【明治三陸津波120年】最大津波高38.2mの場所

iRyota25

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東日本大震災の巨大津波が起きるまで、津波高さとして最大だったのは明治三陸津波の38.2m。

その場所がここだ。

岩手県大船渡市綾里町大久保地区。県道9号が三陸鉄道南リアス線と並行して走る場所。東北電力の電力柱に設置された看板に「災害は忘れた頃にやってくる。明29.6.15 38.2m」と記されている。

大船渡市の中心地、盛地区から半島方面にクルマを走らせること30分足らず。綾里の漁港近くから緩やかな坂道を登り詰め、下り坂に差し掛かる。知らなければ通り過ぎてしまうくらい地味なこの看板はある。ここはつまり峠に当たる場所。津波は道路の最高地点に達したということだ。

この場所からは海は見えない。緑の広がるのどかな田園風景が広がる中、道の両側から自動車が坂道を登って来ては、この看板の場所を通り過ぎて下って行く。

看板から少し北に下ると、漁港や海水浴場への分岐がある。

上の写真で右折方向の矢印表示だった海への道は、下の写真の左に降りて行く道。つまり、下の写真は津波到達点から少し下って、振り返って撮影したもの。S字カーブの先に津波到達点の看板があるのだが、もうここからは見えない。

逆に北側には、リアス海岸を切れ込むようにして入り込んで来る海が辛うじて見える。それもほんの少しだけ。しかも、ここからでもかなりの高度差がある。

38.2mと言われても、具体的にどれくらいの高さなのか想像するのは難しい。たとえば初代ウルトラマンの身長が40mということだったから、38.2mはウルトラマンの目の上くらいの高さということになるが、誰もウルトラマンなど見たことないのだから、具体的にイメージすることもできない。

まして、電柱に括り付けられた看板を見たところで、それは自分の目の高さでしかないのだから、やはり分からない。

試みに、さっきの看板の所からこの集落を横切って、反対側の坂道の途中から看板のあった辺りを眺めてみたのだが、山並みに遮られて「38.2m」の看板を見ることは叶わなかった。しかし、眼下に広がるこの集落全部が、明治三陸津波では海になっていたことは間違いない。

入り江に面した集落がまるごと海に呑み込まれてしまう。

海とともに生きてきた漁師町が、海によって一瞬にして破壊されてしまう。

漁師町だからとか、リアス式海岸だからということではない。ひとたび発生したら津波はその力が減衰し切ってしまうまで、何度でも繰り返し陸地に襲いかかってくる。漁師町でも田んぼでも畑でも、住宅地でも港でも工業地帯でも大都会でも。

38.2mという津波高さを東日本大震災で塗り替えたのも綾里湾内。その到達高さは40.1mだったという。想像を絶する記録が塗り替えられたわけだが、それでも気象庁はこう警告する。

これら(明治三陸津波や東日本大震災の津波)はここ100年間程度の、記録が残されている範囲での値であり、それ以前にも同程度、あるいはより高い津波が日本の沿岸を襲った可能性があります。

気象庁 | 津波について

多くの市町村、都道府県で策定されている被害想定は、過去の被害記録を元に考えられる最大規模の災害を対象に検討・決定されている。上の気象庁の見解と、行政の災害対策設計に齟齬があることには注意が必要だ。

38.2mあるいは40.1mを超える津波が来ないという保証はどこにもない。

明治三陸津波最高到達点

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