼーくんの中には、被災地に行く前から「できるだけたくさんの人たちと話をしよう」という思いがあった。最初に入った避難所で、ちょっとショックを受けたものの、めんぼーくんは心に決めていたことを、被災地の避難所を回りながら実行していく。

なんでもない、ふつうの話で繋がっていく

   「まだ震災から3週間という時期だったから、被災地は混乱の極みでした。町はがれきの山。道路は寸断されているから、地図を見てもなかなか目的の避難所にたどり着けない。やっとの思いで到着しても、話が通じるボランティアスタッフがいなかったり、物資を届けに行っているのに胡散臭い奴じゃないのかと怪しまれたり」

   それでもめんぼーくんは、いつもと同じように行動したという。「こんにちは」と誰にでもあいさつし、「日なたは暖かいね」と気やすく話しかける。小さな子どもが1人でいたら遊んであげる。菜っ葉を茹でているお母さんたちがいたら、「そのナベ重たそうだけど、持ちましょうか」とか「こう見えても実は料理も得意なんですよ」とお手伝いしたりする。

   「コミュニケーションは笑顔と言葉のキャッチボール。ふつうに話しかければ、相手もふつうに返事をしてくれる。それで会話になっていくんですね」

   初対面の相手でも、すっと中に入っていく。警戒心を起こさせることなく、昔からの知り合いのように話ができる。ソーシャルワーカーとして心に痛みを持った人たちとの交流の中で培ってきた、めんぼーくんならではのコミュニケーション能力だ。

   「本当はみんな話をしたいんですよ。とくに地震や津波の後のあんな状況だとね。だから話す内容もごく当たり前のこと。『地震の時はどうでした?』なんてことは聞きません。どうしても誰かに話したくなった時に、どんなことでも聞いてあげるよってスタンスが大切なんです」

   この時、めんぼーくんには、コミュニケーション能力に加えて、もうひとつ魔法のアイテムがあった。

   「出発前にね、東北に行ってくるんだって話したら、いろんな人からいろいろなものを託されたんですよ。支援仲間の奥さんでパティシエをやってる人からは、手作りマドレーヌを段ボール箱にいっぱい。地元のイチゴ狩り農園からは手作りジャム。手作りってのが良かったのかな、おいしい食べ物があると、自然と仲良しになれちゃうんです」

   震災直後には、避難所で甘い菓子パンばかり配給されるので被災した人々が困り果てていたという話もあったが、「おいしくて」しかも「手作り」となると話は別だ。

   「いわき市の湯本高校の避難所では、ムーミンママって呼んでいるボランティアリーダーの佐藤とみ子さんとマドレーヌで盛り上がっちゃいました。『これおいしいわね』『レストランやってる人の奥さんが焼いたんですよ』『さすがプロは違うわね』『料理の方もおいしいから、今度炊き出しに来ましょうか?』『ホント!ぜひ来てほしいわ』みたいな感じですね」

   さっそく翌週には、静岡県から仲間が炊き出しの準備をして駆けつけたのだとか。

   話をしたり笑ったり、一緒においしいものを口にしたり。そんな自然なコミュニケーションを通して、めんぼーくんは被災地でのネットワークを少しずつ広げて行った。

青く広い空の下で語られたこと

   福島県から宮城県へと支援の足を伸ばし、数多くの避難所を訪問しては、炊き出しや被災者とのコミュニケーションといった活動をめんぼーくんは続けた。そんな中で、被災地によって、そして避難所によって、置かれている状況や待遇に大きな違いがあることに気づいていったという。

   「びっくりしたのはね、何日間もお弁当のメニューが変わらないっていう避難所があったこと。好き嫌いがない人でも、毎日唐揚げ弁当が続いたら気持ちが萎えますね。だから、せっかくのお弁当なのに大量に残っちゃう。唯一選べたのは、おにぎりの具が梅干しかおかかのどちらか。炊き出しで温かいものをたくさん食べていただきたいと思いました」

   阪神淡路大震災の時と違って、ネットを見ればさまざまな情報を手に入れることができる。多くの人はそう感じていただろう。各避難所からの救援要請も毎日のように更新されていたし、支援に対するお礼の言葉もたくさんアップされていた。1カ月ほどたった頃から新聞やテレビのニュースには、震災から力強く立ち上がる東北の人々といったストーリーのものも増えていたと思う。しかし――。

   「いわき市の久ノ浜では、避難所で会ったおじいさんが、海の方まで町を案内してくれました。久ノ浜は福島第一原発から30キロ圏のすぐ外側の町。地震と津波、その後発生した大火災で町が壊滅状態になった後、原発の放射能が追い打ちを掛けた。さらには組織的な窃盗団が家を荒らして回った。避難所の中でも盗難が続出した。おじいさんはね、『久ノ浜は五重苦だ』って言うんですよ。二つや三つの苦労なら耐えるだろうが、こんな目に遭ってしまって、人がどんどん町を離れていく。この先、久ノ浜はどうなるんだろうなって。建物がなくなって、妙に広く見える青い空の下で、真っ青な海を眺めながら、僕たちは、ただお話を伺うだけでした」

   陸地に乗り上げた船や、骨組みだけ残るビル、津波映像を撮影した高台から見た現在の町の景色……。そんな映像を繰り返し目にすることで、被災地のことを何となく分かったような気になっていなかっただろうか?被災地には、日本人として知っておかなければならない話が、まだたくさん残されている。

大人の時間を作ることで子どもが元気になる

   炊き出しやパフォーマンスの他にもうひとつ、めんぼーくんと彼の仲間たちには、どうしても実現したいことがあった。それは、被災した人々を伊豆の温泉地に招待して、つかの間でもいいから、のんびりリフレッシュしてもらうショートツアーの実施。

   「被災地でたくさんの人たちと会った中で、ちょっとの時間でもいいから親子分離が必要かなと思いました。避難所では親と子が一緒に過ごす時間があまりにも長いので、夫婦だけの時間、子どもだけの時間がありません。大きなショックの後だから、子どもたちは親に強く依存するようになっていました。幼児がえりしたり、逆に親に心配をかけないように“いい子”を演じたり。親も子も疲れて、“らしくない”状態でした。だから被災地では子どもたちと目いっぱい遊びましたよ。わがままを言わせ、子どものオモチャになりました」

   家族を失い、住む場所を失くし、仕事の目途も立たない。生活を立て直すために考えなければならないことが山ほどある。しかし、学校が再開されるまでの間、子どもたちはずっと避難所で過ごすことになる。震災後の埃や放射能の影響で子どもたちを外で遊ばせることもできない。昔のようにガキ大将が小さな子の面倒をみたり、近所のおじさんが遊んでくれるわけでもない。生活再建のための「大人の仕事」と子どもの世話の板挟みで、大人たちが精神的に消耗しているとめんぼーくんは感じていたのだ。

   「最初に被災地で炊き出しをした時のことですが、夕食の後、子どもたちの世話をしてもらえないかと頼まれたことがありました。補償についての話し合いがあるので、その間だけでもということでした。炊き出しを通じて、子どもたちと仲良くなっていたから、安心して任せられると思ってもらえたんでしょうね」

   その時の写真を見せてもらった。小学校低学年の子どもから高校生まで、幅広い年代の子どもたちが一緒になって、ポップコーンを作ったり、風船遊びをしたり。子どもたちの目がキラキラしているのが印象的だった。その間、大人たちは体育館の中で将来のための「大事な話」に集中できたことだろう。

   「やっぱりこういうことが、僕たちだからこそのお手伝いのやり方なんだと再確認しました」

   めんぼーくんはその後、仲間たちとショートツアーの実現に向けて走り始めた。

   東日本大震災が起きた時、みんなが思ったはずだ。「自分にも何かできることがあるはずだ」と。ボランティアとして被災した人たちをサポートするのも支援のひとつの形だろう。物資を提供することも、募金をすることも、ネットを通して応援の言葉を贈ることも。

   私たちの「仲間」である被災地の人たちのためにできることはまだまだたくさんある。時間の経過とともに変化していく被災地のニーズを受け止め、自分たちにできる形で応援を続けて行きましょう!

河合孝彦(かわい・たかひこ)47歳   
「お笑い福祉士めんぼーくん」として地元・静岡県東部で活動する精神保健福祉士。震災直後から被災地で支援活動に奔走。初対面でもすぐに仲良しになれる能力の持ち主。子どもたちと関わり過ぎたせいか両膝を傷め、2011年には2度の手術を経験。9月よりNPO法人 伊豆どろんこの会理事。

編集後記

自分たちにできる支援って何?長時間のインタビューの中で、めんぼーくんが重要なヒントを語ってくれました。

「子どもたちが日課として三度の食事の準備をしていた避難所があったんだけど、自衛隊がやってきて、毎日炊き出しをしてくれるようになった。いい話ですよね。でも、それまでやってた仕事がなくなったせいで、子ども達が自堕落になっちゃったんだって。やることがないからマンガを読む、ゲームをする、何もしないでごろごろしているだけ…。同じことは、大人たちにも言えるかもしれませんよね」仕事や生きがいを再建できるようなお手伝いが、これからの支援の大きな柱になるのは間違いないと感じました。

取材・構成:井上良太(ジェーピーツーワン)/写真提供:白井忠志氏(NPO法人伊豆どろんこの会)

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