原発と原爆、そしてゴジラ

iRyota25

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映画「朝日のあたる家」のワンシーン。主人公の一人の少女が教室で原発と原爆を言い間違えるシーンがあった。

原爆じゃないよ、ゲ・ン・パ・ツとクラスメートから笑われちゃうんだけど、映画を見ながらぼくもプッと吹き出した。原爆は兵器。でも原発は発電のための設備――。

でも、いまとなっては笑えない。

1954年という年

日本が戦争に敗れて9年が経過したこの年の11月、映画「ゴジラ」が封切りされた。その後ゴジラはラドンやモスラやキングギドラと戦い、地球を守るヒーロー的な怪獣に姿を変えて行ったけれど、最初に登場したゴジラは、彼自身(オスかメスかは分からないけれど)、水爆人権の被害者であり、地上の平和を乱す者として大量破壊兵器にもなりうるオキシジェンデストロイヤーという化学兵器によって屠られた。

その同じ年の3月、日本人は広島・長崎に次ぐ三度目の被曝をビキニ環礁近くの、米軍が指定した範囲外で操業していたマグロ漁船「第五福竜丸」が、予想以上の効果を挙げた水爆実験による死の灰を浴びることで経験していた。

誰が言うでもなく、東京杉並区のひとりの主婦が始めた反原水爆運動が国民的な広がりを持って全国に拡大して行っていた。

その年から翌年にかけて、アメリカ政府が推進する政策「アトムズ・フォー・ピース」運動を日本国内で根付かせる目的で、読売新聞社、朝日新聞社はじめ、全国各地の主要新聞社の肝いりで、原子力の平和利用を宣伝する博覧会が開催されていいく。

1950年代半ばは、核の恐怖と、その反動としてアメリカから押し寄せてきた平和利用とのSF的文脈とが対置され、その中で日本人が「核は怖いけれど、平和利用のための原子力は推進すべき」という、いっけん矛盾した、しかし引き裂かれてはいてもその時代を生きた人たちにとっては切実な、「未来に向けての状況」を少しずつ受け入れて行った時代だったと言えるかもしれない。

しかし、怪獣映画の世界的ヒット作として世に生まれたゴジラは、その出生の時からすでに、激しすぎるほどの反核の象徴として描かれたものだった。ゴジラにとっての致死兵器であるオキシジェンデストロイヤーで苦しむ断末魔の声。一瞬だけ映る少々間抜けなゴジラの白骨。しかしそれよりショッキングだったのは、ゴジラの死を見届けた科学者がオキシジェンデストロイヤーの大量破壊兵器、あるいは世界に対する恐怖兵器としての利用の道を断つために、自らの命を犠牲にしたことだ。

彼がその決断を行うシーンで、どのような映像が流れていたか。

それは、被災者による「平和への祈り」。ゴジラ被害の被災者なのか、戦災被害者なのか、広島・長崎の原爆被害者による祈りなのか。

映画全編の流れの中で明らかに異質に思えるそのシーンが、ゴジラを抹殺する科学者の決意の場面で採用されていたということは重たい。

2014年。あれから3年

ハリウッドで作られていたゴジラ映画の最新作が5月に全米で公開される。日本でも7月25日から見られることになるそうだ。

アトムズ・フォー・ピースの嘘を暴くタイミングで製作された初代ゴジラが、東電福島原発事故の3年後によみがえる。

筆者はこの映画の中味をまだ見ていない。しかし、すでに公開された予告編からだけでも、大きな期待を抱いている。

第一作の後、怪獣同士の戦いの映画シリーズとして定着してしまったゴジラとは一線を画す、初代ゴジラの末裔が、21世紀のハリウッドで描かれていることを。

反核、反原発なんて言ったって、権力側に立つ人たちが振りかざすものに、直接刃を向けることは不可能に近いことなのかもしれぬ。1954年の頃と違って原発利権に組み込まれている人々のタッグは堅い。

しかし、エンターテイメントや娯楽の形で浸透して行く力を潰すほどの強権は、おそらく世界史上これまで存在しないし、今後も存在し得ない。

原発の可否を言うているのではない。

政治的発言として、アイゼンハワー米大統領が離任の置き土産として語った核の平和利用という言葉の是非を、半世紀後のぼくたちがもう一度再確認し、場合によっては否定することだってありうる。その道を、日本を代表する怪獣映画がアメリカの地でリバイブすることが「動き」として示しうるのではないかと、期待をこめたいのだ。

他力本願? たしかにそうかもしれない。しかし、これまでわたしたちは、エンターテイメントの力を過小評価していたのではないか。

差異性をことさらに強調しがちな言葉とは違う、疑似体験に伴う共感。エンターテインメントにはその可能性がある。

原子力は最初には原爆を作るために技術体系がまとめ上げられた。
次いで、より効率的な原爆材料をつくるためにウランを燃やしてプルトニウムをつくり出す原子炉がつくられた。
その原子炉が副産物として発生する熱を使って、長期間潜航し続けることができる原子力潜水艦が作られた。ディーゼルであれなんであれ、それまでの船舶用エンジンは酸素がなければ燃料を燃やせない。しかし原子力なら酸素なしで動力を得ることができる。つまり、長期間の潜航が可能な潜水艦を製造できることになる。
そして、その際に製造された原潜用の原子炉を原型として、熱によってタービンを回し発電するという原子力発電が生まれた。

疑いを挟むことのできない歴史なのだ。

しかし、それを言葉で話しても、頭でっかちな言葉としてしか受け入れられないかもしれない。

さらに困ったことに、頭でっかちではない実体験に基づく言葉として語りうる人たちがどれほど残されているか。広島や長崎の原爆、あるいは日本中が焦土と化したあの時代のことを実際に見聞きしてきた人たちは、すでに少なくとも80歳を過ぎている。

その約10年後、第五福竜丸の悲劇や、ほぼ時を同じくしてわき起こった反対運動や、それと並行して進められた原子力の平和利用に関する博覧会、さらには初代ゴジラを知る人も、意外やいまではもう70歳以上の人たちだ。

ゴジラの息子ミニラやデストロイヤを知っているという比較的若い人たちは、初代ゴジラをリアルタイムには経験していない。まるでプロレス技のようなパンチやキック、体当たり、あるいはマゾヒスティックなまでに強敵に痛めつけられる怪獣映画シリーズとしてのゴジラを記憶するのみかもしれない。

しかし、ゴジラはその出生の瞬間から、シリーズ化された後の存在とはまったく異質の存在だった。

ゴジラという稀代のキャラクターにシンパシーを感じるすべての人たちには、それを追体験し、もう一度改めて見つめ直すドアが開かれている。

2014年、ゴジラが復活するということは、そのような意味を持っているのだと思う。

 【ぽたるページ】ハリウッド版「ゴジラ」が引き継ぐもの
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文●井上良太

最終更新:

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