[巨大津波]明治三陸地震から119年

iRyota25

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明治丙申三陸大海嘯之實況(明治三陸地震津波(明治29 年6 月15日)[1896年])東京大学地震研究所図書室特別資料データベースより
明治丙申三陸大海嘯之實況(明治三陸地震津波(明治29 年6 月15日)[1896年])東京大学地震研究所図書室特別資料データベースより

wwweic.eri.u-tokyo.ac.jp

ぜひ別ウィンドウで開いて、拡大してご覧いただきたいのです。この絵は明治29年6月15日午後8時頃、三陸地方を襲った「明治三陸地震」による津波の惨状が描かれた錦絵です。描いたのは明治期を代表する錦絵画家の一人で、戦争画などを数多く残した小国政こと五代目歌川国政。

絵を拡大して見ていただくと、津波に襲われた人々の凄惨な苦しみが伝わってきます。家の中に奔流のように流れこんできた波に溺れそうになっている人がいます。しかしその家はすでに津波に倒され、家ごと流されているようです。枝がちぎれた松の木や電柱に登って逃れようとしている人がいます。掴もうとして流されていく人がいます。神社は炎に包まれたまま、いままさに流されるところ。左上の爆発のようなものは、被災した多くの人たちが耳にしたという、津波到達前に聞こえた砲撃のような轟音と海中に光が走った様子を描いたものでしょう。浜には船が乗り上げ、大波から逃げようと走る人、走る途中で転ぶ人、津波に襲われた瞬間の恐怖が伝わってきます。

この絵に関してフリー百科事典Wikipediaには、

多少の脚色(木桶風呂に乗って流される裸の女性がいる、など)を交えながら描いている。

明治三陸地震 - Wikipedia(2015年6月12日に引用)

という記載もありますが、流された風呂桶に入って助かった話や、流れてきた浴槽を足がかりにして木に這い登った話など、東日本大震災の際にも実際に起きているので、あながち脚色とは言えないかもしれません。松の木に登って助かった人、電柱に引っかかった遺体、建物の屋根に乗って漂流した話、燃えながら流れる家屋…。いずれも2011年の大震災でもあったことです。おそらく画家は、三陸津波で起きた悲惨なエピソードとして聞いた話をもとにして、画面に描き込んでいったのでしょう。

M8クラスの地震なのに揺れはほとんど感じられず

明治三陸地震が発生した明治29年は、春に日清戦争が終結した年です。この日は、兵役から故郷に帰ってきた若者たちを労う酒宴が開かれていたとも伝えられています。そんな最中、津波を生んだ地震は午後7時30分過ぎに発生しますが、大して揺れを感じない地震だったそうです。

後の研究によると、地震規模はマグニチュード8.2~8.5と巨大なものでしたが、断層がゆっくりずれたため、人間には激しい揺れは感じられず、しかし破壊された断層が海水を大きく持ち上げたため、巨大な津波が三陸沿岸部を襲ったのだということです。

夕餉の最中だったり、食事の片付けをしていたり、ある家では兵士の無事の帰還を喜んで杯を傾けていたり、あるいは風呂に入っている人がいたり。そんな夕刻、海辺の村や集落は突然の巨大津波に襲われたのです。

仙台博物館蔵の幻燈写真 左:市街を襲う津波(釜石町)右:集落を飲み込む津波(十五ケ濱)
仙台博物館蔵の幻燈写真 左:市街を襲う津波(釜石町)右:集落を飲み込む津波(十五ケ濱)
仙台博物館蔵の幻燈写真 左:被害地救護所(気仙沼)右:津波被災後の被災地取り片付け(釜石町)
仙台博物館蔵の幻燈写真 左:被害地救護所(気仙沼)右:津波被災後の被災地取り片付け(釜石町)
仙台博物館蔵の幻燈写真 左:津波来襲後の光景(釜石町)右:津波来襲後の光景(越喜来村)
仙台博物館蔵の幻燈写真 左:津波来襲後の光景(釜石町)右:津波来襲後の光景(越喜来村)

上の写真は平成17年3月に中央防災会議がまとめた「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1896 明治三陸地震津波」の口絵に掲載された幻燈(スライド映写機のようなもの)のフィルムに当たる絵(仙台博物館が所蔵)です。

2万2千人近い死者と1万戸近くの家屋流出という、記録に残る中で最大級の津波の被害の大きさが、この幻燈にも描き出されています。

津波の前の地震の揺れの規模こそ違え、津波による被害の様相は東日本大震災と酷似しているように思えます。そのような指摘は専門家の間にもあるようです。

三陸沖で発生するこのタイプの地震の発生周期はほぼ100年ほどと伝えられています。4世代ほどの間には大きな津波に襲われるという計算です。だから、沿岸部に暮らす人々の間では「津波は必ず来る」という意識はあったそうです。頭では「津波は来る」と意識していても、それでも東日本大震災では三陸津波に匹敵する大きな人的被害が生じてしまいまったのです。

気仙沼にあるリアス・アーク美術館の学芸員で美術家の山内宏泰さんが、震災の後に悔しさをにじませて話してくれた言葉を思い出します。彼は三陸地方で繰り返される津波被害についての綿密な調査をもとに、美術館で津波に関する企画展を行ったことがあるそうです。「津波への意識が高い地域だから、きっと多くの人に大切なことを感じてもらえるはずだ」と自信を持って開催したにも関わらず反響は小さく、危機感を深めた彼は山内ヒロヤスのペンネームで、明治三陸大津波を題材にした小説「砂の城」を2008年に上梓します。

「しかし、繰り返してしまったんです」

唇を噛み締めた山内さんの表情は、たぶん一生忘れることができないと思います。

6月15日。明治三陸地震から119年の時間が経過しました。当時を知る人はもういません。しかし、私たちは忘れてはならないのです。

 「津波てんでんこ」に見る明治三陸地震の蹉跌
potaru.com

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