以前このページで、陸前高田市立高田東中学校の新校舎のことをお伝えした。震災後に合併して誕生した東中が、今年の3学期から新校舎での授業を始めたこと、その竣工式で校長先生が、「この春入学する新中学1年生たちはこれまで校庭というものを知らない子どもたちなのです」と語ったことを紹介した。
新中学1年生たちが校庭を知らないというのはどういうことか。現在中学1年に在籍している子どもたちは、6年前には小学1年生だった。2010年の4月に入学して、その年度の終わり、春休み直前の3月11日に東日本大震災に見舞われた。だが、入学して3学期のほぼ終わりまでは震災前の学校で過ごしていた。
震災後、学校などの公共施設の多くは避難所になった。そしてグラウンドには仮設住宅が建設された。体育の授業を行うために、もともとの校舎からは離れた場所に仮設のグラウンドは造られたが、その多くは津波で被災した場所だった。子どもたちは校舎から離れたグラウンドまで移動して、体育の授業やクラブ活動などを行ってきた。だから、2011年に小学1年生として入学した子どもたちは、学校の教室からつながった校庭というものを知らない——。
新校舎での授業が始まった東中では、そんな不便な状況が解消されて、校舎から続いた校庭を再び得ることになった。それはとても素晴らしいこと。震災から6年近くを経てよやく手にすることができた「当たり前」だった。
しかし、市内で小中学校が新設されたのは東中が最初の一校だ。
美しい新校舎で学校生活を送ることができるようになった東中生たちの将来に拍手を贈るのと同時に、私たちはその他の学校がどのような状況にあるのか、東中以外の中学校の「いま」を知っておく必要がある。
震災遺構として残されることになった気仙中
震災後に中学校の統合が進められた陸前高田市には現在3つの中学校がある。新しい校舎での生活がスタートした東中、高台にあったので津波の直接の被害は免れたものの、いまも校庭に仮設住宅がある第一中学、そして屋上を越える津波に襲われた気仙中の3校だ(一中と気仙中は統合した上で、来年4月から新設校として再スタートする予定)。
陸前高田市立気仙中学校は、市内を流れる一級河川気仙川の河口近くにあった。震災後の風景として描写することをお許しいただくなら、奇跡の一本松と河口を挟んだ対岸に建っていた。
いま、その学び舎には、子どもたちの言葉が大きなバナーとして掲げられている。「絆 未来へつなごう夢と希望」「ぼくらは生きる ここで このふるさとで」という言葉は、この建物の前を通るたびに子どもたちの肉声として聞こえてくるような気がする。しかし、この場所に子どもたちの声が聞こえることはない。
校舎を襲った津波の高さを示す表示は、3階建ての建物屋上よりも上にある。津波は建物をまるごと呑み込んでしまったのだ。
気仙中学校の校舎は震災遺構として残されることが決まっている。「高田松原津波復興祈念公園」の一部として、これから永く鎮魂の場として、また津波被害と防災・減災の伝承を担う施設となるだろう。
では、気仙中の生徒たちはいまどこにいるのか?
もちろん被災したこの校舎ではない。旧校舎から気仙川、さらにその支流の矢作川を遡ったおよそ14km山あいの旧・陸前高田市立矢作中学校の建物で授業を行っている。
震災後に気仙中が移転した学び舎、旧・矢作中は一中と合併した。矢作地域の子どもたちはスクールバスで一中に通っている。もともと海の近くの中学校だった気仙中が山の中学校となり、旧・矢作中の子どもたちは旧・気仙中ほどではないまでも12kmほど海側の一中に通学する。そんな状況になっている。
現在の気仙中を訪ねると、校門には立派な石造の「矢作中学校」の表示があって、その横に気仙中学校と仮設住宅を示す看板が掲げられている。山あいの旧・矢作中学校の校庭にも仮設住宅が建ち並ぶ。
現在の気仙中の子どもたちは、いまは簡易宿泊施設も備える交流センターとなった旧・矢作小学校の校庭を野球部のグラウンドとして利用しているという。V字谷の急峻な坂の上にはテニスコートも設けられた。しかし、校舎からひと続きの広場という意味での校庭はない。
移転した気仙中で教鞭をとったことのある先生と話をしたことがある。子どもたちの学校生活について彼が語った言葉、その数字はあまりにも印象的だった。
「98%がスクールバス通学ですから」
気仙中は昔からスポーツに力を入れてきた学校で、野球部やバレー部などのクラブ活動も盛んだ。98%がスクールバス通学という状況であっても、土日にクラブ活動のために登校する子どもたちも多いらしい。しかし、ひとりの大人としては「そうは言っても」と思わずにはいられない。
98%という残りの2%は? との疑問もわく。たまたま矢作地域に引っ越した家庭なのか、それとも毎日送迎するだけの余裕のある家庭なのか——。
Google検索で示される「14km・車で約20分」という数字、旧・気仙中と現在の気仙中の距離を示す数字はほとんど意味をなさない。なぜなら、かつて気仙中があった場所は校舎を呑み込む津波に襲われ、地域全体が壊滅といっていい状況だからだ。そして、この地域は陸前高田市の中でも再建が最も遅れている地域でもあるからだ。災害公営住宅はいまだ建設中。高台の移転先は切り土工事の真っ最中。盛り土の造成地でもオフロードタイプの巨大ダンプが走り回っている。
気仙中校区の地元で再建を目指している人たちで、いまも市内各所の仮設住宅で暮らしている人は多い。当然のこととして仮設住宅から気仙中学に通っている子どもたちも多い。学び舎からひと続きの敷地にある校庭という言葉が空虚なものに感じられるほど、「98%」という言葉は重たい。
かさ上げの土地に出現した新しい道と大階段
震災後の陸前高田の町で、全国的に有名でかつほとんど唯一のランドマークともいえる奇跡の一本松。国道45号線から一本松茶屋の交差点を曲がって国道340号線を進むと、かつてJR線の跨線橋だった奈々切の坂を下った少し先、赤土のかさ上げ工事現場に舗装された真新しい道が見えてくる。
かさ上げされた土地の上を走っているのはダンプや重機ばかり。この新しい道は多くの人の目を引くものだった。舗装道路が造られたのは2016年の秋の頃のこと。
付け替えられた道路標識には、矢印こそ示されていたものの、その足下には「右折できません」との立て看板。これはいったいどういうことなのか?
さらに、カーブを描く登り坂の北側には、仮設の大階段まで設置されていた。
地元の人に聞いても、「何だろうね」「新しく造られている中心市街地への道だろう」「市道大町線の埋め立て工事が始まるから、そのために造られている仮設道路なんじゃないか」など、はっきりしたことは分からなかったのだが、11月末、奈々切跨線橋とほぼ同じ高さのかさ上げ地に、緑色のネットが設置されていた。
一中にご子息がいる知人が教えてくれた。「あれは一中の仮設のグラウンドだよ」
高台にあったので津波の直接の被害を免れた一中は、校庭に仮設住宅が建てられた。一中仮設の建設は陸前高田市で最も早いものだった。校庭に仮設住宅が造られた一中は、学校がある高台の一段下、かつて酔仙酒造の敷地だった場所を仮設のグラウンドとして使ってきた。
写真は2016年9月のもの。ネットが張られているのが仮設グラウンド。背後のこんもりした山と同じくらいの高さの右手方向に第一中学の校舎はある。一中生たちは学校から急な坂道(雪が積もると必ずといっていいほど、スタックして立ち往生する車が見られるほどの坂)を下って仮設のグラウンドを使ってきた。
新しいグラウンドの高さ
12月の暮れ、高台にのぼる大きな仮設階段の前に設置されていたバリケードが撤去された。
大階段をのぼって行くと、市役所の仮庁舎がある高台に続く大石の坂道を眼下に見下ろすような感じ。
かさ上げ土地に刻まれた段差(崩壊を防ぐためのもの)や、法面に設置された丁張が生々しい。大階段がオープンになったとはいうものの、この場所が工事現場に他ならないことを物語っている。
階段をのぼり切ったところから一中方面を見る。正面の竹と杉の木立の奥に一中の校舎がある。手前に広がっているのは、つい先日まで一中の仮設のグラウンドだった場所。震災以前には酔仙酒造の酒蔵だった場所。
奈々切の坂の近くに新設された舗装道路は坂道部分だけで、かさ上げ土地の頂上で舗装は終わっていた。
かさ上げ土地の頂上には砕石が敷き詰められた砂利道がまっすぐに伸びている。そしてその南側にグリーンのネットが張られた一中の新しい仮設グラウンド。
工事のバリケードの向こうには「造成計画高さ」の看板。どこかで見たことあると思ったら、かさ上げ地の谷間になっている市道大町線から見上げたことのある看板だった。
高台造成地に造られた仮設のグラウンドは広い。広すぎるのが心配になるくらい広い。
なぜならここは、海からの風をもろに受ける場所だから。このグラウンドから先、南の方角には大きな防潮堤が広がるばかり。震災遺構として残されることになったかつての道の駅タピック45も見える。
こんな吹きっさらしで大丈夫なのだろうか。
しかも、大階段を下ろうとして、あらためてこの場所の高さに驚かされる。
かさ上げ高さ14mは、ビルの4〜5階に相当するらしい。
校舎からグラウンドまでの距離を埋めるもの
新しい仮設グラウンドが造られたかさ上げ造成地を降りて、今度は一中への坂道を登ってみた。竹の梢の向こうに見えるのが新しいグラウンド。かさ上げ地の手前に広がるのがかつての仮設グラウンドだ。
これまで一中の生徒たちは、学校の急坂を下ってグラウンドまで行き来してきた。新しい仮設グラウンドが使われることになったこの冬休みからは、学校の坂を下り、かつてのグラウンドの横を通って、高田の町なかを東西方向に結ぶ道としては国道45号線の他にはこれしかない市道大町線(交通量も多い。当然、ダンプカーなどの大型車両が頻繁に往来する)を渡り、仮設の大階段を登ってグラウンドにたどり着くことになる。帰り道もその逆をたどることになる。
校舎の昇降口で靴を履き替えてそのまま走り出していけるような空間を校庭と呼ぶのであれば、一中生たちのグラウンドは何と呼べばいいのだろうか。
覚えておきたいのは、行き来するための距離や時間が倍ほどになってしまったのは、この町の復興工事を進めるためだということだ。
午後6時くらいにこの近くを通ると、部活を終えてスクールバスが発着する学校の坂の下へ歩いて行くジャージ姿の一中生たちの姿をよく目にする。年が明けて、毎日少しずつ日が延びてきたとは言え、日が落ちると急に寒さが厳しくなる。海風が吹きっさらしのグラウンドにいた生徒たちは、体の芯まで冷えきっているかもしれない。
それでも、風が冷たい埃だらけの道を行く生徒たちには、笑顔で喋っていたり、道に飛び出してきたら危ないと心配になるくらいにふざけ合ったりして歩いている。日本中のどこででも見かけるような中学生の姿そのものといった感じの子どもたちがたくさんいる。
むしろ、寒いなあとか、グラウンドが遠くなっていやだなあなんて顔を見かけることの方が少ないような気すらする。もちろん、内心までは分からないが。
これまでよりもグラウンドが倍も遠くなっても、一中生たちはその環境の中で元気に、あるいはそれなりに生活している。気仙中生たちは、ほぼ全員がスクールバス通学でも部活をがんばっている(らしい)。土日でも、わざわざ遠く離れた校舎近くの仮りのグラウンドに通って練習を行っている。スクールバス通学は気仙中生ばかりではない。矢作中や横田中と合併した一中生にもバスで通学したり、部活に通っている子がたくさんいる。
環境として恵まれているとは言えないかもしれない。そんな状況が改善されるようにするのは大人の責務と言えるだろう。
ただ、大人として考えなければならないことは、もうひとつあると思う。それは、たとえ仮りの環境、仮設のグラウンドや仮設の校舎であったとしても、そこで過ごしている子どもたちにとっては、それが彼ら彼女たちにとっての学び舎であり、母校であるということ。
大人の目から見て仮りのものであったとしても、そこで暮らしている子どもたちの現実とか気持ちとかを引っくるめて理解した上でサポートしなければならないということ。
大人たちが思っているほど、子どもたちは自分たちのことを「かわいそう」だなんて思ってはいない。子どもたちは強いのだ。しかし同時に、大人たちがタカをくくていいほどには子どもたちは強くはない。
校庭とかグラウンドとか子どもたちの環境といった問題は、かんたんに理解できるものではないと思う。震災の後、さまざまな形で現れた「仮り」というものが、本当に「かりそめ」のことなのか、そこに「ほんとう」はないのかというところから考え始めるしか、この難しい問題に向き合うことはできないと思う。
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