「ここに故郷あり」。高木優美さんの300日(2012年1月20日)

iRyota25

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[3月15日・18日] 夜の町は生活の音が一切しません。歩く自分の足音だけが久之浜に響いていました。

   その間も15日、18日には久之浜に戻っています。とくに夜の町は音がしません。生活の音が一切ないのです。歩く自分の足音だけが響くのは不思議な感覚でした。そのころの久之浜には油の臭いと異臭が充満していました。

そんな状況では、まだ「復興」なんてことは意識に上ることすらありませんでした。

震災前に偶然チェルノブイリのことが気になって、ネットでいろいろ調べたことがありました。その時読んだことが頭をよぎって、漠然と「だめかもしれないな」と思ったのが、その当時の本音です。

[3月25日] 心待ちにしていた東北自動車道の再開。青森の婚約者の元へ車を走らせました。

   3月25日、東北道が開通しました。実はこの日をずっと待っていたんです。青森にいる婚約者にずいぶん心配を掛けているから、なんとしてでも会いに行きたいと思っていたのです。

青森までは540キロありますが、車がプリウスだったので2軒のスタンドで給油して高速に乗りました。後で気付いたのですが、高速SAのスタンドは何事もなかったかのように通常営業していたんですね。

青森で「何が食べたい?」と尋ねられて、ココイチに連れて行ってもらいました。揚げ物を4種類くらい追加した大盛りのカレー。澄ましたような食べ物じゃなくて、ガッツリ食べたかったんです。避難中はご飯とフリーズドライのみそ汁とおかずはあってもちょっとだけという食生活だったので。でも、急にしっかりした食べ物をとったせいでびっくりしたのか、数日間はお腹の調子が悪くなってしまいました。

[4月1日] 一日も早く神社を復旧したい。毎日、朝9時から久之浜に通い、神社再開への準備を進めました。

   4月1日に久之浜に戻り、神社関係の方のお世話でいわき市内に家を借りることができました。そこから自宅に通って神社と家の片づけをするという毎日が始まりました。

原発事故の影響で久之浜の復旧は手つかずの状態でした。行政の支援も手薄で、ボランティアもほとんど来てくれません。それでも父は早く神社を復旧したいと願っていました。自分も思いは同じですから、朝の9時から夕方暗くなるまで、毎日作業しました。

[4月下旬] 津波被害を受けた家屋の復旧は、想像を絶するほど過酷な作業です。

   津波で押し寄せて来るのは海水だけではありません。砂、泥、下水の汚水、大小様々なガレキ。ひどい臭いを発するヘドロほかさまざまのものを撤去するのです。想像を絶する撤去作業が終わったら、次は清掃です。しかし水がなければ汚れを洗い流せません。たまたま水が出る家があったのでもらい水して風呂にため、背負い式の散布機を使って室内を洗いました。掃除用の水がどれだけ貴重なものかは、津波後の後片付けを経験しないと理解できないかもしれません。

[4月25日] 神社と自宅の敷地内の撤去や清掃が終わったのは4月25日でした。

   けっきょく家族だけで神社と自宅の片づけを完了。行政などの支援もボランティアもないという状況では、津波被害を受けた住宅の片付けには、それくらいの時間と手数がかかってしまうのです。自宅の片づけをした時の経験がその後の活動につながっていきました。

[5月上旬] いつの間にか諏訪神社が久之浜での支援センター的な場所になっていきました。

   鳥居前で支援物資の提供を行っていることが少しずつ広まって、神社関係者以外の方からも諏訪神社宛てに支援物資が届けられるようになってきました。見ず知らずの人からいろいろなものが送られてくるのです。

鳥居前の長テーブルだけでは足りず、久之浜の町の7カ所くらいに無料配布の場所を設けました。ペットボトル飲料、レトルト食品、マスク、ティッシュ、軍手、ゴム手・・・時には牛乳や野菜など保存できないものを頂くこともあって、そんな時は作業している人たちの所に配布してまわったりもしましたね。諏訪神社が久之浜の復興基地のような位置づけになったのは、自然発生的だったんです。

[5月] 同級生たちとteam結(ゆい)を立ち上げ。土日中心で力仕事系の活動開始。最初は側溝清掃から。

   同級生の皆川祐一さん、金成清次さんと話をする機会がありました。それぞれ自分の地域で復旧に向けての活動をしている人たちです。「一緒にできることがあるのでは」という話になり、team結(ゆい)を立ち上げ、土日中心で力仕事系の活動を始めました。

最初に取り組んだのは道路の側溝の清掃です。津波で泥が入り排水できない状況でした。これを梅雨の前には何とかしなければならなかったのです。

どぶ掃除と言ってもどんな作業なのか想像しづらいかもしれません。重さが何十キロもある側溝の蓋を外し、溝の中に溜まったヘドロやガレキの破片をスコップでかき出し、一輪車などで運搬。ヘドロを除去したところには石灰を撒いて消毒し、再び蓋をセットする。相当な重労働です。この作業を、蓋外しの2人にかき出し要員が続き、その後ろから石灰を撒く人が1人、さらに蓋を閉める係が2人というチームで行いました。

作業要員は地元の人に加えてボランティアの人たち。Facebookなどで自分と金成さんが呼びかけて、集まってくれた人たちです。たいへんな作業なのに何度も参加してくれる常連メンバーが多かったですね。その上、あっという間に参加してくれる人たちの輪が広がっていったんです。梅雨前のむちゃくちゃ暑い時期、「臭え臭え」と言いながら町のかなりの部分の側溝を清掃する中から、いまにつながる活動の原型ができていきました。

[6月] 解体された家のガレキから思い出の品を探す人。解体前に家財を搬出して分別したい。

   側溝清掃の次に手掛けたのは、解体される前の家屋からの家財の搬出です。当時、すでに被害を受けた住宅の解体作業は進んでいましたが、家を崩した場所で思い出の写真を探したりしている人がけっこういたのです。壊す前に家財を分別することができたら、とストレートに思ったので、幼馴染の家で試験的に家財搬出をやらせてもらったんです。

最初は「津波くらっちゃったから、もういらないよ」と言っていたものの、家具や貴重品を運び出して並べると、「そういえばこういう物もあったな」と懐かしそうな言葉が聞かれました。

家ごと壊してしまえば、なくなってしまうかもしれない。でも、もしかしたらその人がこれから生きていく上でたいせつな思い出になる品が見つけ出せるかもしれない。それだけでも、この活動の意義があると確信して、6月からボランティア参加を呼び掛け、11月頃まで活動を続けました。

[7月] 壊されるのを待つ建物にペイントで花を。「ガレキに花を咲かせましょう」をスタート 

「ガレ花」プロジェクトを始めたきっかけは、「マスコミの関心が低い」ということ。メディアが久之浜に取材に来てもらえるような活動をやりたかったのです。

でも地域の人の気持ちを考えると難しい活動でした。壊される家に絵を描くというのは、後ろ向きの活動です。そもそも家にペイントするということ自体、大それたことじゃないですか。これは被災地だからこそ、地元のみなさんの理解があったからこそできたことなんです。

ガレ花で伝えようとしたメッセージは、「たいへんだけど頑張ってる。前向きにやっている人がいる久之浜にもっと人が来てほしい」というもの。

メディアの取材を受ける時には、ガレ花だけではなく必ずまわりの風景も入れてもらうようにお願いしました。

ガレ花の活動は2011年の12月で終了しました。

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[8月27日] 北いわき再生発展イベント「奉奠祭(ほうてんさい)花火大会」を開催しました。

久之浜に残っている人たち、久之浜を離れて避難している人たち、そして外部からの人たちが集まって、久之浜の未来に向けての思いを共有したい。久之浜で活動しながらずっと考えてきたことを形にしたのが、町で51年ぶりとなる花火大会。

久之浜の人たちや、石川町や飯舘村の子供たちが、ステージで自分の思いを発表した後、ドーンと花火を打ち上げます。打ち上げた花火は2,000発。参加者数は8,000人にのぼりました。

奉奠とは「玉ぐし奉てん」の奉奠です。神社の言葉で「目に見えないものに対して自分の思いや決意を表明する」という意味を持っています。久之浜の人々が思いを述べて花火を打ち上げる、という趣旨には合致していますが、神社としての祭りではなく、町全体のイベントだったので、このネーミングには最後まで引っ掛かりがありました。ずっと反対し続けたのですが、周囲の人たちの強い要望もあり、この名称での開催になりました。

最大の目的は、地震と原発事故でばらばらになった久之浜の人たちに、花火を機会に集まってもらうことです。そのためいわき市全体を対象としたチラシの他に、久之浜の住民用に詳細なスケジュールも記載したパンフレットを作成し、避難先の仮設住宅もまわって全戸にポスティングしました。

花火の打ち上げにも、パンフレットなどの作成にも大きなお金が必要です。イベントを開催するための資金はどうしたと思いますか。奉奠祭の運営は基本的に外部からの寄付で賄ったのです。これまでボランティアに来てくれた人たちの人脈から、協賛してくれる企業がどんどん集まりました。セブン&アイホールディングス、クリナップ、セブン銀行、鹿島建設といった大企業が久之浜でのイベントを支援してくれました。支援をお願いするため大企業のトップの方とお会いするなど、自分自身にとっても貴重な体験がありました。

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