あたらしい石巻・復興支援リポート「石ノ森萬画館、再開への時間」

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東日本大震災で甚大な被害を受けてから1年8カ月。被災地の大型文化施設としては初めて、石巻市の石ノ森萬画館が再開しました。がれきとヘドロに埋め尽くされた状況から、萬画館が再開へ向けて前進を始めるきっかけとなった出来事を紹介します。想像を絶するような現実の中では、人々は元気を出すためにも“ きっかけ ”が必要なのかもしれません。

震災から2か月の2011年5月、被災した石ノ森萬画館で開催した「春のマンガッタン祭り」の写真展示を指さす大森盛太郎さん
震災から2か月の2011年5月、被災した石ノ森萬画館で開催した「春のマンガッタン祭り」の写真展示を指さす大森盛太郎さん

震災から1カ月ほどしかたっていない2011年4月。がれきとヘドロに埋め尽くされた石巻の街なか、石ノ森萬画館の上空に鯉のぼりが泳ぎました。

鯉のぼりを掲げたのは萬画館スタッフの大森盛太郎さん。

「倒壊してもおかしくないような建物から萬画館の屋上部分にかけて、長いロープを渡したんですが、かなり危ない作業でした。鯉のぼりをいくつも吊るしたロープはちょっとした風にもあおられて、かなり重たくなって…」

旧北上川の中州、中瀬にある萬画館は大津波で浸水し1階部分は大きな被害を受けたものの、建物自体は無事でした。地震直後、来場者やスタッフたちを避難させたあと、館内にひとり残った大森さんは、震災直後の数日間を必死で生き延びます。津波来襲、近くの橋のたもとで奇跡的に助かった人たちの受け入れ、臨時の避難場所となった萬画館の運営、外界との連絡…。震災から5日目、避難していた人たちが自衛隊によって救出された後、大森さんの目の前にはがれきとヘドロにまみれた中瀬の光景が広がっていました。

「不思議なんですが、がれきと泥に覆われた風景には色彩がないんです。一面モノトーンの世界が広がっていました」

直後には何も考えることができなかったと大森さんは言います。ただ、すぐにでも手を付けなければならない仕事として、被害に遭わなかった石ノ森章太郎の原画などを安全な場所へ搬出しなければなりませんでした。これは美術館の運営スタッフとして使命ともいえる仕事です。震災から20日後、この任務を全うした大森さんの前に、ふたたびモノトーンの世界が広がります。やることといえば、ただ目の前にあるがれきや泥を少しずつ片付けること。そんな時間が流れて行った中、ふと思いついたのが、がれきと泥に覆われた町に鯉のぼりを掲げるということだったのです。

上部がつるっとしている萬画館と、周囲の壊れた建物との間にロープを渡す。作業の危険さは想像するにあまりあるものです。それでも大森さんは鯉のぼりを掲げました。もしかしたら、何かにとりつかれたような状態だったのかもしれません。

「鯉のぼりを設置した後、ふと見ると、おばあさんがひとり手を合わせていたんです」

どうしたんだろうと思って声をかけると、おばあさんはこう話してくれたそうです。

「今は気持ちも真っ黒だけど、空に明るい色のものが、こうやって泳いでいると、なんかいいよね」

モノトーンの街に色彩を取り戻していく!

「萬画館には萬画館としての役割がある」

おばあさんの一言で大森さんは確信したそうです。被災した街のあまりにも悲惨な状況の中で、“ 前に向かおう ”と気持ちを切り替えることができた瞬間だったかもしれません。

「多くの人命が失われ、たくさんの人々が被災されて苦しんでいるときに不謹慎じゃないか、という声もありました」

それでも大森さんは、5月のこどもの日に合わせて「春のマンガッタン祭り」を開催しようと決意します。マンガッタン祭りは毎年恒例のイベントです。被災した今だからこそ、萬画館としてできることの第一弾として取り組むことにしたのです。

しかし、萬画館の運営スタッフのほとんどが震災によって一時解雇されていました。イベント開催の準備をどうするか。会場となる場所のがれき撤去だけでも大仕事です。とても大森さんひとりの手におえる作業ではありません。すると解雇されているスタッフたちがひとり、またひとりと集まってきたのです。震災直後のこの時期は、誰もが「まず自分の生活を立て直すこと」で手一杯の状況だったといいます。親族を亡くした人もいました。家を流された人、水に浸かって使えなくなってしまった人もいました。それでもスタッフたちは、萬画館に集まってくれたのです。

そんないきさつあって開催にこぎつけた春のマンガッタン祭りは大盛況でした。山形県から支援物資として送られてきたおもちゃを無料で配ったり、ベガルタ仙台の選手によるサッカー教室を開催したり、ダーツなどのゲームコーナーをつくったり、石巻のローカルヒーロー・シージェッター海斗のショーをやったり。会場となった萬画館前の広場には、たくさんの色が戻ってきました。子どもたちの笑顔も帰ってきました。「よくぞやってくれた」という声も街の多くの人たちから寄せられたそうです。

「マンガッタン祭りには2,000人くらいの人が集まってくれました。街の中心部につながる内海橋まで行列ができたくらいです。街なかはまだがれきだらけ。インフラも整備されていない状況でこれだけ多くの人が来てくれたのは感激でした。その時、スタッフたちと誓ったんです。萬画館の早期再開を自分たちの目標にしようと」

全国からの応援の手紙やメール、さらにはオープンしていないにも関わらず萬画館までやってきて、壊れたガラス部分をふさいでいたベニヤ板に書き記されていった全国のファンからのメッセージ。たくさんの応援が後押しになったそうです。

「震災から1年8カ月かかりましたが、なんとか“ Re OPEN ”にこぎつけて、実は心配していたことがあったんです。テープカットをして、開場した瞬間に、スタッフがみんなジーンときてしまって、お客様の案内ができなくなるんじゃないかと。でも、みんなキュッと気持ちを切り替えて、安全な誘導を行っていました」

館内展示をリニューアルしての本格的な再開は2013年3月23日の予定。それでも少しでも早く萬画館を復活したいというスタッフたちの“ 心意気 ”が実現した2012年11月17日の再開だったのです。

被害の悲惨さを経験した自分たちだからこそ

「人々が集まれる場所をつくりたい」

萬画館の再開に向けて大森さんが思い続けてきたのは、そんな願いでした。

萬画館のテラスから当日の様子を説明する大森さん

萬画館のテラスから当日の様子を説明する大森さん

津波に襲われとっさに萬画館の3階に逃げた大森さんは、窓の外に信じられないような光景を目にしました。押し寄せる津波の中を流れていく家。濁流の渦に巻き込まれてその場で崩れ落ちた岡田劇場(萬画館の向かい側にあり、かつて中高生の頃の石ノ森章太郎が自転車で2~3時間かけて自転車で通った映画館です)、そして津波に呑み込まれる人々、押し寄せてくるがれきにつぶされ濁流に沈んでいく人々。

「これだけの津波にやられ、これだけ悲惨な状況におかれ、でもその中から元気な動きを示すことができたらと思うんです。萬画館の再開がほかの被災地の人たちにとっても励みになってほしい。津波にも負けない強い街なんだということを、日本中に見せていきたいんです」

再開された萬画館には、震災の被害と、復興への動きを紹介するコーナーも設けられました。津波でガラスが破られ、がれきが流れ込んだ被災直後の萬画館内部の状況です。
再開された萬画館には、震災の被害と、復興への動きを紹介するコーナーも設けられました。津波でガラスが破られ、がれきが流れ込んだ被災直後の萬画館内部の状況です。

ここまで来れる。ここまでやれる。

そのことを示すために、大森さんは、そして石ノ森萬画館は“ 次 ”を目指して走っているのです。

復興をテーマとした展示ブースには石ノ森章太郎のこんな言葉が記されています。

石ノ森章太郎は1998年に亡くなっていますが、「まるで現在の日本の状況を見通した言葉のように思えます」と大森さんは語ります。震災からの町おこしもまた、人おこしからしか第一歩は踏み出せないのです。

石巻の街なかには個人商店主が掲げたこんな看板が掲げられていました。ギルモア博士のせりふは「萬画館は石巻の宝一日も早く復興してくれ わしは待ってるぞ」

萬画館のREオープンは未来へ向けて街を動かす原動力のひとつになりそうです。

街なかには、こんなバナーも掲げられています。

あれから45年。人類は 戦争をやめたか。
武器を 捨てたか。差別や貧困を 根絶したか。
物質文明は 人を幸福にしたか。美しい地球を 取り戻したか。
科学は すべてを解決したか。神は いたか。
世界はもう、サイボーグ009
を必要としなくなったか。

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●TEXT+PHOTO:井上良太(株式会社ジェーピーツーワン)

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