道は必ずどこかにつながっている。どこかに続いているからこそ道だともいえる。どこかとどこかを結ぶ道は別の道ともつながっているから、大げさな言い方をすれば、道をたどっていけば日本中どこへでも行けるということになる。海路や空路も考慮に入れれば、世界中が道でつながっていると言ってもいい。
しかし、どこともつながっていない道があった。福島第一原発事故のため一般の人の通行が禁じられていた国道6号線の一部だ。この道を通ることができるようになったのは2014年9月15日。一般の人でも国道6号線を通ることができるようになるまでには、原発事故から3年半の時間を要したことになる。
それでも、一般車の通行が可能になったとは言うものの、通行には制限がかけられている。道路沿いを走っていると、「自動二輪車、原動機付自転車、軽車両、歩行者は通行できません」と記された看板が頻繁に出てくる。要するに通行できるのは自動車だけということだ。さらに帰還困難区域内では、国道から枝分けれする道はゲートで閉ざされているので、ただ素通りするしかない。
2016年11月の国道6号線の様子を紹介する。写真はいずれも停車した際に車内から撮影したもの。参考のため、2012年に知人から提供してもらった写真も数点引用する。
被災車両はなくなったが
このガソリンスタンドはよく覚えている。原発事故から1年経っていない頃、いわきから郡山、福島、飯館と内陸部を大きく迂回して南相馬に入り、許可を得て大甕のゲートを越えたすぐ後に目にした場所だ。スタンドの敷地内には津波で大破した車が折り重なっていた。ショックだった。
この写真は知人が提供してくれたものだ。後日、許可を得てこのエリアに入り、写真の場所を知人に案内してもらったことが、つい先日のことのように思える。
一般車の通行が可能になったとはいえ、走っている車は少ない。おのエリアはまだ帰還困難区域の手前で、近いうちには住民に対して帰還が呼びかけられることになる場所。それでもひと気はほとんどない。
南相馬市小高区。いまも多くのボランティアが片付け作業を行っている土地。近日オープン予定のコンビニには「スタッフ募集」の張り紙もあった。原発作業員や除染作業員を見込んでの開店なのか、それとも町に戻ってくる人たちのためのオープンなのか。
2012年の春には、津波に侵されたエリアの至る所に被災した車が放置されたままだったが、今は撤去されている。景色そのものはだいぶ変わっているのだが、伝わってくる印象が大きく違わないのはなぜだろう。ひと気のない町の雰囲気がそう感じさせるのか、もしかしたらこの地域でのボランティア活動に参加していない自分が「外から」の目で見ているからなのかもしれない。
被災したまま放置された車両がなくなった一方、当時はあまり見かけなかった看板が国道沿いの至る所に掲げられている。獣との衝突を注意喚起する看板だ。人間が避難する時に厩舎から放した牛などの家畜が道路を歩き回っていて、衝突事故が頻発しているという話は2012年当時からあった。名産の牛、豚、野生のイノシシ、イノシシと豚が交配して生まれたイノブタ、さらにはダチョウ……。
注意喚起の看板の中には、「獣」の部分が「イノシシ」とか「牛」といった具体的な動物名に差替えられる仕組みになっているものも多く見られた。
あの看板があった町には入れない
帰還困難地域に入ると、国道の様相は少し変わる。道路そのものの印象は対さなくても、国道から枝分かれする道のすべて(すべてである!)にゲートが設けられ、その地域に入ることができなくなってしまうのだ。
上の写真は国道6号線から双葉駅方面に続いていた道。「原子力 明るい未来のエネルギー」との看板があった場所だ。看板はすでに撤去された。今はゲートで閉ざされて入ることすらできない。
「原子力 明るい未来のエネルギー」との標語は原発事故後、象徴的な存在になった。原発事故の本質を衝くメッセージでもあった。原発と立地地域のかつての関係を物語るものであるとともに、原発を受け入れた立地地域の人たちの苦渋や苦難を「裏返し」に表明するものでもあった。
その看板の保存を訴え続けている中心人物の1人が、小学校の標語募集に応募して選出されて当人だったことはよく知られている。
「私はガン家系で、いずれ自分もガンで死ぬことになると覚悟している。だからこそ、自分が作った標語の意味を次の世代に伝えていきたい」
彼が語った言葉を忘れることはできない。その場所が原発事故からほぼ6年が経過した今も、立ち入りすることすらできない状況になっていることも含めて、後世に伝えていかなければならないことと思う。
事故原発がある町
「いよいよ大熊町に入るよ」
車を運転する知人が、日常的にこの道路を通行していた彼自身が、ちょっと緊張気味に告げた声を思い出す。
北から南に向かって走り、「大熊町」の標識を過ぎると道は急な下り坂。
「この坂道は震災でひどくやられて、道路がぐにゃぐにゃになってしまったせいで、事故対応の車両が入るのもできないくらいだったんだ」
原発事故から10カ月、応急復旧が終わった後でさえ、道路は見た目にも明らかなほど、上下左右ににうねっていた。その道もいまでは比較的走りやすい道に変わったが、ハンドルを握っているとかつての景色が見えてくるような気がする。
この坂道を下ると、左手に福島第一原発の排気塔が見える場所。原発に向かって高圧電線も走っている。
写真の右側、送電鉄塔とだぶっているのが集中廃棄物処理施設の排気塔。真ん中が3号機と4号機の排気塔。手前の鉄塔の隣に見えるのが1・2号機の排気塔。その下に、福島の悲劇、日本の悲惨をもたらした東京電力福島第一原子力発電所の主要な施設が並んでいる。
事故からもうすぐ6年。その間に廃炉に向けての様々な施策が行われていると伝えられるものの、一般の私たちが目にすることができる、ここからの光景は事故直後から変わらない。
原子炉建屋が爆発した時、南相馬市内でその音を耳にした人が、「まるで大型ダンプが目の前で正面衝突したような、ものすごい音」と表現していたこと。原発から遠く離れた飯館村に避難していた人が、家族と電話中に「今の音、いったい何なの」と爆発の異音に恐怖を掻き立てられたこと。そんな話を思い出しながら、事故原発施設から1、2kmという距離から排気塔を見ると、テレビや新聞で見聞きするものとはまったく違った感覚が呼び覚まされる。いま、この瞬間に、事故原発で何か起きたらどうする?
そんなことがないように、最高レベルの科学技術を傾注し、事故原発の安全確保と確実な廃炉に向けての作業を続けています、みたいなことを言われても、この場所そのものが人知をはるかに越えた巨大な不安のかたまりであるとの危惧を拭うことなどできない。
自動車のみとの限定があるにしても、この場所を一般人が通行できるとされていること自体に、若干の疑念すら抱いてしまう。だって、二輪車や軽車両は通行できないのだ。歩行者の通行も厳禁なのだ。こうして国道を通ることはできるが、脇道に入ることは禁止されているのだ。
道は必ずどこかにつながっている。つながっている先には必ず誰かがいる。友人、知人、親戚、家族、あるいは恋人。しかし、一般人の通行が可能になったというこの道は、その沿線の誰ともつながっていない。枝道の入口にあるのは鉄製のバリケード。鉄のバリケードに会おうと思ってこの道を走ってくる人などいるのだろうか。
事故原発を通り過ぎても
国道6号線を車で走って期間困難区域、つまり脇道に入ったり、途中下車したりできない地域に立ち寄ることなく、ひたすら6号線だけを走り抜けるのなら、要する時間は30分にも満たない。ほんの数十分で国道脇の枝道のゲートは姿を消し、近い将来、人々が故郷に帰還できる「見込み」の土地に立ち戻ることができる。
ただ、そのような道にどんな意味があるのか。
いわきから南相馬までを、内陸部を迂回することなく浜通り地方(この場合の「通り」とは道ではなくて福島県の沿岸地方の固有名称)を縦貫できることの意義が大きいのは確かだ。事故原発の北側に位置する南相馬市や相馬市は原発事故から長い間、内陸の福島市辺りを経由しなければ行くことができなかったため、地元の商工業者の間でも「陸の孤島化」を危惧する声が多かった。福島市方面からの迂回ルート、仙台からの南下ルートに加え、従来同様、東京方面からいわきを経由して海沿いに北上できるルートが開かれた意味は大きいだろう。
しかし、道は土地と土地をつなぐものではあるものも、実は道がつないでいるのは人である。人と人をつないでこそ、道は道としての意義を為す。
6号線を通しで通行できるようになった当初、福島の浜通り復興に大きな前進という見解がマスコミからも地元からも伝えられていたが、通行可能となって2年以上経った今も、沿線の状況は震災・原発事故直後と大きくは変わっていない。
帰還困難区域の国道をただ走り抜けることができるようになったという現状が、復興という大目標と比して果たして大きな前進といえるのかどうか。
昭和の週刊誌的な言い回しなら、「賢明な読者諸氏は、そうは受け取らないことだろう」と結ぶところかもしれない。しかし、この場所に生まれ育った故郷を持っていた人たちは、明治・大正・昭和・平成と幅広い世代に及ぶ。
誰もが、故郷への思いを持っている。
故郷への思いを持っているからこそ、帰還に向けての動きには歓迎の声を上げる人が多い。しかし、早く帰りたいという人が同時に放射能汚染への不安を抱いているケースも少なくない。
いや、不安と故郷に帰りたい思いを「てんびん」に掛けられるような状況そのものが、苦しみの元となっているのではないか。
もしもあなたの故郷に、上のような看板が掲げられたら、あなたはどうしますか?
そればかりではない。通行可能となった国道6号線の付近には、こんな看板も掲げられている。
自分の故郷でこんな横断幕を掲示しなければならないことになったら、あなたはどう感じますか。こんな状況を容認できますが?
原発事故からそろそろ6年。時間の経過の中にある福島の被災地。しかし、「復興は進んでいますか?」みたいな無邪気な問い掛けに、無邪気な返事で応えることができる人はそう多くはないのではないか。
震災と原発事故からほぼ6年、通行再開から約2年の国道6号線を走りながら考えたのは、このようなことだった。
最終更新: