自分は広島県の出身なので、「地震が起きたら津波を警戒」という考えがまったくありませんでした。あの大きな揺れの後でも、海のすぐ近くにあるチームの事務所の外でご近所の人と立ち話をしていたくらいです。
「何やってんだ。津波が来るから早く逃げろ!」
知り合いのタクシー運転手の方に強い口調で言われてはじめて行動したんです。あの一言がなかったら、逃げることなく津波にやられていたかもしれません。
女川町の中心部で津波から避難しようと思ったら、多くの人が避難場所に考えるのは町立病院(現・女川町立医療センター)でしょう。港や町の中心部のすぐ近くにある海抜18メートルほどの高台で、そこを越えるような津波がくるなんて、ちょっと想像できない場所です。自分も最初はそこへ向かいました。
でも、何と言うんですか、イヤな予感みたいなのがあったんです。きっとたくさんの人が詰めかけるんだろうなという漠然とした不安のような感覚です。だから自分は、町立病院より遠くにある町立グラウンドの高台に向かって車のハンドルを切りました。多くの人が逃げ込んでいた町立病院には、裏手から津波が回り込んで来て、1階部分が水没。駐車場から津波の様子を見ていた人たちが被害に遭われました。
自分が町立グラウンドに駆け上がってしばらくして、もの凄い音、ドーンとかバキバキとか言葉では表現できない音とともに、津波が町に押し寄せてきました。
水が引いた後の町の様子を見た時、まず思ったのは「原爆と同じだ」といういこと。子供の頃に広島で平和教育を受けてきた自分には、原爆で破壊され尽くした町の姿と同じに見えたのです。
その夜は、逃げてきた車の中で一夜を過ごしましたが、車のラジオから流れて来るのは、仙台や気仙沼などの上空をヘリで飛びながら津波や火災の実況をする声。そんな中に「仙台空港近くの荒浜で200人から300人の遺体が打ち寄せられている」という情報がありました。
ピンとこないんですよ。200人から300人って、その差の100人は何なのだろうと思いました。人間の命がそんな大雑把に数えられていいのだろう か。でも、現にそんな状況があるのかもしれない。町の光景も、ラジオからの放送も、信じられないことばかり。どう理解したらいいのか、どうしても現実を受け入れることができませんでした。
自分でも不思議なのですが、その夜はこんなことを考えました。
「とにかく寝よう。明日の朝、目覚めたら、全部元通りになっているかもしれないから」
翌朝、もちろん現実は何も変わっていませんでした。前日の14時46分までとはまったく別の時間が、その朝から自分の中で流れ始めたのです。
編 集 後 記
前日に開催された石巻日日新聞社社長の近江弘一さんの講演に続き、シンポジウムの2日目は、宮城県石巻市と女川町で大震災を経験され、再起に向けて現地で活動されている皆さんによるパネルディスカッションでした。被災地の方々の中にある「自分の経験を伝えなければ」という思いが、ひしひしと感じられた2日間でした。シンポジウムに参加された方々には継続して取材を行いたいと考えています。(2012年2月17日取材)
取材・構成:井上良太(株式会社ジェーピーツーワン)
取材協力・写真協力:NPO法人伊豆どろんこの会
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