海辺の地をゆく「警戒区域北部」2012年1月21日

iRyota25

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請戸川近くの光景だそうです。

車のボディが、いったいどんな力を受けるとこんな姿になってしまうのでしょうか。

国道に戻り、さらに南下します。双葉町には原発で働く人たちが数多く住んでいたそうです。双葉町の市街地は津波による大きな被害をまぬがれましたが、高い放射線量のため防護服を着てバスに乗った関係者以外の人を見かけることはほとんどないそうです。

すれ違う車もない国道を通って、大熊町へ。

震災直後、この坂道は地震によって破壊されていたそうです。路面が大きく波打っています。

東京電力福島第一原子力発電所へ向かう重要道路なので、急ごしらえのスロープで自動車の通行はできるようになっています。事故の収束のために働く人たちは、毎日この道を通っているわけです。

鉄塔の向こうに見える煙突が福島第一原子力発電所だそうです。

双葉町、浪江町、南相馬市小高区の沿岸部は、地震と津波で大きな被害を受けた後、十分な捜索活動が行われないまま避難指示が出された場所が少なくありませんでした。地元の消防団に所属していた人たちには、「捜索さえできれば救えた命がたくさんあった」と、いまも自分を苦しめている方がたくさんいるそうです。

原発事故さえなければ——。インタビューでもしばしば呑み込まれてしまう「——。」に込められた声が聞こえますか。

原発よりも南のいわき市に避難された浪江町の方から、「浪江の沿岸部には驚くほど線量が低い場所がある。せめて空間線量が低い地域だけでもいいから、現地に入って復旧のための作業をしたい」という話を聞いたことがあります。子どもの頃に遊んだ場所。学校へ通っていた道。道草して叱られたこと。いろんな、いろんな思い出が刻まれてきた土地。

地震と津波で被害を受けたままの状態で『ふる里』が放置されていることは、その場所で生まれ育った人々にとって辛く苦しいことなのです。

震災後、南相馬市小高区の沿岸部に大きな湖ができたそうです。もとは浦尻や井田川という集落があった田園地帯です。海への排水ポンプ場が津波で破壊されたため、水が溜まり水没してしまったのだそうです。立入が制限されているため排水作業がうまく進まず、国道からも見えるほど大きな湖になっていたそうです。

震災後にできた湖には、海にあるはずの消波ブロックが押し流されています。海との間にあった堤防を乗り越えたものだという話でした。写真手前側をご覧いただけばお分かりのとおり、このあたりには民家がありました。

ブロックの数の多さに圧倒されます。

田んぼも、道も、家も。

川からの水を排水するほどの巨大ポンプの建屋が完全に破壊されています。右側の壊れたコンクリート壁に注目してください。これだけたくさんの鉄筋が入れられたコンクリートが破壊されているのです。

排水作業が進んでも、地盤低下で海水が浸入しやすい地形に変化しています。土壌の上の白い物が塩なのか雪なのか、写真からは判断できませんが、長期間海水に浸かった農地の再生は容易ではないでしょう。いえ、でも、しかし、それ以前の問題があるのです。

この土地に住んでいた人たちの思いは、いかばかりのものでしょうか。

いまから1年前まで、立入禁止区域の映像として頻繁にメディアに登場していた南相馬市原町区大甕(おおみか)の検問ゲートは、警戒区域が縮小された2012年4月16日には撤去されました。

 警戒区域が解除されて3日、4月19日のほぼ同じ場所 (その他の写真提供とは別の友人、CNさん撮影)

しかし、それまで原発から20kmをコンパスで描いた円周上に設置されていた立入禁止エリアのバリケードが、少し原子力発電所に近い町の境界線上に移動されただけのこと。

「立ち入りが厳しく制約されている場所が残されている」「見ず知らずの人から許可を得ない限り、住民が自分の意志で自分たちが暮らしてきた土地に行くことすらできないエリアが、ゲートで囲われている」

「いつになったら、という問いに明確に答えることができる人はどこにも存在しない」という現状は、なにも変わっていないのです。

提供して頂いた写真の撮影以降、警戒区域が解除されたのは南相馬市だけです。そのほかの地域では、いまも当時と大きく変わらない状況が続いていると考えられます。

立ち入りが制限されている地域の被害には、もちろん『想定外の』大地震や巨大津波によるものも少なくありません。しかし、天災だけでは片づけることのできない深刻な被害があります。人が入ることができなくなった土地は、急激に変化していくのです。

たとえば、これは、まったく取るに足らないほどの小さな変化と思われるかもしれませんが、一時帰宅で自宅の片付けに入ったところ、「人を恐れないネズミの巣になっていた」という話を、写真を提供して頂いた方以外でも複数の方から聞きました。

人がいないことで、その土地が人間のものではなくなるのだとしたら。

ようやく帰還ができた時、そこがかつての姿の土地ではなくなっていたとしたら。もちろん、動物とか自然とかだけの問題ではありません。

「放置されたままのふる里を何とかしたい」という人々の声は痛切です。そんな状況をもたらした原発が、

いかに罪つくりなものだったか。繰り返し考え、何度でも思い起こし、決して忘れないことが、21世紀に生きる私たちには必要だと思います。

そしてもちろん、このことを、私たちの子どもたちに、ずっと伝えていくことが。

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●TEXT:井上良太(株式会社ジェーピーツーワン)

最終更新:

コメント(3

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  • I

    iRyota25

    私の取材はたくさんの人たちに支えられています。
    被災地と呼ばれる地域の外側(実は自分は内外を区分することには賛成ではないのですが)からやってきた私の取材を、内側の人たちが支えてくれる。このことをどう考えたらいいのでしょう?
    私たちの「つながり」(絆と言ってもいいでしょう)は、外の人たちの想像以上に「強く、深く、濃い」のです。

  • I

    iRyota25

    3月11日から、もうすぐ2年になります。
    警戒区域に指定されていた土地は、ほぼ1年立ち入りが制限され、その後もさまざまな規制があって「地域の復活」はおろか「復旧」すらトラック1周、いや10周、数10周遅れの状況です。
    提供していただいた写真に写されていた場所は、すべて「誰が住んでいた場所」だということを思っていただければ幸いです。

  • H

    habihabi64

    わたしも、子供たちに、そしてその子供たちにも、この津波の被害や原発のこと。。伝えていける力を自分自身しっかり身につけて、後世に伝えていきます。