防災集団移転促進事業として住民がみずから選んだ移転先の造成工事は、
市内7か所ですでに着工している。
瓦礫処理では97%のリサイクルを実現するのみならず、雇用も創出した。
復興をめぐり、市民と行政のあつれきの話を聞くことが少なくない中、
東松島市は着実に将来に向けて前進しているように見える。
阿部秀保市長にインタビューし、復活へのあゆみについて聞いた。
行政として最優先すべきこと
今日の東松島があるのは、全国からのたくさんのご支援のおかげで感謝しています。このご恩をお返しする方法は、きっと「支援して、応援して良かった」と思ってもらえるような復興を実現することだと考えています。
東松島市は、このたびの震災によって1105人の方が亡くなられ、
残念ながら現在でも27人が行方不明のままです。
津波で家を失った家庭は約3000世帯に上りました。
1753世帯約4000人の方が仮設住宅で生活しています。
また、みなし仮設と呼ばれる賃貸住宅などには、
当初1300世帯、現在でも900世帯約3000人の方がいらっしゃいます。
合計すると、7000人の方が避難生活を送られているわけです。
――震災直後はどんな状況でしたか。
震災後、国から最初に届けられた公文書は厚労省からの通知でした。内容は、亡くなられた方のご遺体は自治体の首長判断で土葬してもいいとするものでした。たくさんの方が亡くなられただろう。火葬の施設の破損もあるだろう。油も足りないに違いないといった配慮からの通達だったのでしょうが、辛い現実でした。
四十九日までは納骨せずにと希望される方もいらっしゃいます。土葬は苦しい決断なのです。それでも東松島市では369体を土葬しました。2年以内に改葬すること、費用はすべて公費で負担することを約束した上でのことでした。
「ご家族を亡くされた方に不満のないように」という思いは、震災からずっと職員と共有してきたことです。震災からは3年目に入りましたが、先日の会議でも、「来月はお盆だね」という話しをしました。
――仮設住宅の建設は際立って早かったそうですね。
震災直後に多くの方が避難していたのは学校です。しかし学校はこどもたちのもの。生活を取り戻すためにもできるだけ早く学校をこどもに返すことが必要でした。しかし、それは避難所をよそに移すということを意味します。私は当初から学校は一次避難所。できるだけ早く市の施設など二次避難所を開設して、そして三次避難所が仮設住宅、という方針を明確にしていました。
方針を明確に打ち出したことで、その後の作業がスムーズに進んだのだと思います。当時の菅首相が「お盆までに仮設住宅を完成させる」と言っていましたが、東松島市では実際に8月12日までに入居者に鍵を渡すことができました。
経験を活かせたことが大きい
東松島市は2003年に発生した宮城県北部連続地震で、震度6強の地震被害を経験しています。当時は合併前で鳴瀬町と矢本町でしたが、多くの家屋の全半壊とたくさんの負傷者を出す被害でした。
その際に、瓦礫撤去の方法や仮設住宅の建設について貴重な経験をしたのです。
瓦礫処理では当初予算8億円のところ12億円もかかってしまいました。分別して処理する方法でないとダメだということを、その経験で思い知っていたのです。
今回の震災では瓦礫処理の予算は600億円でした。市の予算をはるかに上回ります。たとえば、もしも予算をほんの1%オーバーしても6億円。私たちのような町には大変な重荷になります。だから建設関係など関連する業者さんも最初から理解の上で動いてもらえました。
処理の方法には高い機械を購入する方法もあるでしょうが、私たちは人手による分別処理を採用しました。震災によって失業、解雇、就職取り消しに遭った方々の雇用も創出することができたのです。97%というリサイクル率は、市民の皆さまや市建設業協会の理解と協力があったからこそ。そして、その前提として、2003年の経験があるのです。
仮設住宅についても、水道やガスなどのライフラインの設置が困難でないことを考慮した上で建築場所を選定するといった知恵も、連続地震の経験から身につけたことです。経験がなければあの時期に仮設住宅を完成することはできなかったでしょう。
「東日本大震災の経験をしっかり検証して、それを改善して、そして将来の災害に備えてほしい」
――南海トラフ大地震や巨大地震の三連動の危険性が指摘されていますが、阿部市長からアドバイスはありますか。
災害が発生した時にはトップダウンで決定を下していくことが求められます。市長とか政治家というのはもともとトップダウンは得意なわけです。しかし、今回の東日本大震災は想定することすらできないほど甚大な被害を引き起こしました。あまりに被害が大きすぎて、トップダウンが機能しなかったケースもあったように思います。
日本中どこにいても大災害に見舞われる恐れはあるのですから、過去の災害、東日本大震災の経験をしっかり検証して、改善して、備えてほしいと強く思います。
私自身が心がけたことは、緊急対応で決断を先送りしないことです。必ずその日のうちにその場で判断するようにしました。たとえば自衛隊などの組織と共同で活動している場合を想像すれば理解できるでしょう。
それから、重要なのは市長は市の代表であるということです。仮設住宅の入居説明会では1753世帯すべての話し合いに出席しました。仮設住宅は2年間しか住めないという制限があったのを覚えているでしょう。しかし、2年で次のステップに進めるとはとても考えられない状況でした。当然、市民の皆さんは不安に感じられます。
「今日のところはサインをしてください。被災自治体で連携して、必ず入居期間を延長しますから。」といったお願いができるのは市長です。市長でなければ話が早く進まないということがあるのです。
津波被害を受け住む場所を失った方々にとっては、居住できなくなった土地をいくらで買い取ってもらえるか、また移転先の土地がどれくらいで購入できるかが未来に向けての重要なスタートラインになります。
このような話についても、もちろん市長である私が出席してお話をするようにしてきました。
東松島市の場合は、集団移転先を住民の希望で選定しているんです。選定先の地権者に「いくらで、この条件で買い取らせてもらえないでしょうか」という交渉をするのは市長の仕事です。評価の経緯も説明して、この金額以上は出せませんということも最初から示していく。これが結果として、事業のスピードを上げることにもつながっていると思います。
――これまでの震災対応を振り返って考えられることは。
入居期間は延長になりましたが、仮設住宅はいずれ壊すことになります。一戸当たり、700~800万円もかかっているんですよ。もったいないですよね。こんなことなら、復興住宅の建設を急いで仮設暮らしを抜きにする方法もあったように思います。結果論ですけどね。
市の職員も多くが被災しています。大切な家族を失った人もたくさんいます。自分たち自身が被災者であるということで、東松島市の職員は当事者意識がとくに強いと言えるかもしれません。それだけに、震災直後には夜中の0時から女子職員が炊き出しでおにぎりを作ったり、男子職員は山形まで買い出しに行ったりと、動き回ってきました。2年以上走り続けてきて、ここに来てようやく先行きが見えるようになってきたことで、張り詰めていたものが緩んで怪我や病気をしないものかと心配しています。職員のケアは被災後の大きなテーマだと思います。
2003年の経験があったから、私たちは他にくらべてスムーズに対応できたところもありました。しかしベストではありません。私たちが経験したことを何でも提供しますから、ぜひしっかり検証して、改善して、災害に備えてもらいたいと希望しています。
経験談を話す必要があれば、いつでも職員を派遣しますので、ぜひお声をかけてください。
インタビュー:2013年7月16日
後記
今回のインタビューは大曲浜獅子舞保存会の伊藤泰廣会長のお力添えによって実現しました。お話の中では2003年の経験があったからこそ、と強調されていましたが、たとえ経験があっても、やるべきことを見極め、実行し続けることがなければ現在の東松島市の状況はなかったと思います。見極めと行動のために過去の経験を生かすことが必要なのです。
東日本大震災。想像を絶するほどの大きな犠牲から、私たちが学ぶべきことはあまりにも多いと感じました。
(井上良太)
最終更新: