息子へ。東北からの手紙(2014年9月1日)

iRyota25

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9月1日は関東大震災が起こった日。いまから91年も昔のことだけど、当時の雑誌を国立国会図書館のアーカイブで読んでいたら、まるでつい最近の、下手したら自分だってボランティアに行ったかもしれないくらい最近のことのように思えてきた。雑誌を作った記者たちが、自分の知り合いのように思えるんだ。

とくに、写真時報という会社が出版した「関東大震災画報」という雑誌。その最初の方にある「社告」という文章は、巻頭言みたいな文章なんだけど、その中にこんな一節があった。

一時は社員一同茫然自失の態でありましたが、ひるがえって考えれば、(中略)未曽有の大地震を速やかに写真によって広く天下に伝え、それを永久に保存すべく本誌を作ることは、天がこの際わが社に与えたる一大責務であることを深く感ずるとともに、社員一同は事故の不幸を顧みるの暇なく、直ぐに本誌薄幸の準備活動を開始し、万難を排し、身命を賭して(中略)奔走の結果、辛うじて材料の収拾印刷製本に努力する等、艱難の結果ついに(後略)

社告「関東大震災画報」写真時報

この言葉に、石巻日日新聞の近江社長や記者の人たちの姿が重なった。

石巻日日新聞は津波によって印刷機が水没し、新聞を発行することができなくなった。しかし、こんな時だからこそ情報が必要だと考えて、輪転機の紙を使って手書きの壁新聞を作り、震災翌日の3月12日から町のあちこちに掲載した。ドラマにもなったし、なにより近江さんにも会ったことがあるんだから、そのことは知っているよね。

でも、「こんな時だからこそ」というのがどういう意味か、わかる? 手書きででもいいから、壁新聞でもいいから発行しようと決断した理由。

震災直後、難を逃れた人々はいろいろな場所に避難していた。高台やビルの屋上といった想像できる場所だけじゃなく、スーパーの屋上の水道タンクの上とか、中瀬にあって奇跡的に水没を免れた萬画館とか、ありとあらゆる場所。がんばろう!石巻看板の黒澤さんは松の木に登って一晩を過ごしたと言っていた。避難所に指定されていた場所だけではなく、何百カ所、もしかしたら何千カ所の場所で、停電で真っ暗な空の下、濡れた体を震わせながら夜を過ごしたんだという。

どこに誰がいるのか、どこに何人くらいの人がいるのか、もちろん行政にも全く把握できていなかった。食べ物も飲み物もない。明かりもない。携帯電話もつながらない。濡れた体は冷え切っている。泣き叫ぶ子供の声。子供だけじゃなく、あちこちですすり泣く声が聞こえてくる。そんな中、とにかく逃げられる場所に身を寄せている人たちは、いつ助けがくるのか、自分たちは見捨てられてしまうのではないか、そんな不安にさいなまされていたことだろう。

津波の後、見て回れる近くを歩いて、町の様子に近江さんは危機感を持ったという。日本人は震災でも暴動を起こしたりすることなく、マナーよく生活していたなんて風に言われたものだけれど、実際には「これは大変なことになるかもしれない」と切迫したものを感じていたんだという。近江さんは二次災害という言葉を使った。悲惨な状況とも言った。情報が途絶することで起こるかもしれない惨劇を防ぐためには、どんなに小さなものでもいいから情報が必要だ。

そんな切羽詰まった思いから始めたのが壁新聞、新聞社としてとにかく出来ることをやろうというものだったんだ。

関東大震災では、情報の途絶が流言を呼び、暴動、強姦、自警団と称する住民による他の住民に対するリンチ、火事場泥棒など筆舌に尽くせぬ惨事が起こった。電話も電信も失われ、情報伝達のほとんどを担っていた新聞・出版は機能しなかった中で起こったことだ。

当時の印刷は活版印刷だ。一文字一文字の活字を拾ってゲラ箱に植字したものをハンコにして印刷する。ところが建物が倒壊するくらいの激震で、活字を入れた棚がひっくり返った。活字はきちんと整理して並べているからこそ拾えるもので、ばら撒かれた状態の活字は活字として機能しない。さらに大火災で焼けてしまった新聞社や印刷所ではそんな活字もすべて融けて失われてしまったことだろう。

だから、新聞も印刷所も機能しなくなった。電話や電信も施設や電柱がやられて使えなくなった。近江さんが感じていた切迫した思いが、大正時代の雑誌を読むことで、身近に迫ってくる。

関東大震災は遠い昔の出来事ではない。同じような状況が東日本大震災でも起こっていた。当時のような活字ではなくても、やはり印刷できないという事態は被災地の広い範囲で起きていた。

「関東大震災画報」は、震災発生の4週間後、9月28日に完成し、10月1日に発行されている。印刷機能が失われた町で、このスピードで雑誌を発行することは、非常な困難があったはずだ。くわしいことは分からないが、おそらく原稿を携えて被害を受けなかった町で印刷し、どうにかこうにか製本所や輸送手段を手配して、この速さでの発行にこぎつけたのだろう。

「関東大震災画報」の場合には、若干の商売気も感じられるが、それでも困難を顧みずに雑誌を作り上げた熱意は並々ならぬものだ。

情報には何かを伝えるだけでなく、人の心を安心させる機能がある。大正時代の大震災と、東日本大震災で情報が果たした役割を思うと、もしも大きな災害が発生した時に、僕らが何をなすべきなのかが見えてくるように思う。

東日本大震災を他人事と思ってはいけないとよく言われるが、関東大震災だって同じ。そこから学び取らなければならないことは多い。

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