明治29年6月15日午後7時32分、岩手県釜石市東方約200kmを震源とするマグニチュード8.5クラスの巨大地震が発生。この地震によって発生した津波は、海抜38.2mという当時の観測史上最大の遡上高を記録し、岩手県、宮城県、青森県の沿岸部を中心に甚大な被害をもたらした。
——という百科事典的な説明自体が、その日、その時に起きたことの実態から遠く離れたいかに他人目線によるものであるか。むしろこのような客観的な記述には、実態を矮小化し、見えにくくする負の効果があるのではないかとさえ思えてしまう。
今年6月15日、釜石大観音では明治三陸大津波の犠牲者を追悼する法要が行われた。今年は明治の大震災から120年となる節目の年だった。
記憶は失われない
120年というと遥か昔のことのように思えるが、第二次世界大戦が終結したのが今から71年前のこと。当時を知る人は少なくなり、戦災の語り部の減少が問題されてはいるものの、オバマ大統領のヒロシマ訪問に見られるように、戦争の記憶はまだ生きている。その71年前のさらに49年の年月を積み足した年に発生したのが明治の三陸津波だ。
たとえ自分が生まれる前の出来事であったとしても、71年前のことを思い起こすことができる私たちに、その半世紀前のことを忘却できる理由はない。残された記録や遺物から、120年前の出来事を追体験することは可能だ。
震災の悲惨を伝えた当時の報道「明治丙申三陸大海嘯之実況」
三陸地方を襲った巨大津波によって電信は不通となった。当時は海岸線に沿って集落をつなぐ道路は整備されていないところが多かったこともあって、被災した地域へは盛岡など内陸部の都市から山を越えて現地に入らない限り、その被害状況すら確認できなかったという。
また写真印刷も広く普及していたわけではなかったので、被災地の状況は錦絵(多色刷りの浮世絵)や木版などで伝えられた(数年前の日清戦争の戦況報道も同様だった)。
その中でも有名なのが「明治丙申(きのえさる)三陸大海嘯之実況」だ。
遠く沖合で何かが大爆発している。そこから発した大津波が家屋を町を呑み込んでいく。枝が千切れた松の幹にしがみついている人たちがいる。材木に抱きついている人がいる。湯船ごと流されていく人がいる。奔流の中を礼服を着て泳いで遁れようとしている人がいる。流されそうな女性を必死で掴んでいる人がいる。黒い波の底にすでに沈んでしまった人も描かれている。
錦絵に添えられた文章には、次のように記される。
時にこれ明治29年6月15日…
この日はあたかも旧暦の端午にて、家族友人相会し、宴飲歓を尽くしつつなりしが、突然沖合に巨砲を発したるが如き響きあり。人々怪しみ屋外に出んとする一瞬間、数丈の狂瀾襲い来たり、三万に近き人命を家屋とともに一掃せり。
明治丙申 三陸海嘯之実況
「明治丙申三陸大海嘯之実況」には、明治29年7月1日に東京・日本橋の福田初次郎が印刷・発行したと記されている。
被災地に入ることすら困難な状況の中、震災から2週間ほどでこの錦絵が発行されたのは驚異的だ。「伝えたい」という発行者の熱意のみならず、「知りたい」という一般市民の要求が強かったことが伺える。
震災の悲惨を伝えた当時の報道「東北海岸の海嘯」
「東北海岸の海嘯」は木版の一色刷り(一部多色刷り)の瓦版。明治29年6月20日に印刷、同23日発行と記されている。つまり、津波発生1週間ほど、もっとも早い時期の報道と見ていいだろう。宮城県の死者・負傷者・家屋の流失は「未だ詳らかならず」という記載が、混乱下で発行された速報であったことを物語っている。
にも関わらず、「東北海岸の海嘯」の記事はかなり詳しい。
「明治29年6月15日午後7時に始まり、同16日に至り激震31回被害の実況」と、書き出しから余震の回数が記される。
岩手県釜石は死亡5千人。同盛町付近は死亡4千人、宮城県本吉郡歌津村の如きは個数601は家屋ことごとく流失、死者600余…
さらに、電信が不通となったこと、三陸沿岸部に外国の汽船3隻が打ち上げられたこと、岩手県雄勝地方の重罪人(宮城県の誤りと思われる。現在の石巻市雄勝町には刑務所が設けられていて、西南戦争や自由民権運動などで捕らえられた政治犯などが収監されていたという)約240人のうち100人が死亡したなど、短い記事の中に情報が凝縮されている。端午の節句に当たったことが被害を増大させたことにも触れている。
「大小百余隻の漁船が、鼻先を家屋に突っ込むなど、誠に言語道断の大変なり」といった、現地を見なければ書けない具体的な内容もある。発行者である東京・本郷の原田音十郎は、三陸の大津波の知らせをいつどのように受け、これらの情報をどんな方法で入手したのだろうか。6月20日に印刷という日付の向こう側に、震災の情報を求めて奔走する発行者の姿が見えるようだ。
震災の悲惨を伝えた当時の報道「岩手県青森県宮城県大海嘯画報」
「岩手県青森県宮城県大海嘯画報」には、被災地支援に当たる赤十字社の活動が描かれている。しかしその背景には、死者を搬送する人の姿、泣きじゃくる子ども、山の上にあがった船、仮小屋に伏せる負傷者、燃え続ける家屋など、津波が引いた後に現出した地獄絵図が描かれている。赤十字社の活躍という中心的モチーフと被災地の現状をどう描き合わせるか、どこか煮え切らない感じの構成に絵師の葛藤が見えてくるようだ。
しかし、錦絵に添えられた記事には明確な意図が見える。
「明治29年6月15日(陰暦5月5日)、怒濤天を捲いて襲来し、その勢い猛烈にして、実に5千余の家屋を海底に沈め、3万余の死屍は波間に葬らる」との書き出しに始まるが、この錦絵では死傷者の数字は触れられていない。生き残った人たちの惨状が紹介された後、記事のテーマは「支援」に集約される。
赤十字社などは被災地に医員らを出張させ、被災者の看護に尽くしている。各地の有志は私財を擲って救恤に力を注いでいるものの、いかんせん被害区域が広いため効果は限られている。同胞相憐れむ思いのある人は、出費を控え、罹災者のための支援をと、切なる勧誘が行われている所だ。
「岩手県青森県宮城県大海嘯画報」の記事の一部を要約
有史以来さまざまな災害に日本列島は見舞われてきたが、全国規模での支援の呼びかけが行われたのは、おそらく明治に入ってからのことではないだろうか。
残された人々が後世に残した碑の数々
「山門の二体の像が語ること」で山門前の地蔵菩薩像について紹介した釜石市の石応禅寺周辺には、明治の三陸津波の犠牲者のために建てられた慰霊の碑が数多く残されている。
風化や地衣類に覆われて判読しにくいものも少なくないが、慰霊の碑には多くの人々を津波で人々を失った苦しみが刻み込まれている。いずれも今から120年近く前に生きた人々が、後世へどうしても伝えたかった「思い」を形にしたものだ。
「津波後」を生きた人の声
そんな碑のひとつに「海嘯記念碑」がある。大津波で死んでいった多くの人々の七周忌、1902年(明治35年)6月に建立されたものだ。碑文には大意次のように刻まれている。
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