「ここに故郷あり」。高木優美さんの300日(2012年1月20日)

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高木優美(まさはる)さん(北いわき再生発展プロジェクトチーム代表)

高木優美(まさはる)さん(北いわき再生発展プロジェクトチーム代表)

   20代の青年である。神職である。福島県いわき市久ノ浜町諏訪神社の禰宜である。北いわき再生発展プロジェクトチームの会長である。地元ボランティアのまとめ役である。復興を目指すイベントの仕掛け役でもある。そのくせ、昔は田舎は面倒な場所だと思っていたとさらりと言ってのける。震災を経験してはじめて郷土愛に目覚めたとも。
ボランティアなどほとんど経験したことのなかった青年が、どのようにして今日の高木優美(まさはる)さんになっていったのか。そのヒントを、2011年3月11日からの彼の活動に探る。

[2011年3月11日午後2時46分~] 地震が発生した時には、勤務先だったいわき市の神社の付属幼稚園で、ベンチの色塗り作業をしていました。

   どれくらいの時間揺れたのか分かりません。ただ地震がおさまった後、シーンと一切の音がなくなったのを覚えています。この地震は尋常じゃない。津波が来るかもしれないと思って、散乱した職場の中からテレビを引っ張り出してつけました。

地震直後、いわき市ではまだ電気が通っていたんです。テレビではやはり津波警報が出ていました。最初に目にした警報は「3メートル」。その数字にほっとしました。でもすぐに警報が10メートルに変更になったんです。自宅の神社社務所の棟の高さは、高さ制限ぎりぎりの9メートル70センチ。10メートルの津波が来たらひとたまりもありません。今すぐ自宅に帰らなければ、と久之浜に向かって、国道6号線・浜街道を北に向かいました。

[3月11日午後4時過ぎ~] 車を乗り捨てたホームセンターの駐車場で、ふわっと雪が降ったのを覚えています。

   ふだんから通勤に使っている道を走りながら、考えられないことが起きているのを感じていました。いわき市の町中でも、歩道橋が30センチくらいずれています。久之浜のひとつ手前の町、四倉まで行ったところで渋滞。車が進まなくなりました。見ると道が水で濡れています。道路脇には流木が引っ掛かり、道端で泣いている女性の姿もありました。津波が国道を越えたのだと知りました。早く家に帰りたい。しかし、久之浜まで6キロほどの波立海岸のトンネル前で道路は封鎖されてしまいます。理由はわかりません。トンネルが崩壊したのか、まだ津波の恐れがあるからなのか。

とにかく車を乗り捨ててでも久之浜に帰らなければ。車をUターンして四倉のホームセンターの駐車場に入れて、そこから走って家へ向かおうと車を降りた瞬間、ふわっと雪が降ったんです。ほんの数分のことだったと思いますが、まるで花吹雪のように雪が舞ったのが印象的でした。

[3月11日午後5時過ぎ~]  山沿いの道を越えてようやく目にした久之浜は火の中に浮かび上がっていました。

   海沿いの国道が封鎖されていたので、山沿いの抜け道を通って久之浜に向かいました。山道を越えた田之網という集落の辺りから、遠くに久之浜の町並みが見えました。日没後の暗くなった景色の中で、久之浜の町は火の手の中に浮かび上がっていました。

旧道は坂を下った後、国道と交差して、さらに海側に抜けていくのですが、そこから先は道がなくなりました。道だった場所には津波で流された家が押し寄せて、すき間なく道をふさいでいたのです。早く自宅に戻りたいと気が急きます。道をふさぐ家の屋根によじ登り、屋根を駆け下り、また次の家の屋根を上り、を繰り返しました。そしてようやく、自宅と諏訪神社が見えるところまでたどり着くことができました。

[3月11日午後6時過ぎ~]  「あ、大丈夫だ。家もあるワ」と声が出ました。しかし津波は実家1階に押し寄せていました。

   神社へ走ると、参道に父の車が横倒しになっていました。車の中を見てみると、父が乗っていた形跡はありません。ほっとしました。父は家族とともにどこかに避難しているはずだと思いました。
建物は無事でしたが、津波は神社の敷地内に押し寄せていました。車が石碑に乗り上げて石碑ごと松の幹に引っかかり、自宅のドアは曲がり、中は津波が運んできた泥やガレキでぐちゃぐちゃでした。

[3月11日午後6時過ぎ~] 町の火の手は神社に迫り、時折ガスボンベが空中に跳び上がって爆発し、空を赤く照らしました。

   家のまわり一面にガスのにおいがしていました。火の手はすぐ近くまで迫っています。火の粉が横殴りに舞っていました。そんな中、時折プロパンガスのガスボンベが空中に跳び上がって爆発し、空を赤く照らしました。考えられない光景でした。それなのに、不思議と、恐くも何ともないのです。車を置いてから6キロの距離をずっと走ってきたから、きっとアドレナリンがいっぱい出ていたんでしょうね。タバコを一服しながら、家族を探すことを考えました。可能性があるのは母の実家か龍光寺か中学校だろう。意外なほど冷静でいられました。

[3月11日午後7時20分] 家族の情報が確認できた後、何度か行き違いになり再会できたのは午後7時20分でした。

   避難しているだろうと目星を付けたお寺で、家族が中学校にいることが分かりました。無事でよかったと安堵すると同時に、移動の手段である車を何とかしたいと思い、居合わせた親戚にお願いしてホームセンターまで車を回収しに行きました。山の中の裏道を走って行きましたが、道がかなり傷んでいたのを覚えています。

車を回収して中学に到着すると、家族はちょうど母の実家に向かったところ。その後ようやく午後7時20分になって、家族と再会することができました。

[3月11日午後7時30分] 服を着替えようとズボンを脱ぐと、脛(すね)の毛が剃ったようにツルッとなくなっていました。

   津波被害を受けた町を走り抜けてきたせいで、着ていた作業着はヘドロ臭くなっていました。母の実家で着替えをさせてもらおうとして初めて気付いたのですが、ズボンはズタズタに切り裂かれていて、ところどころ血もにじんでいました。

不思議だったのは、脛(すね)の毛が剃ったようにツルッとなくなっていたこと。これにはびっくりしました。

[3月11日午後8時00分過ぎ] 津波警報は出ていましたが神社が気がかりで、父と2人で諏訪神社に戻りました。

ご神体に相当するご霊璽(ごれいじ)を神社に残してきたことが気がかりでならず、20時過ぎには父と2人で諏訪神社へ戻りました。火災はかなり近づいてきていて、7軒くらい先のプロパンも爆発しました。大きな津波の恐れはなさそうでしたので、ご霊璽のほか神事に使う衣装や道具類の搬出を続けました。

[3月12日未明] 3月11日の夜から12日の朝にかけて感じていたことは、うまく言葉で表現することができません。

   搬出作業は一晩中続きました。12日の朝が近づくにつれて、町の惨状が目の前に姿を現しました。3月11日の夜から12日の朝にかけて自分が感じていたことは、今でもうまく言葉で表現することができません。

火の粉を巻き上げて燃える町。ガスボンベが爆発するたびに赤く照らされる空。津波に洗われた町のヘドロのような臭いと、町に充満するガスの臭い。そんな状況の中で、人間の生き死にについて考えていました。

   やがて、海から真っ赤な朝日が昇りました。私は太陽に向かってカメラのシャッターを何度も切っていました。この時はまだ原発のことはまったく頭にありませんでした。

[3月12日] <震災翌日、高木さんが見た久之浜の姿>

[3月13日] 全身ブルーの防護服に、防護マスクという物々しい人物が現れて、バスの時刻表を残して行きました。

   引き続き父と神社と自宅の整理を続けていると、全身ブルーの防護服を着て、顔には防護マスクという物々しい姿の人物が現れ、どこから来たのかも告げず、避難場所へのバスの時刻表を置いて行きました。

[3月13日] 人っ子ひとりいない久之浜から、いわき市湯本の避難所への移動を決意しました。

   その頃はもうケータイも繋がらないし、町には人っ子ひとりいない状況でした。町の人々あってこその神社です。そこで、久之浜の人が一番多く避難しているいわき市南部にある湯本の避難所に行くことにしました。しかし、私の家には犬と猫がいるのです。さすがに動物を連れて避難所に入ることはできないので、親せき筋の方の家に2週間ほど身を寄せてもらうことにしました。

[3月15日・18日] 夜の町は生活の音が一切しません。歩く自分の足音だけが久之浜に響いていました。

   その間も15日、18日には久之浜に戻っています。とくに夜の町は音がしません。生活の音が一切ないのです。歩く自分の足音だけが響くのは不思議な感覚でした。そのころの久之浜には油の臭いと異臭が充満していました。

そんな状況では、まだ「復興」なんてことは意識に上ることすらありませんでした。

震災前に偶然チェルノブイリのことが気になって、ネットでいろいろ調べたことがありました。その時読んだことが頭をよぎって、漠然と「だめかもしれないな」と思ったのが、その当時の本音です。

[3月25日] 心待ちにしていた東北自動車道の再開。青森の婚約者の元へ車を走らせました。

   3月25日、東北道が開通しました。実はこの日をずっと待っていたんです。青森にいる婚約者にずいぶん心配を掛けているから、なんとしてでも会いに行きたいと思っていたのです。

青森までは540キロありますが、車がプリウスだったので2軒のスタンドで給油して高速に乗りました。後で気付いたのですが、高速SAのスタンドは何事もなかったかのように通常営業していたんですね。

青森で「何が食べたい?」と尋ねられて、ココイチに連れて行ってもらいました。揚げ物を4種類くらい追加した大盛りのカレー。澄ましたような食べ物じゃなくて、ガッツリ食べたかったんです。避難中はご飯とフリーズドライのみそ汁とおかずはあってもちょっとだけという食生活だったので。でも、急にしっかりした食べ物をとったせいでびっくりしたのか、数日間はお腹の調子が悪くなってしまいました。

[4月1日] 一日も早く神社を復旧したい。毎日、朝9時から久之浜に通い、神社再開への準備を進めました。

   4月1日に久之浜に戻り、神社関係の方のお世話でいわき市内に家を借りることができました。そこから自宅に通って神社と家の片づけをするという毎日が始まりました。

原発事故の影響で久之浜の復旧は手つかずの状態でした。行政の支援も手薄で、ボランティアもほとんど来てくれません。それでも父は早く神社を復旧したいと願っていました。自分も思いは同じですから、朝の9時から夕方暗くなるまで、毎日作業しました。

[4月下旬] 津波被害を受けた家屋の復旧は、想像を絶するほど過酷な作業です。

   津波で押し寄せて来るのは海水だけではありません。砂、泥、下水の汚水、大小様々なガレキ。ひどい臭いを発するヘドロほかさまざまのものを撤去するのです。想像を絶する撤去作業が終わったら、次は清掃です。しかし水がなければ汚れを洗い流せません。たまたま水が出る家があったのでもらい水して風呂にため、背負い式の散布機を使って室内を洗いました。掃除用の水がどれだけ貴重なものかは、津波後の後片付けを経験しないと理解できないかもしれません。

[4月25日] 神社と自宅の敷地内の撤去や清掃が終わったのは4月25日でした。

   けっきょく家族だけで神社と自宅の片づけを完了。行政などの支援もボランティアもないという状況では、津波被害を受けた住宅の片付けには、それくらいの時間と手数がかかってしまうのです。自宅の片づけをした時の経験がその後の活動につながっていきました。

[5月上旬] いつの間にか諏訪神社が久之浜での支援センター的な場所になっていきました。

   鳥居前で支援物資の提供を行っていることが少しずつ広まって、神社関係者以外の方からも諏訪神社宛てに支援物資が届けられるようになってきました。見ず知らずの人からいろいろなものが送られてくるのです。

鳥居前の長テーブルだけでは足りず、久之浜の町の7カ所くらいに無料配布の場所を設けました。ペットボトル飲料、レトルト食品、マスク、ティッシュ、軍手、ゴム手・・・時には牛乳や野菜など保存できないものを頂くこともあって、そんな時は作業している人たちの所に配布してまわったりもしましたね。諏訪神社が久之浜の復興基地のような位置づけになったのは、自然発生的だったんです。

[5月] 同級生たちとteam結(ゆい)を立ち上げ。土日中心で力仕事系の活動開始。最初は側溝清掃から。

   同級生の皆川祐一さん、金成清次さんと話をする機会がありました。それぞれ自分の地域で復旧に向けての活動をしている人たちです。「一緒にできることがあるのでは」という話になり、team結(ゆい)を立ち上げ、土日中心で力仕事系の活動を始めました。

最初に取り組んだのは道路の側溝の清掃です。津波で泥が入り排水できない状況でした。これを梅雨の前には何とかしなければならなかったのです。

どぶ掃除と言ってもどんな作業なのか想像しづらいかもしれません。重さが何十キロもある側溝の蓋を外し、溝の中に溜まったヘドロやガレキの破片をスコップでかき出し、一輪車などで運搬。ヘドロを除去したところには石灰を撒いて消毒し、再び蓋をセットする。相当な重労働です。この作業を、蓋外しの2人にかき出し要員が続き、その後ろから石灰を撒く人が1人、さらに蓋を閉める係が2人というチームで行いました。

作業要員は地元の人に加えてボランティアの人たち。Facebookなどで自分と金成さんが呼びかけて、集まってくれた人たちです。たいへんな作業なのに何度も参加してくれる常連メンバーが多かったですね。その上、あっという間に参加してくれる人たちの輪が広がっていったんです。梅雨前のむちゃくちゃ暑い時期、「臭え臭え」と言いながら町のかなりの部分の側溝を清掃する中から、いまにつながる活動の原型ができていきました。

[6月] 解体された家のガレキから思い出の品を探す人。解体前に家財を搬出して分別したい。

   側溝清掃の次に手掛けたのは、解体される前の家屋からの家財の搬出です。当時、すでに被害を受けた住宅の解体作業は進んでいましたが、家を崩した場所で思い出の写真を探したりしている人がけっこういたのです。壊す前に家財を分別することができたら、とストレートに思ったので、幼馴染の家で試験的に家財搬出をやらせてもらったんです。

最初は「津波くらっちゃったから、もういらないよ」と言っていたものの、家具や貴重品を運び出して並べると、「そういえばこういう物もあったな」と懐かしそうな言葉が聞かれました。

家ごと壊してしまえば、なくなってしまうかもしれない。でも、もしかしたらその人がこれから生きていく上でたいせつな思い出になる品が見つけ出せるかもしれない。それだけでも、この活動の意義があると確信して、6月からボランティア参加を呼び掛け、11月頃まで活動を続けました。

[7月] 壊されるのを待つ建物にペイントで花を。「ガレキに花を咲かせましょう」をスタート 

「ガレ花」プロジェクトを始めたきっかけは、「マスコミの関心が低い」ということ。メディアが久之浜に取材に来てもらえるような活動をやりたかったのです。

でも地域の人の気持ちを考えると難しい活動でした。壊される家に絵を描くというのは、後ろ向きの活動です。そもそも家にペイントするということ自体、大それたことじゃないですか。これは被災地だからこそ、地元のみなさんの理解があったからこそできたことなんです。

ガレ花で伝えようとしたメッセージは、「たいへんだけど頑張ってる。前向きにやっている人がいる久之浜にもっと人が来てほしい」というもの。

メディアの取材を受ける時には、ガレ花だけではなく必ずまわりの風景も入れてもらうようにお願いしました。

ガレ花の活動は2011年の12月で終了しました。

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[8月27日] 北いわき再生発展イベント「奉奠祭(ほうてんさい)花火大会」を開催しました。

久之浜に残っている人たち、久之浜を離れて避難している人たち、そして外部からの人たちが集まって、久之浜の未来に向けての思いを共有したい。久之浜で活動しながらずっと考えてきたことを形にしたのが、町で51年ぶりとなる花火大会。

久之浜の人たちや、石川町や飯舘村の子供たちが、ステージで自分の思いを発表した後、ドーンと花火を打ち上げます。打ち上げた花火は2,000発。参加者数は8,000人にのぼりました。

奉奠とは「玉ぐし奉てん」の奉奠です。神社の言葉で「目に見えないものに対して自分の思いや決意を表明する」という意味を持っています。久之浜の人々が思いを述べて花火を打ち上げる、という趣旨には合致していますが、神社としての祭りではなく、町全体のイベントだったので、このネーミングには最後まで引っ掛かりがありました。ずっと反対し続けたのですが、周囲の人たちの強い要望もあり、この名称での開催になりました。

最大の目的は、地震と原発事故でばらばらになった久之浜の人たちに、花火を機会に集まってもらうことです。そのためいわき市全体を対象としたチラシの他に、久之浜の住民用に詳細なスケジュールも記載したパンフレットを作成し、避難先の仮設住宅もまわって全戸にポスティングしました。

花火の打ち上げにも、パンフレットなどの作成にも大きなお金が必要です。イベントを開催するための資金はどうしたと思いますか。奉奠祭の運営は基本的に外部からの寄付で賄ったのです。これまでボランティアに来てくれた人たちの人脈から、協賛してくれる企業がどんどん集まりました。セブン&アイホールディングス、クリナップ、セブン銀行、鹿島建設といった大企業が久之浜でのイベントを支援してくれました。支援をお願いするため大企業のトップの方とお会いするなど、自分自身にとっても貴重な体験がありました。

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[9月] 大きなイベントを開催した後、しっかり活動を継続して行くことが大切です。

   奉奠祭には多くの人が集まりました。マスコミにも取り上げてもらえました。しかし本当に大切なのは、イベントが終わった後も、それまで行ってきた活動をしっかり継続して行くことです。

まだ暑い日が続いた9月から10月も、解体家屋からの家財搬出やガレ花活動を続けました。ボランティアで集まってくれる人たちに、久之浜の空間放射線量がどれくらいなのか自分で計測してもらったり、ボランティア活動の後の雑談の中から次のイベントの企画を立ち上げたり。これまでと変わることなく地元・久之浜の復興に向けての活動を続けました。

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[9月27日] 浅草三社祭の神輿を寄贈していただき、神輿渡御を行いました。

   浅草中央町内会から諏訪神社に神輿を寄贈していただきました。この神輿は戦後間もなく、戦災からの復興を願って作られたもの。久しぶりに神主の装束で神輿渡御に参加しましたが、なんかいいんです。自分の仕事ができるってことは言葉にできないくらいの喜びなんです。復興という思いの込められた神輿を寄贈していただいたことと合わせて、身が引き締まる思いでした。

[10月] 上野の下谷神社からは四尺の大きな神輿を寄贈していただきました。

   下谷神社から寄贈していただいた神輿は四尺もの。800キロもあって100人くらいでないと担げないくらい大きなものです。家一軒と同じくらいの値段と聞いて驚きました。

[12月18日] 久之浜クリスマスイベント~みんなの力でキラキラプロジェクト~を開催しました。

久之浜の小学校は10月に再開されたばかりでした。いわき市南部の仮設や借上げ住宅から、バスで久之浜に通っている子供たちもいます。原発事故でたいへんな思いをしている子供たちに、元気になってもらえるようなクリスマスイベントをやろう、と考えて最初に発案したのが「1万球のツリーのイルミネーション」。

それもただ点灯するだけではなく、自転車発電でみんなで点灯しようというイベントでした。「みんなの力でキラキラ」には、原発の電気ではなく、自分たちがつくった電気でイルミネーションを灯そうという意味を込めているのです。

子供たちがケーキやクッキーを手作りするコーナーや、びっくりするような豪華ゲストなど、子供たちもボランティアとして参加した人たちも、みんなが盛り上がれるイベントでした。

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(2012年1月20日取材)

高木優美(まさはる)さん(北いわき再生発展プロジェクトチーム代表)

高木優美(まさはる)さん(北いわき再生発展プロジェクトチーム代表)

福島県いわき市久之浜町の諏訪神社の禰宜であり、いわき市の神社の付属幼稚園に勤務していた高木優美さんの人生は、2011年3月11日を境に一変してしまいます。
神職とは言えごく普通の青年だった彼が、原発被害の最前線の町の復旧の旗をふる人物になったのはなぜか。インタビューで追いかけます。

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