息子へ。被災地からのメール(2012年11月28日)

iRyota25

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2012年11月28日

石ノ森萬画館のリ・オープンからほぼ1週間。再開に向けて奔走したスタッフの方に会ってきたよ。

石巻の津波の写真を見ていると、町に流れ込んだ津波の中に、宇宙船のような形の萬画館がまるで浮かんでいるように見えるものがある。萬画館は川を逆流してきた大津波に呑み込まれたが、建物は無事だった。萬画館の陰になって流されずに助かった人たちの避難場所にもなった。

見た目は宇宙船みたいだけれど、津波は建物の1階部分の窓ガラスを破り、建物内にも泥流が流れ込んでいた。スタッフと逃げ込んだ人たちは最上階の図書室などのスペースで、自衛隊に救助されるまでの5日間過ごした。

萬画館に身を寄せた人たちが、それぞれの避難場所に去って行ったあと、萬画館のスタッフは管理のために必要な2人以外、みんな一時解雇されることになった。震災で町も家もめちゃくちゃになった中、仕事もなくしてしまったんだ。その時の気持ち、想像することができる?

でもそれは被災地では当たり前のことだった。これまで回っていた社会の流れが断ち切られてしまったんだから。会社を事業を行っている側にしてみれば、仕事がないのに人を雇うことはできないだろう。働いてもらってもお金を払うことができない状況なんだから。被災した人たちにとっても、仕事どころではないという状況の人がたくさんいた。家族や友人を捜索したり、津波でめちゃくちゃになった家や町を片づけたり。

まるで変ってしまった町の中で、みんな呆然としてしまっていたという。「先のこと」を考える余裕などなかった。ただ「目の前にあるやるべきこと」をすることしかできなかったという。

それでも、萬画館のスタッフは、自分の家の片づけをしながらも、瓦礫が堆積した萬画館にやってきては、館内の整理とか、たいせつな原画の搬出(収蔵庫の空調が止まっていたから、作品をカビや劣化から守るためには、作品の移動が急務だった)などの作業を行ったんだって。働いてもお金ももらえないんだよ。

4月には萬画館の上に鯉のぼりを掲げた。崩壊しかけた建物から萬画館の屋上までロープを渡して、鯉のぼりを泳がせる。口で言うほどたやすい作業ではなかった。とっても危険だった。でも、瓦礫だらけの町の空にひるがえった鯉のぼりを見て、手を合わせる町の人の姿もあったんだ。父さんが話を聞いたスタッフの方は、その時、心のけじめがついたんだと話してくれた。 自分たちがやるべきことが何なのか、「先」を見ることがもう一度できるようになったんだって。

4月後半には、萬画館でイベントも開催した。支援してもらった玩具の無料配布やサッカー教室などを行ったら、2000人もの人たちが集まった。瓦礫が山のように積みあがった町にだよ。その時、スタッフたちは、できるだけ早く萬画館を再開することを誓い合ったんだって。

そんな物語の末にようやくリ・オープンした萬画館。テープカットして、お客さんが入館する時には「きっと涙が止まらなくなって、仕事どころではなくなるんじゃないか」と心配していたという。

でもね、再開した萬画館にやってきた大勢の人たちへの対応が忙しくて、感涙する暇なんてなかったんだって。

再開から1週間以上たっても、施設のチェックとか不具合の調整とかに忙しくて、みんなで再オープンを喜び合う時間すらないんだって。

大変だった。萬画館のリ・オープンは大変な仕事だった。そして町の復活とか活性化といった役割を担っている萬画館は、さらに「先」に向けてやらなきゃないことがたくさんある。でも、その大変さには“幸せな部分”がたくさんあるように父さんは感じたんだ。

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