津波実話・悲話・奇譚。繰り返される物語

iRyota25

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これからご紹介する物語がいつの出来事だったのか、読んで想像してみてほしい。

濁流の中に病身の兄を護る

下閉伊郡山田町の佐藤コツルさん(25)は、津浪だ!という声に驚いて、永らく病床にある兄を背負うてようやく家を出たが、その時はもう漫々たる水が前後に迫っていた。兄はこうしていては二人とも溺死を免れないと覚って、妹に向い「自分は日ならずして死ぬ身だ、自分にはかまわず逃げてくれ」と促したが、兄思いのコツルはこれを聞き入れず、しっかりと兄の手を取り必死となって逃れようとした。そのうち水はみるみる膝を没し、やがて胸に及ぼうとする、兄はしきりに早く逃げよと急き立てたが、そう言われれば言われるほど、病身の兄が不憫に思えて「兄一人を死なせてはならない、死なば一緒に!」と懸命に兄を護っていたが、突然何かに躓いて倒れると同時に兄妹の手は離れた。兄は波に呑まれたのかもう姿は見えなかった。渦を巻いて闇を流れる濁流の中である、探そうにも手だてがない。コツルさんは今は是迄と自ら自分の実を励まして安全な場所に辿り着いた。

1179ページ

遭難実話「こういう晴天に津浪が来るものではない」

気仙郡唐丹村本郷
逸名

大地震で眼を覚ましたが津浪が心配されるので、目ぼしい家財を背負い家族をいそがせて高台に避難した。しばらく海岸の様子に眼を配っていたが何の気配もない。大丈夫かなと思って下りて行くと古老たちは「こういう晴天に津浪が来るものではない」とさも自信のありそうな話である。

大抵の人たちは、外は骨に沁み入るような寒さではあるし、古老たちの話を聞いて安心して再び床に就いたが、私は不安なので起きていると、海岸に出て警戒していた北村の人たちが「津浪が来るぞ!」と叫んで通り過ぎた。しかし寝入りばなの部落の人々は起きる様子もなかった。私はびっくりして表に出ると、暗い海岸の方に家の壊れるらしい音や人々のわめき叫ぶ声が聞こえる。私は声を限りに「津浪だァ、津浪だァ」と叫びながら大杉神社へと走った。ようやく起きた部落の人々も、我先にと神社を目指して逃げてきたが、何しろ暗さは暗し、道は狭し、それにあまりの恐怖のために、足が上がらず声も出ない。丈余の波が物凄い音を立てて、逃げる人々の後を追って来て、無慚にも逃げ遅れた三百余の人を浚っていった。

初め1時間ばかりのうちは救いを求める悲しい叫び声が方々に聞こえたが、やっと命を拾って避難した人たちは、恐怖と寒さのためすっかり失神の状態になって、ただガタガタとふるえながら涙を絞るばかりだった。

岩手県昭和震災誌 1200ページ

2011年の巨大津波の前には、「福島には被害が出るような津波は来ない」そんな言い伝えがあったという。「こういう晴天に津浪が来るものではない」という話とまったく同じで何の根拠もないことだ。しかし信じてしまう人がいる。南相馬で津浪に追いかけられ、猛スピードで車を走らせてぎりぎりで難を逃れた男性が言った言葉を思い出す。「自分がやばいと思って走り出した時、海辺には津浪見物の人たちが何人もいた。津浪っていっても数10センチ位のだろうと思い込んでいたのか。あの人たちは生きちゃいないだろうな」

引用した文章にある「丈」は約3m、「丈余」は3m以上の波ということ。300人以上が波にさらわれて、それでも1時間ほどは助けを求める声が聞こえていたのに、助かった人は助かった人で、恐怖と寒さから救助に向かうこともできず、ただ涙を流して震えていたというのが哀れでならない。

鉄筋コンクリートの建物のベランダから手を伸ばし、流されていく人の何人かは引っ張りあげたものの、助けを求める声を残して引き波に浚われていく人をどうにもできなかったという話。ビルの屋上の機械室まで逃れた時、向かいの病院からベッドに乗ったまま流されていく人をただ呆然と見送るしかなかったという話。2011年3月11日に起きたたくさんの出来事がオーバーラップして思い出される。

80年後にデジャヴを目の当たりにする気分

引用したエピソードは「岩手県昭和震災誌」(国立国会図書館デジタルコレクションの書籍データ)による。昭和8(1933)年3月3日未明に発生し、東北地方に甚大な被害をおよぼした昭和の三陸大津波の記録だ。震災から1年以上の時間をかけて岩手県がまとめた1000ページを超える報告書である。

「岩手県昭和震災誌 : 於昭和八年三月三日」国立国会図書館デジタルコレクション
「岩手県昭和震災誌 : 於昭和八年三月三日」国立国会図書館デジタルコレクション
 国立国会図書館デジタルコレクション - 岩手県昭和震災誌 : 於昭和八年三月三日
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学術的な調査や報告、復興計画などと合わせて、当時の実話がいくつも掲載されているのだが、その内容を読んでいると少しずつ、熱っぽさなのか寒気なのか、なんとも形容しがたい感情とともに体が震えてくる。そこに記された内容のひとつひとつが、約80年の後に起きた東日本大震災で聞いた話を想起させる、いや2011年の出来事だと言われてもほとんど疑問をいだかないほどに共通しているからだ。

以下、「岩手県昭和震災誌」に掲載されたエピソードを引用して紹介する。東日本大震災の被災地で聞いた話のいくつかを添えて。

危険を冒して避難を警告

気仙郡吉浜村横石の荒谷岩吉氏(本籍八戸市)は、地震があまり激しいので津浪が来はしまいかと不安に思い、外に出て海岸の様子を見ていると、急に干潮し始めた。びっくりして「津浪だ、津浪だ」と大声で付近の人々に警告し避難させたが、まだ残っている者がありはしまいかと懸念し、戸ごとを見廻っているうち、ものすごい海鳴りと一緒に大波が押し寄せてきて浚われてしまった。やがてさんざん波に翻弄された挙句、重傷を負うて山の手の丘に打ち上げられ辛くも一命を助かったが、自分の身に迫る危険も顧みず部落民の避難に奔走した犠牲的行動はう一同の感激するところとなった。

岩手県昭和震災誌 1183ページ

危険を冒して津波が来ることを告げて回った人たちの話は、2011年の震災でもたくさんたくさん耳にした。この話の荒谷さんのように奇跡的に助かった強運の人もいたが、多くは生きて再び帰らぬ人となってしまった。

児童愛に殉した二教員

下閉伊郡田老村は津波の惨禍が最も甚だしく、164名のいたいけな小学児童は、哀れにも海の生贄となった。漫々たる波に浚われてゆくこれらの児童が、か弱い力を限りに死を遁れようとして闘いいながら「先生!先生!」と懐かしい自分の先生を呼ぶ悲しい声が、暗のそここちに聞こえてくる。師を慕う教え子のいまわの悲鳴を聞いて、人の子の師たるもの誰か奮い立たぬ者があろう。田老小学校訓導・元田光生(28)、赤沼ナツ子(20)両氏は、いじらしい児童たちの悲しい声に、自分の身の危険を省みるいとまもなく、雄々しくも救助に当たったがそのうち丈余の激浪に襲われて、ついに尊き児童愛に殉するに至った。

岩手県昭和震災誌 1186ページ

津波が襲いかかってきたのは真夜中だった。小雪舞う寒い日だった。地震の揺れに一度は目が覚めた人々だったが、津波の気配がしないのと寒さから再び布団にもぐり込み、うつらうつらしているところを巨大津波に襲われた。

田老の村は海近くの狭い平坦地に家々が軒を連ねて並んでいたという。先生も児童もご近所さん。きっとふだんから、学校以外でも付き合いがあったのだろう。こどもたちは先生を慕い、先生はこどもたちをかわいがる。そんな小さな村が明治の大津波に続いて再び大津波に呑み込まれてしまった。

この津波で小学校の建物は無事だった。しかし深夜に起きた津波だったために、教師や児童たちの命が奪われたのは悲劇というほかない。

親類を見廻って遭難

下閉伊郡山田町の佐々木寿郎君(24)は津浪の夜叔母の家に泊まっていたが、最初の地震で懐中電灯を持って自宅へ帰り、父母の安否を見舞った。家族が揃って無事なのに安心し、皆の止めるのも聞き入れず引き返して海岸の友人を見舞い、さらに川向区の親戚の所へ行く途中津浪に遭い、流されて南町はずれの或る呉服屋の二階に流れ込んだが、その波で家が倒壊し、梁木の下に敷かれて、ついに無惨な死を遂げた。

岩手県昭和震災誌 1187ページ

いわき市久之浜では地元出身の市会議員が津波の犠牲になった。最後に目撃された時、市会議員は津波から逃れようと山の方へ逃げる人々とは反対に向かっていた。海のすぐ近くの住宅地に高齢者が残されていないか確かめようとしたのだろうと、町の人たちは言う。

水門を手動で閉めて回っているうちに津波に巻き込まれた人もいる。

消防車で浜辺の家々を走り回り避難を呼び掛け続けるなかで亡くなった人もいる。

昔はかなりのヤンチャ者。でもその頃は町の若手をまとめるリーダーだった。消防車に乗り込んで「心配するな、大丈夫だ、もう一回り廻って来る」。バイクで走り回っていた頃の後ろ姿を髣髴とさせるような消防車の後ろ姿だった。そして帰ってこなかった。

「死んではならぬ人が死んでしまった」

残された仲間たちは、そんな言葉を絞り出す。幾人も幾人もが言葉を絞り出す。「あの人が生きていてくれたら、町はもっと何とかなったのにな」とか「あの人の分もがんばらなければ」という話を聞く度に、言葉が自分の中にも突き刺さってくる。

悲しい予感

九戸郡種市村宿戸志田金三郎君(17)は、津浪の当夜青年訓練所に出席して授業を受け、11時半頃帰途に就いたが、その道々友人や指導員に向かって「今夜はなんとなく気が進まないで船に戻りたくないが、雇人の身分だからそんな身勝手なこともできない」など語りながら、平生に似ず元気なく八木の漁船に帰ってものの3時間とたたぬうちに津浪に襲われ、予感が事実となって不幸にも悲しい死を遂げたが、親たちはわが子の心中を察してひとしおの不憫さに泣き暮れた。

岩手県昭和震災誌 1187ページ

震災の前から予感がしていたという話も多い。とくに漁師や海中で作業する潜水作業員の人たちの中は、「何だかおかしいと思っていた」という人が少なくない。なぜかマイワシが大漁だったとか、具体的な変事があったということだけでなく、言葉に出来ないイヤな予感を覚えていた人は2011年にも多かった。

愛馬のために命を失う

下閉伊郡田老村の獣医村上慶助氏(42)は、地震の直後婦人と子供を釣れて一旦耕地に避難したが、海岸のある家に預けてある愛馬ヘジラー号を救い出そうと、人々の止めるのを振り切って出かけた。婦人は津浪の危険を慮り、引き返させようとその後を追いかけて行ったが、途中で津浪に襲われ夫妻はともに悲惨な死を遂ぐるに至った。

ちなみにヘジラー号は時価六阡円と称せられるアラブ種の種牡馬で、今次の津浪で斃死した牛馬のうち最も高価な名馬であった。

岩手県昭和震災誌 1186ページ

「避難したら戻るな!」「カネやモノはどうにでもなる。身一つで逃げろ!」2011年にもこのような話は数限りない。生きた人、死んだ人、戻ろうとするのを止めた人……。

石巻のある浜(漁業集落)では、津波の第一波が引いた時、カードや貯金通帳を取りに家に戻ろうとする人を浜のリーダーが体を張って食い止めた。

「一文無しになっても大丈夫だ。逆の立場になったらどうだか考えてみろ。もしも災害で家財全部無くした人がいたとしら、俺たち間違いなくその人のことを助けるだろう。人間はそういうもんだ。人間を信じろ」

田老小学校では児童の下校が始まった時に地震が起きたので、すぐに下校途中のこどもたちをグラウンドに集めた。津波の情報を学校側が確認しているうちに、こどもを引き取りに親たちが集まってきた。学校側は待機を要請するがこどもを連れて下校した人もいた。小学校に留まったこどもたちは、津波を逃れて高台に避難して無事だった。お祖母さんが引き取って帰っていった児童1人が犠牲となった。お祖母さんも亡くなった。

次のエピソードも一旦は避難したのに自宅に戻った人の話だが、軍靴の音が高まる時代に起きた津波を象徴する言葉が記されている。

遭難実話「荒波のため、握っていた母の手が離されてしまい…」

気仙郡唐丹村本郷
鈴木善一

私は地震の後一旦家内と一緒に大杉神社の境内に逃れたが、まだ皆んなが揃わないので家に引き返した。母は「なァに心配がないよ」と平気でおり、物知りの古老たちも心配あるまいというので、ほっと安堵し家族揃って家に入ろうとする途端「津浪だァ!」という鋭い叫び声がした。

私は母の手をとって逃げ出したが、波に追われてとうとう母と一緒に海中に巻き込まれてしまった。荒波のためしっかりと握っていた母の手が離されてしまい、必至の力を出して波に乗って泳いだが、材木なドッが浮かんでいるので危険でならない。並の中にもぐり込み、目当てもなく遮二無二泳ぎ廻るうち、大きな屋根のようなものの下になった。根限り引っ掻きまわしたが一向に破れない。そのうちプロペラが手に触った。船の下になっていることに感づいて浮かび上がろうと藻掻いたっがどうしても駄目だ。だんだん呼吸が苦しくなってくる。もう観念していると三度目の大波で打ち上げられた。

私が母の手を失って泳ぎ廻っていた時は、他にも大勢の人々が波間に漂うていたが、お互いに「満州の兵隊を思い出せ、何これくらいで死ぬものか」と励ましあっていたが、二度三度と続いてきた大波に離れ離れに流され、その声も次第に遠くなって大概は溺死してしまった。

1199ページ

満州事変が勃発したのは大津波の1年半前、1931年9月のこと。東北出身の兵士が多い旧日本陸軍第8師団は最前線で戦ってきた。「満州の兵隊を思い出せ、何これくらいで死ぬものか」というのは満州の戦闘の苦しさを思い出せということだ。

しかし、銃弾砲弾の雨をかいくぐり、ようやく故郷への帰還を果たした人たちでさえ、津波に流された人の多くは厳寒の海に沈んでいったのだ。

さらに、三陸が大津波に襲われたまさにその頃にも、東北地方の故郷から出征していった兵士たちは中国熱河省の激戦の最中にあった。

戦争の足音の中にあった昭和三陸津波
 戦争の足音の中にあった昭和三陸津波
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繰り返されるということは学んでいないということか

昭和の三陸大津波の経験が記された実話は、教訓を伝え、二度と同じようなことのないようにという思いで記されたものであるはずなのに、2011年の出来事と共通することばかりに思えるのは、伝えるべきものが伝えられていなかったということになるのだろうか。

伝えるべき教訓ということからは少し離れるが、大震災の現場ではいつの時代でも同じようなことが起きるようだ。

自己の罹災を省みぬ三警官

釜石警察署勤務岩手県巡査佐藤勇氏は、地震と知るや直ちに制服を着し、海岸通りへ出て漁夫らとともに見張りをしているうちに津浪が襲ってきたので、半鐘を鳴らして警告させ、自分は大声に「津浪だ、津浪だ」と叫んで町民を避難させた後帰宅したが、自宅はすでに津浪のために倒壊した上焼失し、家財等はほとんど丸焼となったが、さらに意に介すことなく、一般罹災者の救護に任じた。

岩手県巡査蒲生定喜(気仙郡広田村出身)、同山崎安造(上閉伊郡鵜住居村出身)両氏は震災のために非常招集を受け、蒲生巡査は宮古町の警備に、山崎巡査は釜石町の警備に服務中、郷里の家が流失し、家族は身を持って避難した旨軒より通知を受けたが、職責を重んずる両巡査は自家の遭難を顧みず献身職務に服し、町民の保護治安に任じた。

岩手県昭和震災誌 1173ページ

警察、消防、自衛隊、全国からの行政職員や医療関係者、海外からの援助隊……、多くの人が公のために身を捧げて働いた。子育て中の女性予備自衛官が応召することもあったという。自らの事情を顧みず献身的に働いた人は膨大な人数にのぼるだろう。

奥ゆかしい信心家

気仙郡唐丹村本郷部落は、102戸のうちわずか5戸を残しただけで、ほとんど全滅の悲運に見舞われたが、篤信家として所に聞こえていた新沼丈之助さんの家は不思議にも危難を免れた一軒である。

丈之助さんは津浪と知るやまず第一に、神体仏像を残らず笊に入れ後生大事に抱え込んで安全な場所へ遷した上、長男の政次郎君とともに、闇の中に救いを求める声をたよりに浜辺を捜し、乳飲み子を抱いた母親、孫連れのお婆さん、あるいは逆さに砂に埋まっていた子供など数人を救助した。

波が引いてから家はもう流されたものと諦めて帰ってみると、残礎も留めず無残に洗い去られた砂浜の中に自分の家だけがぽつつりと残っていた。村の人たちはこの奇跡ともいいうべき幸運を聞き伝えて「これは全く信心のお陰だ」と奥ゆかしい丈之助さんの人格をほめたたえている。

岩手県昭和震災誌 1183ページ

この話は神仏を大切にした人が家の罹災を免れたという話だが、2011年にも神社の前で津波が止まったとか、津波が神社を避けて流れたという話は多い。

荒波を潜って死体を捜る

呪わしき津浪の魔の手に奪われて、海底深く沈んでいる人々の死体を、一刻も早く創作して生き残った家族を慰めようとしても、器具器械が完備しておらず且つ逆巻く濁浪を恐れて、誰一人捜索に従うもののなかった時、九戸郡種市村の田子消防手は、勇敢にも自ら進んで潜水具を身にまとい、波荒き海中に潜って、二日間、死体の捜索に努力した。

岩手県昭和震災誌 1183ページ

今もボランティアで遺体捜索を続けているダイバーたちがいる。家族の行方を探すため、ダイビングのライセンスを取得して海に潜る人たちもいる。

夫婦顔見合わせて「まァ」

気仙郡唐丹村の太田一郎さんは、津浪の襲来と知るや火見櫓に駆け上がり、半鐘を鳴らして村民に危急を知らせているうち、どっと押し寄せてきた大波に火見櫓もろとも浚われてしまった。夢中で浮かび上がると、すぐ傍らに助けを求める女の悲鳴がする。無意識にその女を抱えるなり泳ぎ続けたが、荒浪の中とて水練達者の一郎さんもすっかり今期が尽き果ててて人事不省となり、いつの間にか岸辺に打ち揚げられていた。正気づいてお互いによく見ると、救うた人は自分の夫、救われた人は自分の妻である。二人はじっと顔を見合わせて「まァ」と伝ったきり、ぽろぽろ涙を流してその奇跡的な幸運を喜び合った。

岩手県昭和震災誌 1193ページ

浦島のよろこび

下閉伊郡山田町の阿部喜代治さん親子は、漁に出て大島付近に差し掛かった際、最初の地震に出会った。波があまり烈しく揺れるので引き返したが、干潮のため自分の桟橋に船を着けることができないので、飯岡漁業組合の埋立地に回漕中、波に追われ船もろとも押し流された。親子は運を天に委せ、手を束ねて漂流しているうち、喜代治さんは或る人家の屋根に掴まり、子は舟に残されたまま親子は離れ離れになってしまった。

家はあっちへこっちへ漂流した後、陸地に打ち揚げられた。屋根から這い下りて子の行方を探したが付近には見当たらない。もう溺死したものと諦めて帰ってみれば、家は流されて跡形もない。家族の名を呼び歩いても応えがない。浦島太郎のような気持ちで久しい間ぼんやり闇の中に佇んでいたが、夜が明けるとお互いに死んだと諦めていた親子家族の無事な顔が揃って、皆々その幸運を喜び合った。

岩手県昭和震災誌 1196ページ

避難所で繰り返された光景と同じだ。再会を喜び合い、涙を流しながらハグする人がいる一方で、抱き合う相手が見つからない人たちが同じ場所にいた。

どこかで生きていてくれると信じていた人たちが、やがて安置所をまわるようになる。車もなくガソリンも乏しい状況の中で、まわれる場所から順番に。

「岩手県昭和震災誌」は優れた資料には違いないが、残された遺族の感情をつぶさに伝える記事は見当たらない。それが時代というものなのか、あるいは戦争に突入していく時勢のこと、特別な意図が働いていたのかどうかはよく分からない。

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