商売で一番大切なのは「ひと」がいること

iRyota25

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これは、とある仮設商店街での話。仮設としてオープンした後、町の再建のための工事で道路が通りにくくなるために、もう一度、仮設として移転してこの5月末に再オープンした仮設商店街で聞いた話。

そのお店、トレーラーハウスの商店の窓から外にはラジカセがぶら下げられていて、再オープンした仮設商店街のBGMみたいになっている。再オープンした仮設商店街の料理店やお寿司屋さん、お弁当屋さんは観光のお客さんや、周辺の工事の人で賑わうが、そのお店に入る人は多くない。BGMみたいなラジカセの音が賑やかなだけに、そのお店の存在が際立つ。

お店は八百屋さんだ。とはいえ、被災地で時々見かける地元特産のブランド野菜や果物を扱うというわけではない。キャベツにタマネギ、ナス、ニンジン、初夏の頃ならサクランボやスイカが店内に並ぶ、ごくありふれた普通の八百屋だ。

そのお店の店主の女性が話してくれたこと。それはこんな話だった。

「この町にはたくさんの住宅や、特産の硯工房が軒を並べていたのよね。それがこの通り、津波で町全体がなくなってしまった。市の方では町の復興のために高台への移転計画を進めました。津波でやられてしまった海辺から離れ、海岸沿いに盛り土の造成地をつくって新しい町をつくろうということだったのね。メイン通りである県道もかさ上げした土地の真ん中あたりを通すようにして。私みたいな商店は、地元あってのお店だから、かさ上げされた土地につくられる新しいメイン通り沿いにお店を出させてもらおうと手を挙げたわけです」

津波で信じられないくらい大きな被害を受けた町だから、亡くなった人も、被災後に町を離れていった人も多い。震災後には人口が3分の1になったと言われていた。

「それでもね、震災の後、父ちゃんと話して、この町で暮らしていくことにしたのよ。俺たち商売は八百屋だけれど、生まれた時から海と一緒に生きてきた。今さら海を離れて内陸のどこかに引っ越すなんてあり得ない。細々とでもいいからこの町で商売を続けようって」

彼女が父ちゃんというのは夫のことだ。彼女の夫は釣りの名人で、八百屋の商売の傍ら、釣った魚を漁協に買い取ってもらうのが日常だった。そんな夫と二人三脚で生きてきた。震災も乗り越えた。彼女も海が大好きだった。

「でもね、かさ上げされた土地のメインの通りだけではなくて、元々の海岸沿いの道路も生かすことになったって、後になって知らされたのよね」

まったくの寝耳に水。海岸沿いの道はなくなって、その代わりに高台に新しくつくられる集落にメインの道ができる。だからそのメインの道沿いにお店を再建する。そんな自分たちの考えが裏切られる形になった。

海沿いの道路が生かされるのであれば、わざわざ高台の道路を通る人は新しい集落の人以外にはほとんどいなくなるだろう。そうしたら商売はあがったりだ。高台に移転する30世帯ほどを相手にするだけでは、とても商売は成り立たない。

かさ上げ工事の影響で、以前の仮設商店街から1km近く離れた場所に、もう一度仮設商店が開設された。しかし彼女の八百屋さんは、仮設の恩恵すら十分に受けていない。

仮設商店街なら、設備は自分持ちでも土地や建物は無償だ。しかし、彼女の八百屋さんは仮設商店街の一角にあるもののトレーラーハウス。仮設としての扱いではなく、トレーラーハウスを設置している土地などを個人として借り受けている。しかも、トレーラーハウスならいつでも自由に移動できると思っていたら、まったくそんなことはなかった。

「何年も放置していると足回りに不安があるってことだったのよね。その上、狭い土地に設置するにはカーブが曲がりきれないので、車輪の付いているトレーラーハウスなのに、クレーンで吊り上げて移動することになりました。でもね、仮設商店街の条件では、私たちのような商売ではやっていけない現実もある。お店さえあればいいってものではなく、商品を置いておく倉庫も必要だし、仕分けをする場所もいる。とても仮設店舗の一区画ではやっていけない。だからかえって、今みたいに土地を借りて倉庫を造れたのはよかったと思う。でもね、この場所でずっと商売をしていけるかというと難しいですね。じゃあ新しくかさ上げされた土地に店を開いてやっていけるのかというと、それも難しい」

彼女はひとつの核心を話してくれた。

「昔だったら、この町でも八百屋という商売はやっていけたの。それだけ人がいたから。この集落だけではなくて、半島の方の集落からも買いにきてくれる人たちがたくさんいた。でも今では、町全体の人口が減ってしまった。それに、半島の方の集落でも高齢化が進んでいて、買い物に来ることができない人が増えているんです」

この地域の人口は震災後3分の1に減少したと言われていたが、震災から5年経った今では4分の1以下にまで人口減少が進んでいるとされる。観光客相手の商店ならいざしらず、地元の人を対象に日常的な買い回り品を取り扱う店舗では、人口減少とは即ち、顧客の減少、つまり商売の規模の縮小を意味する。顧客が4分の1にまで急激に減少てもやっていける商売のやり方を知っている人がいるなら教えてほしい。

これが、震災から5年5カ月が経とうとしている今ここにある現実だ。

東日本大震災で大きな被害を受けた地域では、震災で亡くなられた人に加えて、震災後に土地を離れていく人が増加している。1〜2割減というのはざらだ。現在も減り続けている地域が多い。

人口が減っても、特産品やイベントを売りにして、要するに観光として外部からお金を引っ張ってくることができるビジネスはある。しかし、その土地の人たちの生活を実際に支えている日々の買い回り品を扱う商店にお金が回ってくることはないという現実。

「震災から5年以上も経つのだから、そろそろ被災地の人たちも自活するべきだ」という人たちには、一度はこの場所を訪ねてほしい。

この場所とは、宮城県石巻市雄勝町。宮城県で仙台市に次いで2番目に人口がたくさんいる市ではあるものの、中心部からはクルマで1時間ほど離れた、海と山の自然豊かな美しい土地。あの大川小学校と隣り合わせの地域。

話を聞いた仮設商店街の名前は「おがつ店こ屋街」。八百屋さんの名前は「八百清」さん。

八百清さんは、震災から5年5カ月が経とうとしている今ここにあるもうひとつの現実を教えてくれる。八百清さんのある仮設商店街は雄勝町の入り口にあたる集落で、その先には漁業をなりわいとする数多くの浜辺の集落がある。それらの地域で高齢化が進んでいることはお伝えした通りだが、高齢化とは買い物難民というべき人が増加することでもある。

八百清さんは毎週、浜辺の集落をクルマで回って移動販売(彼女は行商という)を行っている。

「買い物に行こうと思っても、ばあちゃんたち大変だからね。移動販売していると、次に来る時にはあれを持ってきて、と言われることも多い。本当にありがたいことです」

八百清さんは「ありがたい」というが、移動販売してもらえる浜辺の集落の人たちにとっても、八百清さんの存在がありがたいのは間違いない。

「震災の後、雄勝でやっていこうと言った父ちゃんは去年亡くなってしまったの。でもね、私は体が動くうちは、このお店も行商も続けていこうと思ってます」

帰ってきてほしい——。八百清さんは口にこそしなかったがそう願っているに違いない。願っても叶わぬことと思うから、そう言わないだけなのかもしれない。

人口が減って商売が成り立つような土地ではなくなっても商売を続ける。この土地で商売を続けていく希望であった「半島につながる唯一の道路沿いの店舗」という条件が覆されてしまっても商売を止めない。遠方の集落まで行商にも行く。移動販売をした日でも、店に戻れば店を開ける。

そんな人がいること。これが震災から5年5カ月の現実。

八百清さんをそんな現実に追い詰める人口減少が進んでしまったのも、震災から5年5カ月の現実。

そして、日本中のほとんどの自治体で、これから20年、25年後に、これまでの町のあり方が成り立たなくなるほどまで深刻な人口減少が進むのも、来るべき現実。

東北の被災した集落の現実は、縁遠い土地での出来事などではない。

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