新しく生まれかわったJR新地駅

iRyota25

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国道6号線を左折すると、そこにはこれから新しい町が造られていくことになる広々とした土地と、青い空が広がっていた。6年前の震災の頃とおそらくそれほど変わってはいないだろう国道沿いの風景とはまったく違った別世界だった。

新しい造成地の真ん中を走る道の先に福島県新地町のJR新地駅がある。かつての駅舎は津波でホームと跨線橋の一部を残して崩壊した。そこから300メートルほど内陸側に移した場所に新設されたまあたらしい駅。2016年度中には、という計画で工事が進められていたものが、2016年12月10日には開通・営業再開をみた常磐線相馬駅(福島県相馬市)・浜吉田駅(宮城県亘理町)間に新設された駅のうちもっとも南に位置する駅だ。

この駅の営業再開=路線の再開により、宮城県内の常磐線が全線再開することになった。福島県側から見れば、これまで相馬駅と原ノ町駅(福島県南相馬市)の折り返し運転(2016年7月には同じく南相馬市の小高駅まで運転区間は延伸)で、わずか20kmほどの孤立した区間だったものが、東北の中心都市である仙台までつながったことになる。

浜通北部がようやく鉄道で結ばれる

新地駅は、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故で、南北両方面とも分断されていた鉄道網が、仙台方面にだけは再びつながることができたことを象徴する駅でもある。営業再開のセレモニーには安倍晋三首相も駆けつけたそうだ。

こぢんまりとした駅ながら、駅舎は清潔でモダンな印象だ。列車は20分から1時間ほどの間隔で運行されていて、原ノ町から北へ向かう下り線のすべての列車は、岩沼駅から東北本線に乗り入れて仙台までつながっている。

デジタル式の時刻表には「常磐線 仙台方面・下り」の文字。この表示がどこか誇らしげに見えてしまうのは、これまで長い間、南相馬市と相馬市の間のわずかな区間での折り返し運転が終了し、ようやく鉄道で主要都市へ行けるようになったよろこびが感じられるからに違いない。

震災と原発事故で、南相馬市、相馬市、そして新地町など福島県沿岸北部は「陸の孤島」とまで呼ばれる状態が長く続いていた。

「相双地方っていうくらいで、沿岸部の結びつきは昔から強かった。だから、沿岸の南のいわき市とは、人も物もつながっていたんだが、内陸のたとえば郡山市よりはむしろ、隣県の仙台の方が近い存在だった。七夕にもよく行ってたし、こっちの野馬追を見に来る仙台の人もたくさんいたからな」と南相馬の人が言ったことを思い出す。

福島県は天気予報でも「浜通」(常磐線沿いの沿岸部)、「中通」(東北線沿いの中央部)、そして「会津地方」と三つに分けられているくらいで、それぞれの地域では自然環境はもとより、文化や人の交流にも独自のものがあった。言葉や料理の味付けまで違うくらいだ。とくに浜通と中通はそれぞれが常磐線と東北線で南の東京、北の仙台と結ばれてきた。ところが浜通では、原発事故でそのつながりが真ん中で遮断されてしまった。さらに浜通北部では、北に向かう交通路も津波で破壊され、東京からも仙台からも、阿武隈山地の峠道を越えて福島市方面から迂回しなければならなくなった。ただでさえ原発事故と震災で地域が疲弊している中、交通が分断された浜通北部では人口流出や経済の低迷が深刻になっていた。

だからこそ、東北の「首都」ともいうべき仙台とつながったことの意義がある。孤立していた地域がようやく未来へつながったよろこびと言ってもいい。ホームの駅名表示板に、上り方面・下り方面の両方の駅の名が記されていること自体、とても大きなことなのだ。

駅前には広大な造成地

まあたらしい道路の白線がまぶしい。駅の周りでは新しいまちづくりが始まっている。

ぽつりぽつりと新築された建物が見られるものの、駅周辺の7割以上がまだ造成されたばかりの更地。

それでも駅のロータリーに掲げられた案内板には、この場所が将来の新地町の中心的な地域になることが示されている。

宅地だけではない。観光や宿泊の施設、津波や復興の伝承を含めた複合文化施設、ビジネス支援施設、さらには温浴施設も含めた健康関連まで、動き始めている新しいまちづくりは、まさに「盛りだくさん」という言葉がふさわしい内容だ。

いまはまだ広々とした造成地が広がっているばかり。何もないと言ってもいいくらい駅前はガランとしているが、何もないからこそ希望がある。晴れ渡った青空のせいもあるのかもしれないが、新地駅周辺には未来を感じさせる空気が満ちていた。

ただ、これからあたらしいまちが造られていくまでには、たくさんの苦労もあるだろう。たとえば、駅前の公衆トイレの入口には砂塵が積もってた。まちづくりの工事が続く間は、砂埃との戦いも続くことになる。たとえば、列車の時刻が近づくと、駅前のロータリーには送迎の自家用車が入ってくる。駅から先の交通をどうするのかという問題もあるだろう。あたらしいまちのコミュニティ、人と人のつながりがどのように形づくられていくかという本質的な問題に至っては、駅をちら見しただけでは想像すらできない。

新設された鉄道駅から数100メートルの場所にある町役場前には、代行バス時代の新地駅のプレハブが残っていた。やがて撤去されることになるこのプレハブ駅舎もまた、震災から6年近くになる歴史の証人だ(写真は2016年12月30日撮影)。この待合室で交わされていた住民同士の会話が、まあたらしい新地駅の待合室に受け継がれていきますように。

あたらしく造り変えられていく新地駅周辺を走りながら、気がかりな表示も見つけた。それは住宅建築が進む町の真ん中に立てられた「津波浸水地域」の表示。駅からはずっと山側、役場との中間くらいの場所に立っていた。

つまり、あたらしくまちが造られている場所は、東日本大震災で被災した地域だということだ。

もしも同じ規模の津波、あるいは東日本大震災の津波を凌駕するほどの巨大津波が押し寄せてきたらどうするのだろうか。

驚きと不安がない交ぜになったような感情を覚えたことを記しておくことにする。

いろいろな心配もある。将来に向けてたいへんなこともきっとたくさんあるだろう。それでも、常磐線で仙台とつながったあたらしい新地駅は日の光に照らされていた。正月飾りまでが、前途を祝しているように見えたのは、冬の浜通特有の晴れ渡った青空のせいかもしれない。

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