寄り添う、という言葉を安易に使うことなどできない
春も終盤に近づいたある日、ひとつの記事に出会った。そこには記者として彼女が陸前高田で経験したというこんな言葉が綴られていた。
私は「娘さん」という言葉も、「市民会館」という単語も口に出すことが、どうしてもできなかった。
たくさんの大切な人の命を奪った震災の無情と、何の質問もできなかった記者としての情け無さ。夜遅くに宿に戻った私は、相矛盾する思いに打ちひしがれた。
活字が心の中にあるスクリーンを打ち抜いて、ずっと自分の中にあったものを際立たせた。記事はこう結ばれる。
なぜなのだろう。自宅や実家を流された人でさえも「うちはだれも亡くなっていないから、何もいえない」といまでも口を閉ざすことが少なくない。「街」が丸ごと被災し、住民のだれもがさまざまな形で傷ついている。東日本大震災の想像を超える「被災」の、闇のような広がり……。
「被災地に寄り添いたい」などと書かれた記事を震災後、いくつも目にした。だが、私には「寄り添う」という、そんな言葉を、安易に使うことはできない。伝えたい、伝えなくては、という記者としての思いの一方で、いまも逡巡(しゅんじゅん)する自分がいる。
うちだけ残ってしまって申し訳ありません
初めて「取材」という目的で被災地に入った時のことを思い出した。
いったい誰に声をかけ、何を聞けばいいのか。心の準備はほとんど何もできていなかった。現地で合流したNPO団体が福祉関係の支援活動を行うというので、その町の高台の公立病院に同行。障碍者のためのイベントに飛び入りのボランティアとして参加させてもらった。病院の1階には水に浸かったベッド、椅子、医療器具などが積み上げられていた。空調の効いた2階のスペースでゲームをしたり、ピエロの劇を見たりするこどもたちの横顔には笑いが絶えなかったが、窓の外には横倒しになった建物が点在する土色の世界が広がっていた。
イベントが終わった後、NPO団体の代表が自分のことを紹介してくれた。取材を受けてもいい方は声を掛けてください。この町の現状を外の人たちに伝えていきましょう!
福祉関係の仕事をされている2人の女性が手を挙げた。その1人がY・Hさんだった。翌日、マラソン大会が行われている陸上競技場のグラウンド近くのベンチでY・Hさんの話を聞いた。毎年恒例のマラソン大会だが、がれきが山と積まれた町をこどもたちが目にすることがないようにコースがトラック周辺に変更されたとY・Hさんは教えてくれた。ベンチの近くをマラソン大会の選手が駆け抜けていく。
津波が国道の丘を越えたその町で、Y・Hさんの自宅は奇跡的に被害を免れた。ひな壇状の住宅地の1軒下の家まで激しい津波に襲われたが、Y・Hさんは家族も家も自家用車も無事だった。みんなに「良かったね」と言ってもらった。家にあった食料や衣類などを被災した人たちに配って回った。少しでも役に立たなければと思っていたという。
しかし、彼女の話は次のような言葉につながっていった。
「前に向かわなければ、と思うんです。でも、前っていったいどっちなんでしょう。分からないんです」
「いまでは母はほとんど家から外に出られなくなってしまって、人に会うと、うちだけ残ってしまって申し訳ありませんと、そればかり繰り返しています」
「いまはこの状況を受け入れているだけで、十分がんばっていると思うのです」
そして、「こんな話ばかりじゃ記事になりませんよね」と小さく笑って、人と人のつながりのこと、こどもたちに託す未来への希望、たくさんのことがあったけど人間って捨てたものじゃないですよ……。そんな話をしてくれた。
Y・Hさんからもらった言葉をどう伝えたらいいのか。記事を書きながらキーボードを打つ手が何度も止まったことを覚えている。
苦しさを比べることなんてできないが
それからも何人かの方がたと出会い、話を伺い、時間をともにさせてもらってきた。
「被災地に行って逆に元気づけられた」と感じることも少なくなかった。苦しい経験をされたことで人間としての輝きが増しているのかも、などと不遜ながら思うこともあった。なかには深く傷ついている人もいた。心のありようが大きく起伏する方とも知り合いになった。
多くの人と出会ううちに取材としてではなく、友だちに近い感覚でまた会いに行きたいと思うようになった。傷ついて感情の波が大きな「友だち」を励ましたいと考えたこともあった。
実際、大意次のような手紙みたいな記事を書いたことがある。
「人は悲しみを経験しないと他人の悲しみを分からない。あなたがどんなに悲しんでいても、きっと通じ合える人はいる。大きな悲しみを抱いているのは東北の被災地の人たちだけではないのだから」
少し迷ってボツにしたが、書いている時にはまっすぐな気持ちで書いていた。いまは、ボツにして良かったと思う。
震災から2年が過ぎた去年の春のこと。それは2年間にわたって支援を続けてきた多くの団体が、主に資金の問題から被災地から去っていった時期だったのだが、個人として現地に残って活動を続けるという人たちと知り合いになった。サコちゃんとマッハと呼ばれている2人が教えてくれた言葉が忘れられない。
可哀そうなんて同情しているんじゃダメなんだ。同情じゃなくて「同苦」だ。って先輩に言われてガーンだったんだ。
私たちには想像できんようなキズがあると思うんよ。ここの人たちが過ごしたあの日。私たちには想像もできないあの日があって、そこから日常が生まれている。いま刻まれているのは、ぜんぶあの日からの日常なんだっていうことは忘れてはいけんと思う。
息子へ。やはり、寄り添うなど言うことはできない
取材がきっかけで知り合って、休暇が取れるとまるで遊びに行くような感覚で会いに行く近江先輩が「でもさ、踏ん切りがつくまでにはやっぱり時間が必要だったよな」と急に震災直後の話を始めたり、やはり先輩と呼ばせてもらっている佐藤さんが真顔になる瞬間に出くわしたりすることがある。
そのたびに「あの日」という言葉を思い出す。サコちゃんの言う通り、自分にはあの日を想像することはできない。不可能なのだ。どんなに近づこうとしても、決してたどりつくことができない、あの日。
でも、感じることがなければ友だちにすらなれないだろう。同情なんていう嫌な言葉ではなく、人と人として通じる気もち。それがなければ……。
何を言ってやがる。悲しみを知っているなんてイキがったって、他人の苦しみをすべて引き受けることなんかできるはずがないだろう……。
頭の中で言い合いが始まる。言葉がぐるぐる回る。こういう問題を考えたり書いたりするのは言葉が苦手とするテーマなのかもしれない。
このゴールデンウィークに一緒に東北を回って、お前はえらいなと思ったことがある。前に久之浜に行ったときもそうだったが、お前は被災した町の光景を前にしてほとんど何も語らなかった。ふだんはあんなにお喋りなのに。
あまりの光景に言葉を失ったのかとも思っていたが、そうじゃなかったんだろ。言葉にできないことを「とりあえず」言葉にしとく、ということをしないだけの分別を持っていたんだね。
お前は黙って大人たちの話を聞いていた。そして地元のこどもたちと一緒に、まるで昔からの近所のダチのように遊んでいた。
自分はこれからもずっと書いていくだろう。でもその上で、お前のことを見習わなければと思っている。
もしも仮にそう書くことで記事がそれらしい体裁になるとしても、嘘を書いてはならない。これは当たり前だ。まったく同じ意味で「寄り添いたい」とか「応援したい」といった定型の言葉に逃げてはならない。たとえ言葉が出てこなくて苦しくてもだ。(たしかに自分も過去に使ったことがある。だからこそ。)
あの日にたどり着くことが絶対にできない自分は、きれいに割り切れるような言葉を捨てるところを出発点にしなければならない。割って出た余りに向き合い続けていかなければならない。それが人と付き合うってことだろ?
大久保真紀さんの言葉を起点にして、父さんはいまこう考えている。
文●井上良太
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