戦争の足音の中にあった昭和三陸津波

iRyota25

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愛国婦人会岩手県四分の活動 | 岩手県昭和震災誌より
愛国婦人会岩手県四分の活動 | 岩手県昭和震災誌より

春まだ浅き3月の罹災だったため、食料はもとより暖を取るための衣類や寝具の支援が極めて重要だったという。

避難の罹災民(釜石町石応寺) | 岩手県昭和震災誌より
避難の罹災民(釜石町石応寺) | 岩手県昭和震災誌より

石応寺は釜石市の中心部にある名刹(釜石観音を建てたことでも知られる)。写真の奥に仏像の祭壇が見えるので、本堂が避難所として使われていたことがわかる。それにしても人数が半端ではない。

罹災のこどもたち(小白浜郵便局前) | 岩手県昭和震災誌より
罹災のこどもたち(小白浜郵便局前) | 岩手県昭和震災誌より

津波からどれくらい経った後の写真だろうか。郵便局の入口や壁に「電信復旧・電話復旧」「貯金通帳亡失ノ方ハ届出ラレタシ」などの貼り紙が掲出されている。

山田町の街路復旧工事 | 岩手県昭和震災誌より
山田町の街路復旧工事 | 岩手県昭和震災誌より

写真を見ると排水機能をもたせた道を造っているようだ。東日本大震災後の山田町でもかさ上げが進む町の中央部に巨大な排水路が建設されている。

荒廃耕地の復旧成れる吉浜村 | 岩手県昭和震災誌より
荒廃耕地の復旧成れる吉浜村 | 岩手県昭和震災誌より

被害を受けた田んぼからガレキを分別して土を盛り上げているのだろうか。同じような光景は東日本大震災後の北上川河口付近でも見られた。

 東日本大震災後の被災地に広がる不思議な光景
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住宅の復旧成れる田老村 | 岩手県昭和震災誌より
住宅の復旧成れる田老村 | 岩手県昭和震災誌より

X型の巨大防浪堤の姿はもちろんまだ見られないが、比較的被害の少なかった南側に家が多いように見える。

漁船の復旧を急ぐ鵜住居村両石 | 岩手県昭和震災誌より
漁船の復旧を急ぐ鵜住居村両石 | 岩手県昭和震災誌より
三陸沖強震記象「三陸沖強震及津浪報告」 | 中央気象台
三陸沖強震記象「三陸沖強震及津浪報告」 | 中央気象台

秋田と東京で観測された地震波が記録されている。日本本土から200kmほど離れた場所での地震だったが、推定マグニチュード8.2の地震は大きく鋭く激しい。

三陸津浪検潮儀記象 宮城県花渕(七ヶ浜町)「三陸沖強震及津浪報告」 | 中央気象台
三陸津浪検潮儀記象 宮城県花渕(七ヶ浜町)「三陸沖強震及津浪報告」 | 中央気象台

津波による海面の高さ変化の記録。津波は通常の波よりもはるかに周期の長い「大きな水の塊の動き」だが、潮の干満に比べれば周期は短いので、上のようなぎざぎざの記象になる。津波の最初が大きな引き波から始まったことがわかる。(もちろん津波はかならず引き波から始まるものではない)

大津波と戦争

当時の写真を見ていくと、尋常な被害ではなかったことが伝わってくる。しかし、昭和の三陸津波の影響は広く社会全体に及ぶものだった。

明治の三陸津波の頃から昭和三陸津波までの約40年の間の出来事を、中学校の教科書で教わるようなものをピックアップして並べてみると下のようになる。

1895年 日清戦争終結
1896年 明治三陸津波○
1904年 日露戦争
1914年 第一次世界大戦
1919年 シベリア出兵
1923年 関東大震災
1931年 満州事変
1933年 昭和三陸津波○
1936年 二・二六事件
1937年 日中戦争
1939年 第二次世界大戦

戦争の戦争の間に巨大津波や大震災がはさまっているように見える。こと戦争に関しては人間の手になる出来事なので、日清戦争と日露戦争の関連とか、第一次世界大戦がロシア革命を引き起こし、それがシベリア出兵につながったというように、出来事と出来事を結びつけて理解するのが一般的な考え方だ。

これに対して自然災害はまったく突発的に発生し、多くの悲劇を生み出すものだが、その出来事が社会に大きな影響を及ぼすことは意外と看過されがちかもしれない。

とくに昭和の三陸大津波は、昭和の日本が戦争への坂道を駆け下っていく時代の動き、社会の雰囲気に大きな影響を及ぼした自然災害だった。

当時の日本は昭和初期の経済恐慌による不況のただ中にあった。さらに東北地方では冷害や飢饉も続く中での大津波だった。

被害戸数に対する死者の割合が少なかったことは明治の津波と比べて幾分かでも幸いなことだったが、一面では、辛うじて助かったものの一夜にして家と家財を失い、寒中に放り出された被災者――、緊急な救済を必要とする人々が、それだけ多いことを意味した。

山下文男「津波てんでんこ 近代日本の津波史」

また、こんな状況もあったという。

当時、中国の最前線に立っていたのは、偶然とはいえ、岩手県出身の兵士たちであった。陸軍省の発表によると、当時、軍に兵士を送り出している、いわゆる「出征兵士」の留守宅の被害戸数は岩手県だけでも420戸。うち(中略)中国・熱河省の最前線に出動し、3月4日に省都に入城を果たしたのは、岩手県出身のん兵士たちを中心に編成されている歩兵三十一連隊であった。このなかの386人の兵士の留守宅が、前日、即ち3月3日の大津波で自宅が被災していた。

山下文男「津波てんでんこ 近代日本の津波史」

軍部は、このような状況が「国軍の士気に重大関係を持つ」として出征兵士の留守宅に特別の見舞金を贈ったという話も「津波てんでんこ」に紹介されている。

満州出征兵の家族を慰問する石黒岩手県知事(下閉伊郡山田町) | 岩手県昭和震災誌より
満州出征兵の家族を慰問する石黒岩手県知事(下閉伊郡山田町) | 岩手県昭和震災誌より

出征兵士の留守宅への直接の影響ばかりではない。困窮を極めていた当時の東北では、学校に弁当を持っていけない「欠食児童」や、少女たちの身売り「娘身売り」がすでに大きな問題になっていた。大津波はこの状況にさらに輪をかけるものだった。

二・二六事件で蹶起した青年将校たちの中にも、地方の困窮を救うために昭和維新を起こさなければならないという考えがあったことはよく知られている。

郷里の幼なじみが娘身売りされていくという状況が、若い軍人たちをどれだけ苦しめたことか。二・二六事件が無謀なクーデタだったことは論をまたないが、財閥の金持ちや政治家が国を傾けているという考えは、東北のみならず日本中を覆っていたのかもしれない。

岩手県出身の詩人・宮沢賢治は自らの死の年ともなったこの年、友人に「被害は津波によるもの最多く海岸は実に悲惨です」との手紙を送ったとされる。昭和の三陸津波は、暗い時代にさらに翳りを増すような大災害だった。

明治の大津波に比べて人的被害は少ないものの、社会や時代、そして歴史に及ぼした影響の大きな地震津波だったと捉えることができるだろう。

翻って、東日本大震災からの回復の途上にある現在はどうなのだろうか。そのことを思わぬ人はいないだろう。

津波実話・悲話・奇譚。繰り返される物語
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