4枚の「クマ注意」

iRyota25

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震災以降、継続して活動を続けているトヨタグループのボランティアに参加させてもらった時のこと。その日の活動は蕎麦の種まき。種まき自体は子どもたちと一緒にあっという間に完了したのだが、その後、シカの害を防ぐための電線を張る作業がなかなかどうして大変だった。

クマは出るんですか?

蕎麦の種をまいた畑をぐるりと一周させて張った電線は、もっとも高いもので大人の目の高さほど。「シカはジャンプするから、イノシシ除けの電線よりずっと高い所に張るんですね」なんて話をしていたら、愛知県から来たという人が「本当にシカが出るんですか?」と聞いてきた。

出るもなにも、シカが出るから電線を張っているんだよと地元の人が笑いながら答えたのにかぶせて、「昨夜も陸前高田で見ましたよ。それも、スーパーや仮設のホームセンター、ドラッグストアとかがまとまっている竹駒の工事中の国道で」と、出来たてホヤホヤの体験談を話すと、ずいぶん驚いてくれた。

ここからシカ談義が盛り上がっていくのかと思いきや、雑談のテーマは思わぬ方向に。

「クマは出るんですか?」

今年は東北でクマの害が相次いでいるから、都会から来た人にしてみればごく当たり前の連想だったのかもしれない。シカがいる→自然が豊か→ほとんど野生の王国→クマだっているかも→もしもクマが出たらどうしよう。

しかも、タイムリーなことに1週間ほど前には、蕎麦の種まき会場から1kmほどの場所でクマの目撃情報があって、防災無線で集落中に注意喚起の放送が行われていた。陸前高田市の東部でも目撃情報が伝えられていた。

煮え切らぬ議論。人の暮らしの安全か自然保護か

そのことをお伝えすると、「えっ、本当ですか、恐い!」とストレートな反応。「まさかこんな真っ昼間に、それにこんなにたくさんの人がボランティアしているような場所に出るわけはないですよね」と、自身を安心させようと、まるですがるような声もあった。

でも、集落の近くだからといって絶対に出ないとは限らない。主にシカを撃っている知人の猟師さんがクマを仕留めたという話を聞いたのは半年ほど前のこと。陸前高田のイオンには、生活用品の入り口にクマ除け鈴が売られてもいる。少し山の方に行くと、あちこちでクマ注意の看板を見かけることになる。この辺りの山の中にクマが生息しているのは間違いない。

だが、クマの話はどう結論づけたらいいのか難しい。今から5年ほど前、仮設住宅入居希望の抽選がはじまった頃には、「あんなクマが出るような山奥の仮設はいやだ」という話もよく聞かれたという。それに対して、「こんな時に何を言っているんだ。クマなんか出ないのに」と批判する声も多かった。「クマが出るような」というのは辺鄙な山奥という意味の比喩だったのだろう。しかし、事実クマは生息している。

クマがいることは自然の豊かさの象徴というナチュラリストもいる。かつて熊襲の国と呼ばれた熊本など九州地方では、野生のクマはほぼ絶滅し、いまやキャラクターのくまもんが活躍するばかりだ。クマの害で命を落とされた人たちには申し訳ないことではあるが、日本の野生動物の中でヒエラルキーの頂点に立つクマが生息するということは、人間の手で荒らされた度合いの少ない、本来の自然が残されている指標であることは確かだ。

しかし、いくらクマが自然の豊かさの象徴だとしても、被害に遭ってしまってはたまらない。里に下りてきたクマは駆除すべきという意見も尊重しなければならないだろう。

人間の生活の安全と自然保護。クマに注意しましょうと言おうが、豊かな自然が残されているからこそクマが生きていけると言おうが、どちらにも物足りなさや不徹底さを感じてしまう。結論をどちらに振っても、腑に落ちる話にはなりそうもない。

よって、別に逃げるというわけではないのだが、これまで何気なく撮ってきたクマ注意看板のいくつかを紹介しつつ、お茶を濁させていただくことにしよう。

看板からクマと人の関わりが見えてくる

まずは冒頭に紹介した遠野市のクマ。看板が掲げられているのは、遠野市の市街地から南に離れた県道沿い。看板の場所から10数分走ると冬期通行止めになる峠の麓の里山集落だ。

リアルなタッチがクマの危険を雄弁に物語っているように思えるが、よくよく見るとこのクマ、本州に生息するツキノワグマではなく、北海道のヒグマをモデルにしている。恐さを強調するあまりの勇み足とでも言うべきか。とにかくクマは怖いんだ。危険なんだと感覚的に訴える表示といえるだろう。

ところが同じ遠野市のクマ注意看板でも、木材団地の近くや六角牛山登山道入り口に掲げられたものは、クマからキャラクター性が抜け落ちている。

遠野市木材団地近く
遠野市木材団地近く
六角牛山登山道入り口
六角牛山登山道入り口

どちらのクマもデザイン化されたほぼシルエットの姿。看板の文字情報も上のクマ看板とは違って具体的。クマが生息しているから音の出る物を持つなどして十分に注意をと念入りに記されている。

クマのキャラクター性が後退している反面、クマに遭遇しないための情報が具体的に盛り込まれている。クマは怖いぞと感覚的に恐がらせるパターンからの脱却は、「クマは怖い生き物」「クマとの遭遇は避けねばならない」ことが大前提として存在している証左のようにも見える。

クマ注意の表示は宮城県にもある。次の写真は意外な場所に掲げられていた注意喚起。

その場所とは、国道45号線沿線の道の駅「大谷海岸」の男子トイレの中。何とも不思議な場所でクマ注意に出会ってしまったわけだが、記された内容はさらに具体的かつ詳細だ。生ゴミや放置された果実がクマを呼び寄せる話は何度も聞いたことがあるが、刈り払い機(草刈り機)などの燃料の匂いがクマたちを誘因するとは!

文字が増える一方で、クマのイラストはさらに簡略化が進んでいる。スペース的に見ても、クマ注意に関するテキスト情報が主で、クマのイラストはもはや「クマについての張り紙」であることを示すアイコンでしかない。

最後に紹介するのは、陸前高田から住田町に入った辺りに立てられている看板だ。こちらも国道沿いに掲示されたクマ注意。

二本足で立っているところやポーズなど、ヒグマのイメージもあるが、クマとの遭遇を避けるための情報などには見向きもせず、漫画のようなイラストでクマの怖さを強調する。

なぜだろう、注意看板の中でクマのキャラクターが「立って」いるものは、恐ろしさを強調しているにもかかわらず、どこか愛嬌のようなものが感じられる。最初のリアルすぎて恐いクマでさえ、このクマはどうしてこんなに悲しげな表情をしているのだろうかなど、背景にある物語まで想像させるものがある。それに対して、クマ除けの情報が強調されている看板類では逆に、クマの個性は薄められた結果、人間界からは縁遠い、駆除すべき動物という意味合いが強められる。

クマのイメージに恐さと個性の二面性があるのは、洋の東西を問わないのかもしれない。ツキノワグマよりもはるかに凶暴な人喰いグマ、ヒグマやグリズリーが生息しているにも関わらず、欧米にはキャラクター化されたクマも多い。プーさんもテディベアもそう。恐怖と愛着、愛情が渾然となったクマ観の背景には、森の王であるクマに対して人間が抱いてきたコンプレックスがあるのかもしれない。

話が飛躍し過ぎたかもしれない。ところで、クマの目撃情報が相次ぐ東北ではこんな話題もささやかれているのをご存知だろうか。

「クマが出る年は冬が寒くなる」

「クマが里に下りてくるくらいだからこの冬は寒くなるだろう。困ったことだ」といったニュアンスの会話である。

この話からもわかるように、恐怖心や鬱屈した愛情といったもの以前に、人はクマを、そして身の回りの自然を丹念に観察してきた。自然と人間界の境界領域でもある里山には、薪やキノコや山菜といった物質を得られる場所というだけにとどまらない伝統や、生き方の文化があった。

クマによる被害がこれ以上拡大しないことを祈るのはもちろんだが、受け継がれてきた自然と人間の関わりが失われてしまわないように望まずにいられない。

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