海辺の地をゆく「石巻市・巻石」再訪 2013年4月15日:時代を越えて伝えられていくもの

iRyota25

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2013年4月15日(767日目)の宮城県石巻市・巻石、住吉公園

以前にも写真で紹介した石巻の巻石を撮影していたら、ご近所のおじさんが自転車でやってきて、立ち話でいろいろ教えてくれました。

海辺の地をゆく「石巻市・巻石」2012年11月17日
 海辺の地をゆく「石巻市・巻石」2012年11月17日
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石巻の町の名前の由来ともされる巻石と袖の渡を写真でお伝えしています。

「今日も見えませんね。自分は運が悪いのかなあ。巻石の写真を撮りに来るといつも潮が満ちていて、巻石が見えないんです」

「地盤沈下でずいぶん沈んでしまったからね。昔は『巻石が見えなくなると石巻の町中が水没する』なんて言われてね。でも地盤沈下で石も町も標高が低くなったわけだから、そんな話も通用しなくなったけどね」


そんな話をしていたら、「ほら、あそこ、石の頭が少し見えてるよ」。

おじさんが指さした瞬間、雲間からぱっと光が差してきて、不思議なカラーバランスの写真になりました。川面にせり出した松の幹の下に小さく石の頭の部分が見えるでしょう。

「よかったね、町が水没することはなさそうだ。今日は神社のお祭りなんだ。といっても神主さんが祝詞を上げるだけのお祭りなんだけどね」

おじさんは巻石のことのほか、いろいろなことを教えてくれました。住吉大嶋神社のこと、神社なのに鐘楼がある理由(昔、神社の境内にあったお寺の鐘楼とのこと)、津波の時には鐘楼の屋根まで水が達したこと、神社の裏に小高い岩山があって、この地域の人たち30人くらいが避難したことなどなど。

20分ほど立ち話をして、おじさんとは自己紹介をすることもなく別れましたが、この日の朝の散歩では、充実した旅行ガイドを読ませてもらったような、とてもお得な充実感をおぼえたのでした。

せっかくいろいろ教えてもらったので、住吉神社(正式には大嶋神社といいますが、住吉町の住吉公園にあるので、地元の人からは住吉神社と呼ばれているようです)にお参りして、本殿の右わきから裏の山に登りました。

頂上には愛宕神社が祀られています。

地元の町内の人を中心に30人ほどが避難していたという話でしたが、いったいどこに?と不思議に思うほど狭い頂上でした。

山からは旧北上川の流れが眼下に望めます。

遠方より、日和大橋、中瀬と内海橋、巻石のある雄島、その手前に津波で屋根下まで浸水した鐘楼が見える
遠方より、日和大橋、中瀬と内海橋、巻石のある雄島、その手前に津波で屋根下まで浸水した鐘楼が見える

愛宕神社の祠には、見慣れない風貌の狛犬。

なんだか、凛々しいんです。

火伏せの神様として知られる愛宕神社ですが、津波の時には避難してきた町の人たちを見守る、心強い存在だったことでしょう。

住吉神社の反対側、住宅地へ続く階段です。

けっこう高度感があります。

この山は、住吉神社の裏山だから住吉山と呼ばれたり、愛宕神社があるので愛宕山と呼ばれたり、どうも名前がはっきりしましせん。「住吉神社のそばの岩山」と呼んでいる人もいました。

もうひとつ謎なのが、この山の標高です。

電柱と比べると10メートルくらいありそうに見えますが、2万5000分の1地形図には等高線表示なし。
国土地理院が津波避難に役立つようにと試験公開している「標高がわかるWeb地図」では、びっくりしたことに「1メートル」と表示されます。山の存在そのものが無視されているのです。
町の中に埋もれるような小山なので、地図を作る人たちの目に留まることがなかったのかもしれません。

しかし、山の名前が判然としなくても、また標高がはっきり分からなくても、2年前の津波の時、ここに小さな岩山があったおかげで、30人の人たちが助かったことは事実なのです。

江戸時代、住吉大嶋神社の境内にあったという寿福寺の鐘楼
江戸時代、住吉大嶋神社の境内にあったという寿福寺の鐘楼

もう一度、巻石の前の住吉神社に戻って鐘楼をパチリ。鐘には「海難水難慰霊」と刻まれています。

そしてこの鐘楼の由来書も掲げられていました。その内容がぐっとくるものだったのでご紹介します。

此鐘楼ハ信仰心極メテ強キ個人ノ力ニ依テ建立セシ者ナリ。今ヲ去ル五十余年前当住吉町ニ大林幸蔵氏ナル人アリ。当時鐘楼ノ風雨ニ曝サレ敢テ顧ルモノナキヲ嘆キ且ツ信仰心ノ薄ラキ行ク世態ヲ憤慨シ茲ニ一大決心ヲ思立チ…

大嶋神社(住吉公園)の「鐘楼由来記」

鐘楼は個人が作ったものだというのです。

引用に続く部分とまとめてあらすじを紹介します。

幕末の元治元年(1864年)、住吉町に住む大林幸蔵という人が決心をした。
雨ざらしだった鐘を納める鐘楼を独力でつくろうという一大決心だ。
大林さんは家業をなげうって建設資金にあて、
さらに自ら行者となって市中を回り、わずかな金額の募金を集め続けた。
三年間、一日も欠かすことなく勤行を続けた結果、
明治元年にようやく鐘楼は落成に至った。
(その後、大林さんは明治5年、50歳で亡くなった)

それから50年余り。
年を追うごとに神仏を敬う気持ちが薄らいでいく中、
この事績を埋没させてはならないと考え、
ひとつには大林さんの功績を顕彰するため、
またひとつには、人々の規範としてほしいとの願いから、
大正8年5月吉日、有志により由来記が記された。

大正8年は西暦でいうと1919年。いまから90年以上も昔になりますから、由来記に関わった人たちは、もはやこの世の人ではないかもしれません。

しかし、この由来記を読むことで、幕末の大林さんの志と、それをさらに後世に伝えたいと欲した大正の人々の思いが、読む人の心の中によみがえるのです。

巻石、住吉山(愛宕山)、鐘楼由来記。それぞれ趣は違いますが、共通しているのは、そこに人々の歴史が積み重ねられているということです。

江戸時代から観光名所だった巻石・袖の渡には、義経の伝説や芭蕉の足跡とともに、津波へのおそれや、かつて北上川水運の起点だった記憶が重層的に積み重なっています。

海難・水難慰霊の鐘と火伏せの愛宕神社がひとところに会する住吉公園は、さまざまな災害から命を守る心を伝える防災思想のデパートのような場所であり、さらにその鐘楼には、無名の偉人の事績を語り継ごうとした大正時代の人々の言葉が刻まれています。

生きて、そして死んでいった人たちの記憶を集めたものが歴史だとするならば、
被災した町が大きく変化しようとしているいま、
もう一度、町の歴史に浸ることは意味あることだと思います。
その町の住人はもちろん、外から旅する人にとっても。

いま、行きましょう石巻。
変化しつつある被災地には、いましか見られない姿があります。

宮城県石巻市住吉町

巻石がある雄島の向かいの住吉神社

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●TEXT+PHOTO:井上良太(株式会社ジェーピーツーワン)

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