海辺の地をゆく「石巻市・雄勝」2013年1月30日

iRyota25

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2013年1月30日(692日目)の石巻市雄勝町呉壺地区~雄勝地区

東日本大震災の巨大津波からもうすぐ2年。震災後しばらくの間は、陸地に乗り上げた漁船をたくさん目にしました。それは津波被害の大きさを物語る光景でした。1年目を過ぎた頃から、陸に上がった船の多くが片付けられてきた中、ここにはまだ残されていす。それも、少し意外な場所に。

ここは雄勝(おがつ)町の雄勝漁港。平成の大合併で石巻市の一部になりましたが、室町時代からの伝統を誇る名産品の雄勝硯(おがつすずり)とうま味が凝縮されたホタテや牡蠣、ホヤなどの養殖漁業を産業の中心に、独自の文化をはぐくんできた地域です。 出羽三山・羽黒山の修験者から伝えられたとされる雄勝法印神楽(重要無形民俗文化財)でも有名ですね。リアス式海岸をぬって走る国道398(ブルーライン)をとおって、女川町から雄勝町の中心部に向かいました。

女川町と石巻市の市町境を越えたあたりからの雄勝湾です。真冬なのにこの青さ。雄勝を語るとき、深い山と、山の恵みに育まれた美しくて豊かな海は欠かせません。養殖漁業が盛んなのも、山が迫った深い海という好条件によるものといわれます。とくにホタテはその甘さとうま味で、その道のプロでなくても雄勝産と他地域産のものが簡単に見分けられるほど。遠くの海に点々と見えるのは養殖いかだを浮かべるフロートです。

ちなみに広域石巻エリアの合併から女川町は外れたため(原発による独自財源が大きな理由と言われています)、石巻から海沿いに雄勝に向かうと、石巻市→女川町→石巻市と走っていくことになります。

雄勝湾の奥に向かって走っていくうち、湾の対岸がどんどん近づいてきます。青い海の向こうに見える白い建物は雄勝病院。かつては周辺に民家がありましたが、いまは病院跡だけがぽつりと残されています。

湾がほぼ直角に折れ曲がっている呉壺あたり。海の色だけ見るとまるで南の島のようです。トロピカルな雰囲気の明るい海と路肩の雪のとり合わせ。なんだか不思議と魅力的。町の再生に観光を取り入れようという意見が聞かれるのもうなずけます。

呉壺あたりのカーブを曲がると風景が一変します。壊れたままの防波堤。湾の最奥部にあたる町の中心部に高く積み上げられたがれきとかさ上げ用の土。民家が消え去った後に点々と残された鉄筋コンクリート造の建物。残った建物のまわりで動き回る重機。ここまで走ってきた美しい海と山の風景とのギャップに衝撃を受けるポイントです。

湾の一番奥までやって来ました。左手には雄勝公民館。震災直後、観光バスが屋上に上がっていた建物です。現在は周辺のがれきの撤去が進み、建物の解体を待っています。

公民館の向かいには雄勝硯伝統産業会館があります。伝統工芸品である雄勝硯の歴史の展示や、硯製作の実演、硯づくりの体験などのイベントが行われる観光集客施設でした。こちらの建物でも解体に向けての作業が進められています。玄関ポーチの上に乗ったままの保冷車の荷台も、解体時に撤去されるのでしょうか。

硯の材料となる雄勝石は、スレート材としても評価が高い石材です。昨年グランドオープンした東京駅の赤レンガ駅舎や北海道庁旧本庁舎「道庁赤レンガ」など、歴史的な建物の屋根材として数多く使われています。雄勝硯伝統産業会館が解体されるのを前に、三角屋根の雄勝石スレートを回収する作業が行われていました。改修された雄勝石のスレートは、いずれ、どこかで文化財級の建物の修復などに活用されることでしょう。

公民館や雄勝硯伝統産業会館の横を流れる川は鮭が遡上する場所として知られています。昨年11月18日に来た時には、けっこうな数の鮭が産卵していました。遡上といっても湾奥の河口から100メートルほどの浅瀬のあちこちでバシャバシャ水しぶきが上がります。雄勝の浜の人たちは、川に上る前の鮭を獲って自分たちで塩鮭&いくらをつくるのが例年の楽しみだったのだとか。仮設商店街「おがつ店こ屋街」の光洋さんでいただいた海鮮丼にも、お手製のいくらが乗ってました。おいしかったな~

鮭が上がってくる川は、歴史のロマンを感じさせる言い伝えが残される場所でもあります。江戸時代初期、仙台藩主・伊達政宗が徳川家康の一応の許可の元、スペインとの交易を目的に派遣した慶長遣欧使節。仙台藩士・支倉常長たち使節一行が乗船し、太平洋を渡ったサン・ファン・バウティスタ号が建造された場所とも言われているのです。

正確には、その候補地のひとつと言った方がいいかな。支倉常長たち一行が帰国した時には、すでに鎖国体制が固まっていて、スペインとの貿易なんてありえない話。だもんで、サン・ファン号についての資料はほとんど残されていないのです。300トンとも500トンともいわれる巨船だったサン・ファン号を建造しうる場所はどこだろうと地元の人や歴史家たちが想定したうちのひとつが、この川というわけです。(車で通過した呉壺あたりにも有力候補地があります)

がれき処理場となった中学校や、内部が全壊した小学校に挟まれた小さな川で、いまからちょうど400年前、スペイン風のガレオン船が作られていたのを想像すると、なんだか不思議な気持ちになります。(こちらも2012年11月18日の写真です。産卵する鮭のあげる水しぶきが見えるでしょう)

雄勝湾の一番奥、川の河口にあたる場所です。岸壁を構成していたコンクリート材が踊るような姿で散乱しています。町のがれきの撤去は進んでいますが、海辺のがれき撤去はこれからが本番です。

岸壁よりも海側の、本来なら海であるべき場所なのですが、大量の土砂が堆積したままです。草まで生えています。

最終更新:

コメント(4

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  • A

    akaheru

    本当にきれいな海ですね。この素晴らしい自然とともに雄勝の伝統がいつまでも受け継がれていくよう、一日も早い町の復興を願います。

    • I

      iRyota25

      「雄勝は海しかない」という声を聞くことがよくあります。きっと海に対する誇りの裏返しの言葉だと思う。それくらい、雄勝の海は美しいのです。

    • P

      pamapama

      20年近く前、仕事の関係で毎年女川のサンマをいただいていたことがあります。おいしかった!大小問わず漁師のみなさん全員の船が元気に出港できる日が1日も早く訪れるといいですね。

      • I

        iRyota25

        女川のサンマはほんとうに美味しいですよね。塩焼きもいいけど、すり身をつくねのように使ったお味噌汁も絶品です。人気の料理なのか、女川ではサンマのすり身も売ってますよ。