なぜ石碑は建てられたのか。昭和三陸地震と津波の碑

iRyota25

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1933年(昭和8年)3月3日、桃の節句の未明(午前2時30分)、東北地方沖で強い地震が発生した。釜石の東約200kmの海底を震源とするMw8.4(金森博雄氏によるモーメントマグニチュードの推定)の地震は規模こそ巨大だったが震源が遠かったこともあって、三陸の沿岸部のごく一部で震度5を記録するに止まった。しかし、およそ30分後に沿岸部に到達した津波は、岩手県気仙郡綾里村(現・大船渡市)で最大遡上高28.7mを記録する大津波となって三陸沿岸部に襲い掛かった。昭和三陸地震津波である。

釜石における昭和三陸地震の被害:歴史写真会「歴史写真(昭和8年4月号)」より
釜石における昭和三陸地震の被害:歴史写真会「歴史写真(昭和8年4月号)」より

commons.wikimedia.org

地震のタイプは、大陸の下に沈み込んでいく海側プレートの上部が引っ張られるようにして破壊される「アウターライズ」地震。1896年(明治29年)6月15日の明治三陸地震に関連する地震だと考えられている。明治の三陸地震と同様、揺れが比較的軽いにも関わらず巨大な津波に見舞われたこと、さらに真夜中の時間帯だったことも災いして1,500人を超す多くの人々が犠牲となった。

昭和の時代の津波災害だったこともあって、この地震津波の被災地を撮影した空中写真が残されている。独立行政法人土木研究所「物理探査」のページをぜひ見てほしい。旧土木研究所の図書館に長く保管されていたという貴重な写真を見ることができる。

 昭和三陸地震津波(1933)被災地の空中写真 -- 物理探査(地面の下のイメージング技術)
www.pwri.go.jp  

各地に建てられた津波の碑

釜石における昭和三陸地震の被害:歴史写真会「歴史写真(昭和8年4月号)」より
釜石における昭和三陸地震の被害:歴史写真会「歴史写真(昭和8年4月号)」より

commons.wikimedia.org

明治の三陸地震津波から37年。度重なる津波による被害に人々は教訓を後世に残さなければと痛感したに違いない。昭和三陸地震の津波被災地には数多くの碑が各地に建てられている。とくに朝日新聞社に寄せられた義援金を分配して建てられた石碑は、今回の東日本大震災の被災地でも数多く見ることができる。

荻浜の洞仙寺さん前の「大震嘯記念」の碑
荻浜の洞仙寺さん前の「大震嘯記念」の碑

石巻市荻浜(おぎのはま)、洞仙寺さん前にあった「大震嘯記念」の碑。これも朝日新聞社関係の碑だ。背後にあるお寺は射流に見舞われたのではないかと思われるほどのたいへんな被害を受けていた。碑の台座は新たに建て直されたようだが、碑文には次の言葉が刻まれていた。

昭和八年三月三日
大震嘯記念

地震があったら津浪の用心
忘るな火の元の注意
先に老若続いて避難第一

洞仙寺前の「大震嘯記念」の碑文

東日本大震災の時にこの碑がどれくらい役に立ったのか、残念ながら自分にはよくわからない。

旧・谷川小学校下の「大震嘯記念」の碑
旧・谷川小学校下の「大震嘯記念」の碑

同じく石巻市大谷川浜の旧・谷川(やがわ)小学校の下にも、朝日新聞社に寄せられた義援金で建てられた石碑がある。刻まれているのは次の警告だ。

昭和八年三月三日
大震嘯記念

地震があったら津波の用心
津波が来たらこれより高い所へ
危険区域内に住居をするな

旧・谷川小学校下の「大震嘯記念」の碑文

碑の背後に見える白い建物が、震災後に廃校になった谷川小学校。東日本大震災の地震の後、グラウンドに避難していた子供たちや教師たちを、それこそ「尻を叩かんばかりに」地元の人たちが叱り飛ばして、道路向かいの杉林に登っていってぎりぎり避難できたのだという。新聞記事が伝えたところとはニュアンスが違っているが、地元の人の話によるとそういうことだったらしい。

津波の石碑と小学校
津波の石碑と小学校
校舎は2階部分まで破壊された
校舎は2階部分まで破壊された
高台に建てられた校歌の碑
高台に建てられた校歌の碑

谷川小学校は完全に津波に呑まれた。石碑と学校の位置関係を考えれば、「津波が来たらこれより高い所へ」との碑文が虚しくも感じられてしまう。小学校は統合されて今はなくなり、近くには校歌を刻んだ石碑が建てられている。すでに解体された校舎の跡地は、生コンクリート製造プラントとして利用されている。震災当日、生死を分けた緊迫の状況は、これから先どのように伝えられていくのだろうか。

大谷川浜から小学校方面を遠望すると、たしかに石碑よりも低い場所は完全に津波に流されてしまっている。道路すらほぼ壊滅で、ダンプカーが走れるように新しい工事用道路が仮設されていたほどだ。しかし、東日本大震災の津波は昭和の三陸地震津波よりもはるかに巨大だった。谷川小学校の校舎を含め、津波の石碑の標高をはるかに越える場所までが激しく破壊されてしまった。

小学校からさらに杉山へと避難することで多くの命が救われたことは特筆すべきことだろうが、「津波が来たらこれより高い所へ」の碑文をどうとらえたらいいのか。過去の津波到達点を記録して、ただ後世に伝えていく「だけ」では、まったく足りないのではないか。考えさせられる。

吉浜の被害が少なかったのは奇跡ではない

昭和三陸地震をきっかけに、よく言われる「これより下に家を建てるな」を実行した集落は、有名な宮古市姉吉地区(昭和三陸地震津波の後、海抜60mに建てられた石碑の言い伝えを守り、漁師の集落なのにかなりの高台に暮らしてきた12世帯約40人の住民も家屋も無事だった)ほかにもある。そのひとつが現在の大船渡市吉浜の本郷地区だ。

吉浜の本郷地区は明治の三陸地震津波で家屋の40%が流出し、人口の約20%にあたる204人もの命を失った。昭和の三陸地震津波でも、25%の家を失い、3名の死者を出してしまった(当時の吉浜村全村では犠牲者17名という)。

その経験から、役場や道路などの高台移転を徹底し、防潮堤も建設した。居住地となった山沿いの斜面と浜辺の間の低地は、住民が移り住むのを防ぐため、田んぼや畑として利用することになったという。

【ぽたるページ】東北、この一枚。(5)吉浜の津波遺構

昭和の三陸地震では、吉浜の新山神社にあった石の鳥居が根元から破壊された。これを地震と津波の恐ろしさを伝えていく遺構として、平成20年には新たな石碑も建てられている。

新山神社の鳥居の基部と「津波の追憶」の碑(2013年7月撮影)
新山神社の鳥居の基部と「津波の追憶」の碑(2013年7月撮影)

昭和の三陸地震津波で撮影された空中写真でも見てみよう。新山神社と考えられる場所を丸で囲んでみた。神社から海に向かって地表が土砂崩れの跡のようになっている。集落のあちこちに津波で崩壊したと思われる地形がある。あらためて、津波が非常に高い場所まで到達していたことが見て取れる。

昭和三陸地震津波(1933)被災地の空中写真 -- 物理探査より
昭和三陸地震津波(1933)被災地の空中写真 -- 物理探査より

東日本大震災で吉浜には20m規模の津波が押し寄せたが、はるか昔に高台移転を終えていたため大きな被害は免れたという。これを奇跡と呼ぶ人もいる。しかし、東日本大震災での吉浜の被害が、低地にいた1人の行方不明と住宅2戸にとどまったのは、80年前の悲劇を繰り返さないという決意を世代を越えて継承してきたからに他ならない。

津波の追憶

昭和三陸大津波

昭和八年三月三日三時十五分襲来
新山神社参道入口の鳥居が第二波により被災、津波の恐ろしさを生々しく物語り、残骸として此処に鳥居の一部が存在する。(鳥居跡地はこれより東側十mの位置)

現在地における津波遡上高は碑頭より三m上と追想される。

薄らいでいく津波の教訓を、後世に引き継ぐべく、昭和三陸大津波追想碑を此処に建立する。

平成二十年五月二十四日

大船渡市三陸町吉浜「津波の追憶」碑文

しかし、それでも。

有名な田老の防潮堤「万里の長城」も度重なる三陸地震津波を受けて、昭和三陸地震の翌年から工事が始めらたらしい。太平洋戦争をはさんで続けられた工事の結果、1960年のチリ津波では町の被害をよく防いだ。しかし、東日本大震災で無惨に破壊されてしまったのは周知の事実である。

昭和三陸地震津波を受けて、吉浜と同様に高台移転を実施していたのに、移転先の高台の住居までもが被災した釜石市唐丹町小白浜地区のような例もある。同じく唐丹町の本郷地区でも高台移転が実施されていたが、高台の土地は限られていたため、海岸に12m級の防潮堤ができたのをきっかけに、浸水地域に住居を建てるケースが増え、東日本大震災では大きな被害を出してしまったという。

高台に移転することで安全性を高めることはできる。しかし、やはりそれ「だけ」では足りないということなのだろう。

昭和の三陸地震津波のことを調べるていくと、災害にどう備えたらいいのか、一言で備えるといっても難しい問題がたくさんあることを、あらためて考えさせられる。

大津波の悲劇が起きたのはわずか80年ほど前のこと。おじいちゃんや曾祖父ちゃんの時代の出来事なのだ。そして、町を呑み込んで跡形もなくなったしまうような大きな地震や津波は、日本各地で、3世代あるいは4世代のうちに繰り返されている。今後そのサイクルが大きく変わって1,000年先まで巨大地震が起きないという確率など、ほとんど無いに等しいだろう。

子は可愛い。孫はもっと可愛いとよく言われる。じゃあ曾孫はもっともっと可愛いだろうし、曾々孫はさらにずっと可愛いはずではないか。そんなまだ見ぬ子孫に「悲しい思いを繰り返してほしくない」。そのためにできることは、きっとある。

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