東京新木場駅から徒歩で約15分。スポーツ施設やマリーナ、植物園などが設置された夢の島公園の一角に第五福竜丸展示館はたっている。ミクロネシアの住居のようにも、あるいは船を逆さまにして伏せたようにも見える存在感のある建物だ。外壁は鋼板張りで、表面の赤錆の微妙な色調が不思議と周辺のユーカリ林の緑と調和して見える。
入口を入るとすぐに第五福竜丸の大漁旗。水爆実験の被害を受けた船というイメージが固定化された第五福竜丸が、被爆事件までは戦後の食料事情が悪い時代に日本の人々の生活を支えていたマグロ漁船だったことを、入館と同時に思い知らされる。
エントランスにはたくさんの千羽鶴。そして案内のメッセージ。このメッセージは深い内容のものなので引用して紹介する。
第五福竜丸展示館へようこそ
1954年3月1日未明、静岡県焼津港所属の遠洋マグロはえ縄漁船、第五福竜丸は、太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁から東160
キロの公海上で操業中に、アメリカの水爆実験によって被災しました。23名の乗組員全員が放射性降下物、いわゆる「死の灰」を浴び、無線長の久保山愛吉さんが半年後の9月23日に亡くなられました。
第五福竜丸のビキニ被災事件をきっかけに、広島・長崎の記憶が改めていっそう身近なものとしてよみがえり、原水爆はごめんだという気持ちが日本国民一人ひとりの心に深く刻まれました。
この展示館は、第五福竜丸の保存を求める多くの国民の平和への願いにこたえて、東京都により建設され、1976年6月に開館しました。
水爆被害の「生き証人」として、遠洋漁業に従事していた木造船である第五福竜丸の実物を、このように丸ごと保存・展示しているところは、世界でも他にはありません。
第五福竜丸事件から半世紀以上が経過しましたが、いまなお核兵器が存続、拡散し、核の使用を是認する考え方が根深く存在するなかで、平和と原水爆禁止の原点としての第五福竜丸展示館の存在意義と役割はきわめて大きいといわなければなりません。
第五福竜丸は、原水爆のない未来へと、航海を続けています。
2012年4月 公益財団法人 第五福竜丸平和教会 代表理事 川崎昭一郎
第五福竜丸展示館の案内
館内には第五福竜丸の船体がまるごとそのまま収められている。正面入口を入るとそこは第五福竜丸の船尾にあたる部分。足下にはエンジンシャフト(軸)が無造作に展示されている。
このエンジンシャフトがつながっていたエンジンは、展示館が完成した20年後に海中から引き揚げられ、現在は展示館の外庭に展示されている。数奇な運命を辿った船体とエンジンとは、今のところ合体することはなく、屋内と屋外に建物の壁を隔てて置かれている。
エンジンシャフトのもう一方につながっていたプロペラは、第五福竜丸の船体と一緒に展示されている。さらにその後ろには、船体と同じく木製の巨大な舵。事故の翌年、東京日比谷の特設会場で開催された「原子力平和利用博覧会」では、被曝船である第五福竜丸のこの舵が会場に展示されたという。
第五福竜丸事件をきっかけに日本中を巻き込んだ原水爆への反対運動の盛り上がりがあり、第五福竜丸の事件のその年には、核戦争の悲惨さとこの国の在り方を強く意識してつくられた映画「ゴジラ」が上映される。ところがそれとほぼ時を同じくして、ゴジラ誕生の大きなファクターとなった被曝船の船体の一部が、核利用推進の展覧会に出品され、展覧会は数十万人もの来場者を数えるほどの盛況になったという。この相反する感情、まったく正反対の世の中の動きはなんなのだろうか。
被曝する前の年、カツオ漁船からマグロ漁船に改造された第五福竜丸。木造ながらなかなかスマートな船体だったことが写真から見て取れる。
船体を取り巻くように展示ケースやパネルが並ぶ。船がまるごと一艘入るほどの大きなスペースの壁面が、数多くの展示物で埋め尽くされている感がある。
これは死の灰。被爆後約2週間かけて焼津港に帰港した第五福竜丸の船体から採取され、各地の大学研究機関で分析に回された実物だ。
こちらは第五福竜丸の被曝事件をはじめて告げた読売新聞のコピー。「原子力平和利用博覧会」を企画・推進した読売新聞社が被曝事件をスクープしたということに何を思えばいいのだろうか。歴史の皮肉か、ジャーナリズムに対する神の配剤か。
上下の写真とも、第五福竜丸の船員たちの持ち物。そろばんは五つ玉だ。
帰航した第五福竜丸の乗組員らの様子を伝える写真。死の灰による火傷の症状など、どれも明らかに放射能による障害を示すものだ。しかし、アメリカは第五福竜丸の船員たちの病状と水爆実験は無関係であると主張した。今日にいたっても、船員は酒飲みだから肝臓障害で病気になったなどと主張する日本人ジャーナリストまでいるというのだから、言葉を失ってしまいそうになる。
見た目は地味だが、この館の展示物の中で極め付きなのが、事件発覚から数日後の日米のやり取りを記した外交文書。電報の欄外には「極秘」の印。そして原稿には「以下暗号」の表記も見える。
展示館の解説パネルから興味深いところを何点か引用しよう。まずはアリソン駐日大使とのやり取りを示す部分。
[以下暗号]
1, 17日アリソン大使は奥村次官に対し、米国は本件に関する安全保障の問題を特に重視している旨を申し出るとととに、事件の調査、被災者に対してはできるだけ治療ヒの援助等をしたい旨及び福竜丸に関する機密を保持し且つ汚染の消除を安全に行なうため同船を横須賀に回航してもらいたい旨等を述べた。
第五福竜丸展示館の展示キャプション
援助の申し出とともに、後半では第五福竜丸を横須賀の米軍に引き渡せと言っている。アメリカは第五福竜丸を破壊、あるいは水没させたがっていたとも言われている。そのことを文書として残すのが次の部分だ。
[以下暗号]
右の際、アリソン大使からは、イ、福竜丸の汚染消除を米海軍に行なわしめるか、同船を海中に沈めるか 又は同船への立ち入りを防止されたい。ロ、米側の技術者にも自由に患者をみせて貰いたい。ハ、放射能を帯びた灰、着衣、木その他のインヴェントリーをとり 政府が責任をもって保管されたい。ニ、本件関係の外部への発表を審査し検閲するようにされたい。旨申出があった。
第五福竜丸展示館の展示キャプション
米軍を中心とする日本占領が解消されて2年半。アメリカが日本に要求したのは占領時代と変わらぬ高圧的なものだった。曰く、除染を米海軍に依頼するか、海に沈めるか、立入り禁止を徹底するか。患者の診察をアメリカにもさせろ。放射能を帯びた物品は日本政府がリスト化した上で厳重に保管しろ。
そして最大級の驚きなのが最後の条。第五福竜丸に関する外部への発表を、「審査し検閲」するようにしなさいと言っているのである。
自らの水爆実験で被曝した人々がいることは棚に上げ、安全保障上の問題ばかりを重視している姿勢が見て取れる。日米関係の原型がすでにここに見出せるというと言葉が過ぎるだろうか。
しかしこの時代の日本外交は、駐アメリカ日本大使館に対して、事件発生前に付近を孝行していた船舶に重ねて何らかの警告をアメリカが発していたかどうか、また現水爆実験の差異に第三国の船舶に対してどのような周知方法をとっているのか照会するようにと指示している。ここに、現在とは異なる対米姿勢の片鱗が見えるような気がする。占領時代が終わって2年半という時点だからこその気骨とでも言うべきか。
展示館にはガイガー計数管(ガイガーカウンター)も展示されている。当時この装置がどんな音を上げていたのか。第五福竜丸が係留されていた焼津港では、船からかなり離れた場所でも放射線が検出され、埠頭周辺に鉄条網が設置されたという話もある。おそらく帰港当時の線量はそうとう高かったに違いない。
第五福竜丸の被曝と核実験は関係ないとアメリカが主張し続ける中、事件から半年後、無線長の久保山愛吉さんが死亡する。
久保山さんの死を悼む涙が日本中を埋め尽くす中、原水爆に対する反発、一般市民レベルからの反対の声が日本全体で盛り上がって行くことになる。
展示された品物やパネルのひとつひとつに「ものがたり」がある。物語はすべてが複雑に絡み合い、つながっている。第五福竜丸はそのつながりの結節点。その実物が都立第五福竜丸展示館にある。
(つづく)
都立第五福竜丸展示館
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