道慶さんの祠のすぐ近くにトンネルがある。いまや草ぼうぼうで、遠目には分かりにくいが、道慶さんの祠の前にはJR大船渡線の線路が走っていた。こちらは道慶さんのように400年もむかしのことではない。わずか6年前のこと。
津波の被害が大きかった場所では、線路はおろか路盤まで失われてしまい、大きな岩盤が露出しているところもある。6年前の巨大津波は気仙川を遡り、この場所よりもはるか上流、写真の左に見える高速道路の橋よりもさらに上流まで達した。竹駒の集落を襲った奔流は、大船渡線の鉄橋をも破壊したほどだ。
それでもトンネルの近くには、津波の難を逃れて線路が残っている場所もある。
大津波の後、6回の芽吹きと6回の冬枯れを経て、線路はほとんど枯れ草に覆われているが、ほんの6年前までこのレールの上を列車が走り、その列車には気仙沼や一関、あるいは大船渡方面に通学する高校生たちや通勤客、買い物や友人に会いに行く人や観光客、そして年に数回ふるさとに帰省する人たちが乗っていた。さまざまな思いやドラマを載せた列車が走っていた。
「信じられないかもしれないけど、オレの友だちなんか高校の頃、列車がない時間には線路を歩いたりなんかしていたんですよ。線路はワルガキにとっては遊び場みたいなものだったんす。列車の本数が少ないなんてのは言い訳で、列車より先に次の駅まで走ってって乗るとかね、そんなことしたりしてたんです」
「そのうち、列車に乗ることもどうでもよくなってきて、ただ線路を歩くってのが面白くてね、ぶらぶら歩いていると列車の警笛が鳴って危なかったこともあったんすよ。ほら、あの気仙川沿いの区間はトンネルがいくつかあって見通しが悪いからね。トンネルの中を歩いてて急に警笛鳴らされて、猛ダッシュでトンネルの中を走り抜けて逃げたこともあったなあ。トンネルを飛び出したところで列車に追いつかれて、運転士さんからコラーって怒鳴られてね」
なんだか友だちの話なのか当人の実話なのか分からなくなってきたが、もう20年以上も前の昔話なので不問に付していただくとして、そんな「スタンド・バイ・ミー」みたいな世界がこの場所にあったのだ。写真のトンネル、竹駒第2トンネルが全長72メートルの短さで本当によかった。
タレントが線路内に立ち入ったことが問題になっている時節柄ではあるものの、草に埋もれたこの線路に、たくさんの物語があったことを知ってなんだか感動してしまった。そして同時に、まるで失われた遠いむかしを懐かしむような友人の眼差しに驚かされてしまった。
まるで遠いむかしに廃線になった線路のような景色だが、この場所をかつて列車が走っていた。たくさんの夢や希望や悲しみやよろこびを乗せて、あるいはたくさんの人たちの日常を乗せて。それはわずか6年前のことでしかない。
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