春のセンバツに21世紀枠として出場した石巻工業高校野球部の松本嘉次監督、女川町で廻船業を営む青木久幸さん、多賀城市総務部地域コミュニティ課の吉田学さん、そしてコバルトーレ女川の選手兼ユース監督で地域担当も務める檜垣篤典さん。それぞれの立場で震災をくぐり抜けてきた人々が、静岡県のNPO法人伊豆どろんこの会主催のシンポジウムで発言された内容をダイジェストでお届けします。
本当に野球がやりたければ、自分たちでグラウンドを整備しよう。石巻工業高校野球部監督・松本嘉次さん
石巻工業高校は海岸線から遠く、JRの駅よりも北にあります。それでも津波は運河を遡上してグラウンド側から押し寄せ、学校全体が1メートル30セ ンチの高さまで水没しました。石巻の中心部は約6割が水没したと言われますが、私たちの学校では3日目でも水深が90センチありました。ようやく水が引いた後も、校舎や体育館、そしてグラウンドには、厚く溜まったヘドロが残されていました。
授業はもちろん、野球の練習などできるような状態ではありません。それでも、子供たちは「野球がやりたい」と申し出てきました。
でも、誰かが助けてくれるのを待っていても何も変わりません。「本当に野球がやりたいか?」と私は尋ねました。子供たちは「ハイ」と返事をしました。
「それなら、自分たちが活動する場所は自分たちで整備しなさい」
石巻工業高校野球部の子供たちは、3月20日から毎日登校して学校施設の復旧に当たりました。アメリカ軍や自衛隊の方々と協力して教室や体育館、グ ラウンドなどの片づけを行ったのです。作業はほとんど人力です。スコップや箒やブラシといった道具を手に、臭くて重たいヘドロの除去に当たりました。掃除に使う水も給水車の水は飲み水ですから、その辺に溜まっている水を使うしかありませんでした。
それでもやはり、動けば変わって行くのです。
人間には限界があります。しかし、自分で動いてみなければどこが限界なのかわかりません。限界にぶつかって、自分の壁を超えようとすることで、状況が変わっていくのだと思います。5月9日には授業が再開できました。グラウンドも片付いていきました。
ヘドロが溜まった学校を復旧し、授業や野球の練習ができるところまで持っていく中で、私たちは「あきらめない」ことを学びました。辛いことや苦しいことはたくさんあったと思いますが、子供たちは成長してくれたと感じています。
実は、ようやく野球がやれるまでにしたグラウンドは、夏の台風の水害で再び水没してしまうのです。それでも子供たちの気持ちは変わりませんでした。震災で経験したことが、良い結果に結びついているように思っています。
「霜に打たれた柿の味、辛苦に耐えた人の味」
これは藤尾秀昭さんの言葉です。苦しみを乗り越えることで、人間的にも深い味わいが生まれるという意味です。これからさらに一皮むけて、子供たちがどう成長していくか。見守っていきたいと思います。
ここで死ぬわけにはいかない。家族の顔が浮かんだ時、逃げる一歩が出ていた。廻船問屋青木屋代表・青木久幸さん
地震が起きた瞬間、私は女川漁港の埠頭の先端で漁船からの荷卸しをちょうど終えたところでした。船のロープを解こうとした時に大きな揺れが来て、言葉も出ないし、頭が真っ白な状態になりました。避難しようかどうしようかと考えているのですが、答が出てこないんです。
自分がいた場所では、大きな揺れが一旦収まったんです。「ああ、この程度でよかった」と思った瞬間、さらに大きな揺れが来て、今度は埠頭のコンク リート製の屋根が激しく揺れて、ところどころ落下してきました。埠頭の側溝の蓋は、1人では持てないくらい大きくて重たいものなのですが、どんな力が掛 かったのか、信じられないことにポンポン跳ね上がりました。
死ぬかもしれない、と思いました。
家族の顔が一瞬フラッシュバックしました。
次の瞬間、「ここで死ぬわけにはいかない」。そう思ったんです。思ったとたん、大きく傾いたり、すき間がずれたり、屋根が落ちてきたりしていた埠頭を走り抜けていました。トラックに飛び乗り、家族がいる店舗兼住居へ急ぎました。
家は市場のすぐ近くで、海岸からは100メートルほどしか離れていません。その後の津波で家は失われてしまいましたが、いま自分が生きていて、こう して皆さんの前に立っていられるのは、家が海のすぐ近くだったからだと思うのです。大きな地震が来たらすぐに逃げる、ということをいつも家族と話していた からです。
私の長女は町の高台にある小学校に通っています。とにかくそこまで行こうと、全員で小学校に向かいました。地震の発生から10分も経たないうちに、家族が避難行動をとれたので、津波に追われることもなく、比較的安全に逃げることができました。
車は最初、山の上の小学校の駐車場に置いていたのですが、3時10分か15分頃にはすぐ下まで水が上がってきたので、さらに山の上の方にある総合体育館まで移動させました。その途中で、山の中を漁船が流れていく光景を見てしまったんです。海からは何キロも離れた山合いの集落のあたりでした。谷を溢れ させるように押し寄せてきた津波が、市場に係留していた30トンくらいの漁船を流していったんです。その様子を見てパニックに陥った人もいました。
何百人もの人が避難していた体育館には何の備蓄もありませんでした。備蓄品は津波で壊滅した町役場にあったのです。もしかしたら食べられるものがあ るかもしれないと、勇気のある人が山を下り、水産加工場の廃墟から冷凍の魚を集めてきてくれました。冷凍のままではどうにもならないので、壊れたロッカー や道路の側溝のグレーチング(鋼材を格子状に組んだ溝蓋)でグリルを作って魚を焼いて、みんなで1匹ずつ食べました。
地震当日の夜は、とても寝られるような状況ではありませんでした。何分かおきに余震が起きますし、山鳴りも聞こえてきます。小さな子供たちも余震のたびに跳び起きていました。男性は体育館の外で火を焚いて夜を過ごした人が多かったですね。
その夜は車のラジオで情報を集めようとしたのですが、女川の情報はありませんでした。NHKのラジオでは1時間に1度くらい「女川町」という言葉は出てくるのですが、「女川町役場とは連絡が取れない状態です」と短く報じられるだけでした。
災害に遭った時、情報はとても大切です。避難している人の情報を外に伝えるための方法を平時から考えておくことが必要です。また、津波被害が想定さ れる地域では、人々が避難することになる高台に備蓄品や食料を移しておくべきです。
この震災を経験した私たちはそれを伝えていかなければなりません。私が生かされているひとつの理由なのだと思っています。
行政にできることは限られている。地域とともに知恵を出し合う文化を。多賀城市総務部地域コミュニティ課・吉田学さん
多賀城市は仙台市に隣接する小さな自治体です。今回の震災では地震そのものの被害より、津波による被害が圧倒的でした。驚くべきことに多賀城市は海に面していません。仙台港から溢れた津波が市域を越えて押し寄せて来て、多賀城市に甚大な被害をもたらしたのです。
仙台港の津波の高さは最大7メートルほどでした。多賀城市では最大で約4メートルです。その津波によって、市の面積の約3分の1が水に浸かりました。全世帯数2万3000世帯のうち、45%~50%が被害を受けました。亡くなられた方は189名に上ります。
現在では、外から見ただけでは被災した爪痕も見えないくらいまで復旧は進んでいますが、問題となっているのはガレキ処理です。人口6万3000人の多賀城市のガレキの量は、44万立法メートル。
どれくらいの量だか想像できますか?
東京ドーム何杯分と言われてもきっとイメージできないと思うので、もっ と身近なもので計ってみました。
皆さんがご飯を食べるお茶碗で計算すると、44万立米は10億杯です。この量のご飯を1人で三食たべ続けたとして、全部たいらげるまでには91万 3000年かかることになります。小さな多賀城市でもそれくらいガレキの量があるのです。これが石巻や気仙沼のように大きな町だったらどうか。ガレキ処理 の問題については、ぜひ皆さんにもご理解いただきたいと思います。
次にライフラインの復旧についてですが、水道が復旧したのは6月2日。震災からおおむね3カ月もかかったことになります。震災では下水道の方もすべ ての機能を失ってしまいました。下水道が使えなくなって何が困るかというとトイレですね。多賀城市では町のいたるところに仮設トイレが設置されました。衛生上、これはたいへん大きな問題でした。
電気が復旧したのは、水に浸からなかったところで10日から2週間後。ガスも4月の半ばには復旧しました。しかし、電気は来たが水はないとか、水は出たけど下水がダメといったことでは、生活を立て直すことはできません。徐々に復旧していく段階では、市民の皆さんの生活に、状況によってさまざまな問題が発生したのです。
震災の後、住民の皆さんの中にはさまざまな問題やニーズがありました。それらの課題に行政はしっかり応えることができたかどうか。私は行政の人間ですが、反省を込めて、そのことをお話しなければなりません。
行政はマニュアルや指針を示したりします。しかし、生活の問題に直面している住民の皆さんにとって、それだけでは決して十分ではありません。 今回の震災で、行政にできることに限界があることがはっきりしたと思います。
それでは、行政サービスの射程距離の外側にある社会のニーズや住民の皆さんの悩み、関心は放っておいていいのか。いいわけありません。しかし、法律的な問題などの縛りで行政にはできないことがある。だったら地域の人たちや NPOなど民間の方々と手を組んで、積極的に連携してやっていく以外に方法がないのは明白です。
これから復興に向けて重要になってくるのは、地域の人たちが考えを交換したり知恵を出し合ったりして、みんなでいいものを作っていこうとすること。 つまり、話し合いの文化だと思います。地域の方々やNPO、そして行政が円卓テーブルを囲むといったイメージです。そんな文化を地域に根差した形で育んで行くことが大事になるでしょう。
地域の絆やコミュニティ、そして自治といったことを、もう一度見直して、新しい地域の姿を作っていかなければ、復興はできません。壊れたものを元に 戻せばいいという問題ではないのです。同じことは被災地だけでなく、皆さんが生活されている日本中の地域にとっても重要な課題ではないでしょうか。
とにかく寝よう。明日の朝、目覚めたら、全部元通りになっているかもしれないから。コバルトーレ女川ユース監督・檜垣篤典さん
自分は広島県の出身なので、「地震が起きたら津波を警戒」という考えがまったくありませんでした。あの大きな揺れの後でも、海のすぐ近くにあるチームの事務所の外でご近所の人と立ち話をしていたくらいです。
「何やってんだ。津波が来るから早く逃げろ!」
知り合いのタクシー運転手の方に強い口調で言われてはじめて行動したんです。あの一言がなかったら、逃げることなく津波にやられていたかもしれません。
女川町の中心部で津波から避難しようと思ったら、多くの人が避難場所に考えるのは町立病院(現・女川町立医療センター)でしょう。港や町の中心部のすぐ近くにある海抜18メートルほどの高台で、そこを越えるような津波がくるなんて、ちょっと想像できない場所です。自分も最初はそこへ向かいました。
でも、何と言うんですか、イヤな予感みたいなのがあったんです。きっとたくさんの人が詰めかけるんだろうなという漠然とした不安のような感覚です。だから自分は、町立病院より遠くにある町立グラウンドの高台に向かって車のハンドルを切りました。多くの人が逃げ込んでいた町立病院には、裏手から津波が回り込んで来て、1階部分が水没。駐車場から津波の様子を見ていた人たちが被害に遭われました。
自分が町立グラウンドに駆け上がってしばらくして、もの凄い音、ドーンとかバキバキとか言葉では表現できない音とともに、津波が町に押し寄せてきました。
水が引いた後の町の様子を見た時、まず思ったのは「原爆と同じだ」といういこと。子供の頃に広島で平和教育を受けてきた自分には、原爆で破壊され尽くした町の姿と同じに見えたのです。
その夜は、逃げてきた車の中で一夜を過ごしましたが、車のラジオから流れて来るのは、仙台や気仙沼などの上空をヘリで飛びながら津波や火災の実況をする声。そんな中に「仙台空港近くの荒浜で200人から300人の遺体が打ち寄せられている」という情報がありました。
ピンとこないんですよ。200人から300人って、その差の100人は何なのだろうと思いました。人間の命がそんな大雑把に数えられていいのだろう か。でも、現にそんな状況があるのかもしれない。町の光景も、ラジオからの放送も、信じられないことばかり。どう理解したらいいのか、どうしても現実を受け入れることができませんでした。
自分でも不思議なのですが、その夜はこんなことを考えました。
「とにかく寝よう。明日の朝、目覚めたら、全部元通りになっているかもしれないから」
翌朝、もちろん現実は何も変わっていませんでした。前日の14時46分までとはまったく別の時間が、その朝から自分の中で流れ始めたのです。
編 集 後 記
前日に開催された石巻日日新聞社社長の近江弘一さんの講演に続き、シンポジウムの2日目は、宮城県石巻市と女川町で大震災を経験され、再起に向けて現地で活動されている皆さんによるパネルディスカッションでした。被災地の方々の中にある「自分の経験を伝えなければ」という思いが、ひしひしと感じられた2日間でした。シンポジウムに参加された方々には継続して取材を行いたいと考えています。(2012年2月17日取材)
取材・構成:井上良太(株式会社ジェーピーツーワン)
取材協力・写真協力:NPO法人伊豆どろんこの会
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