震災を経験して(1)「不幸中の幸いだった我が家の再建事情」

onagawa986

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ありえない早さで自宅を再建できた理由

我が家は2011年中に自宅を再建することが出来ました。
しかも「土地が無い! 土地が無い!」騒がれている石巻市で。

なぜか?
大金持ちで金に物言わせて買ったのか?

イヤイヤ、我が家は夫婦のけっして多いとは言えない給料でカツカツの生活してましたから・・・

理由は「震災前にすでに土地を購入していたから」

土地を購入したタイミング、その土地を選んだ理由・・・
私は一生分の運をこのとき使ったに違いない!そう思えてならないのです。

天井から雨漏りが・・・!!

女川町に嫁ぎ、主人の家族との同居生活がスタートしたのは震災の10年前。
お世辞にもキレイとは言えない、つぎ足しつぎ足し増築された築50年の家。
その小さな忍者屋敷のような家に震災当時9名で暮らしていました。

私たち夫婦は唯一ある2階建て部分の6畳二部屋を使っていました。
その天井の木目に何やらあやしい丸いシミが・・・雨漏りじゃん!?

親戚の大工の叔父さんに屋根をみてもらうと「肝心要の棟が曲がっている、直すと言うレベルでは無いな!はっはっは!」と笑われてしまいました・・・

もはや90歳になるお祖父さん、お祖母さんが建てた家です。当然と言えば当然。
私たちの代で建て替えをする決断を迫られた、2010年春の出来事でした。

女川に建てるの? 石巻に建てるの?

建て替えるとなると、次なる問題は「現在の土地に建替えて女川で一生暮らすのか?」という事でした。
自分たちの子どもが高校へ通う頃、女川に高校は無くなることがすでに決定していました。
石巻線で石巻へ通学しなければならないこと、それから夫は石巻市、私は東松島市への片道40~50分の通勤時間が短くなればどんなに楽になるか・・・そんな理由から、建てるなら石巻市へと気持ちはすっかり傾いてしまっていました。

ここ津波来るんじゃない?

石巻に建てると決まれば次はいよいよ土地探しです。
家計にゆとりがある訳では無いので、中古物件も含めて土地探しが始まりました。

まず条件に合った物件が見つかり見学に行った場所は「石巻市南浜町」
9人の大家族でも申し分ない部屋数となんとかなりそうな金額、築10年で今の家より広く断然キレイ!
実際に現地を見てみると、やはり現実味を帯びて夢も膨らみます!

でも・・・

「ここ、津波来るんじゃない?」

冗談交じりに、ポロっと口からそのセリフが出ていました。

場所は日和大橋近く、年に何度か台風が来ると高波で通行できなくなる雲雀野海岸から入って直ぐでした。

「う~ん確かに・・・とりあえず他もあたってみっか?」

次に見学した場所は「東松島市大曲浜」
場所的には、夫婦の会社のちょうど中間地点にあります。
車庫もあるよ! 雨の日も洗濯ものを干せるテラスもある! 子供と一緒にはしゃぎながらぐるっと家をみてわまりました。

いいな~! でも予算オーバーかな~?
なんて高ぶった気持ちで内心ここに決めたいな! とも考えていました。
近所を見てみよう!と路地へ出て歩き出すと・・・海へ出ました。建物で見えないのですが意外にも近かったのです。

女川の自宅は玄関を開くと眼下は女川湾、毎日海を眺めていました。
10年暮らして海に恐怖を感じたことは一度もありません。

でもやっぱり私の口から出たのは「あ~ここも津波来るよね?」だったのです。

お義母さんは「そんなこと言ってたら家なんて決まんないっちゃ~」と笑いましたが、気に入った物件が結局はその一言で白紙となったのです。

母が体験したチリ地震津波

最終的には石巻の内陸部、蛇田に手ごろな土地を見つけ、2010年秋に土地売買の契約をしました。
そして家を建てる具体的な話を進めている最中・・・あの大震災が起きてしまったのです。

お気づきの方もいるでしょう。
「石巻市南浜町」「東松島市大曲浜」
どちらも津波で壊滅的な被害に遭い、住むことが出来なくなった地域だという事を。

今でも家族から言われます。
「あのとき津波来るじゃんって言われなかったら決めてたとおもう、家族が無事でいられたのは、あの一言のおかげかもしれない」と。

なぜその一言を発したのか?私自身でもわかりません。

ただ一つ言えるとすれば、小さいころから母に聞かされていたチリ地震津波の話で、”津波は怖い”という恐怖心が植え付けられていたこと。

北上川沿いの石材屋に生まれた私の母は、1960年のチリ地震津波を8歳で体験しました。
「その日の朝未明にたたき起こされると、訳も分かず裏山へ登らせられてさ。つい先日買ったばかりの新しい木造の船をつなぎ直そうと母ちゃんが川へ降りようとしたら「何やってんだ!船なんかいいがら登れ!!」と父ちゃんがいきなり怒鳴って、母ちゃんがあわてて川から逃げるとすぐに、家の二階よりも高い真っ黒い波が川をのぼって来て、船なんかあっという間にかっさらわれて壊れてしまった。何回も何回も津波はのぼってきて子供の自分は何がなんだかわからなくて、そりゃあもう恐ろしがった」と。

田んぼに囲まれた内陸に住み、年に一回の海水浴が楽しみだった小学生の頃の私。「津波は怖いものだ」と深く心に刻まれたのは、やけにリアルで迫真に迫った母の体験談のおかげだったのです。

助かったのはご先祖さんのおかげ?

町民の10人に一人が犠牲になってしまった女川町。
その中で、9人家族全員が助かり、新たに購入した土地も津波の被害を免れ私は「ご先祖様に守ってもらった」とことあるごとに話していました。

ある新聞社の方にその話をしたときに、このように言われました。
「ご先祖様に守ってもらった、それも一理あるかもしれない。でも土地を見た時に”津波が来るかも”と口に出す事が出来るということは、あなたに津波は怖いと認識する”防災力”があったからこそ。ご先祖様でも誰でもなく、あなた自身の力で家族を守った。これからもその”防災力”をいろんな人に伝え育てて欲しい」

目からウロコでした。
知らず知らずのうちに自分自身に家族を守る防災力が備わっていたのかと。

再建できても心から喜べない・・・

震災後は深刻な建材不足が続き、工事は遅れ遅れでしたが新居が完成しました。

それまでの間は女川の避難所に入ろうかと問い合わせてみましたが、いっぱいで入れない状況。親戚の家を転々としました。

引っ越しといっても荷物は流されてありません、ダンボール数箱で事は足りてしまいました。

やっと我が家と呼べる安住の地を手にしたのに気持ちはなんだか晴れません。

一つは自宅のローンが始まるのと同時に主人が被災した会社を退職したこと。
もう一つは、まだまだ女川の友人は仮設どころかほどんどの人が避難所生活を強いられていたことでした。

後ろめたい気持ちで友人に引っ越したことを伝えると「いがったっちゃー!!おめでとう!引っ越し先が津波こない場所で本当にいがったね!」と自分の事のように喜んでくれました。

「みんな那須野さんに続くからね!うちで家建てるときはいろいろ教えてよ!」

私は何を心配していたんだろう?
再建の喜びをねたむ人なんか誰一人いない。一人ひとり自立していくたびに「いがったね~!」と喜び合う・・・そうだ、女川はそんな温かい人たちが集う素敵な素敵な小さな町だったのです。

忘れずにいること・伝え続けていくこと

あの日から3年の月日が流れようとしている。
あの日からいろんなことが劇的に変わってしまった。
あっという間の3年。
長くて辛い3年。
ゆっくりでも前へ前へ少しずつ歩んだ3年。

その人、その人によって3年の感じ方は違う。

2011年3月11日金曜日。

忘れてはいないか?
だんだんと減っていく携帯の充電に焦りながらも、家族へ何十回もリダイヤルし続けたことを。

忘れてはいないか?
余震に怯えながら、暗闇のと寒さに震えながら、みんなの無事を祈った満天の星空を。

忘れてはいないか?
地震後に初めて口にした炊出しのおにぎりの美味しさ、温かいみそ汁に固まった心がほどけて涙がこぼれそうになったことを。

忘れてはいないか?
家族が行方不明になっている友人が”無事で良かった!”と笑顔で抱きしめてくれたときの涙とぬくもりを。

災害はいつどのタイミングで起こるか誰にも分からない。
いつでも避難先を意識して、自分の命は自分で守る。
災害時に自分がどのように行動すれば良いかのシュミレーションは出来てる?
家族で避難場所は共有している?
行先を告げないで出かけたりしてない?
水、食料、燃料は確保できてる?

震災当時を思い出しながら、大切なことを家族で確認し合おう。

先日、お義母さんが話していました。
「津波から逃げた時とっさに履いたのが、いつ捨てるか悩んでたサンダルだったもんね~! 全部流されるっていうのになんで一番いらないモノ履いて逃げでしまったんだが!」
「イヤイヤお義母さん! 一番のお気に入りを選んでだら絶対に間に合わながったんだよ!」
「まあね、なんだか捨てられなくってとって置いてだげっと・・・ やっと捨てたよ、3年越しで!ははは~!」

着の身着のまま逃げたあの日。
全て流され、身に付けているものしか残らなかった。

忘れない、忘れられない。

我が家のリビングの特等席には、基礎から剥がされ国道に無残な姿で横たわる女川の家の写真が、今日も飾られています。

那須野公美

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