第五福竜丸から採取された「死の灰」

iRyota25

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1954(昭和29)年、現地時間午前6時45分、マーシャル諸島のビキニ環礁で「キャッスル作戦・ブラボー実験」と名付けられた水爆実験が行われた。核爆発で沸き上がったキノコ雲は高さ34.2kmに達し、約160km離れた場所で操業していたマグロ延縄漁船「第五福竜丸」をはじめ多くの漁船が死の灰のフォールアウト(放射性降下物)を浴びた。

第五福竜丸の船上、漁獲したマグロ、そして船員たちに降り注いだ死の灰は、静岡県焼津の母港に帰港後採取され、多くの科学者たちが分析にあたった。採取された死の灰の一部は都立第五福竜丸展示館で目にすることができる。

都立第五福竜丸展示館の展示資料
都立第五福竜丸展示館の展示資料

展示品に付けられた説明ボードには次のように記されている。

死の灰

第五福竜丸に降った灰(死の灰)の分析は東京大学、静岡大学、金沢大学、大阪市立大学などの研究室で科学者が総力をあげてとりくんだ。その結果27種の核分裂生成物(放射性元素)を検出した。

アメリカは第五福竜丸の乗組員の治療についての必要な資料の問い合わせに応じなかった。「死の灰」の分析は治療方針のうえでも重要だった。

このガラス瓶の灰は静岡大学の塩川教授が分析に用いたもの。

都立第五福竜丸展示館の展示キャプション

説明ボードの隣に置かれた検出された放射性物質一覧には、ストロンチウム-90やセシウム-137といった今ではおなじみになってしまった核種が並ぶ。

ブラボー実験ではキノコ雲が成層圏の中ほどまで達したため、放射性物質は地球規模で拡散した。太平洋の広い範囲や日本本土はもとより、実験を行ったアメリカ本土にも放射性物質は降下した。さらにヨーロッパ、アフリカなど放射能は地球を包み込むように広がった。水爆ブラボーは核汚染が世界全体に及んだ初めての核爆発だったといわれている。

都立第五福竜丸展示館には死の灰や第五福竜丸の船体そのもの、エンジンや無線機などの機械・機器類、当時の大漁旗などのほか、事件発覚後に日米間で交わされた暗号を含む外交文書、核兵器に反対する全国からの署名の一部などが展示されている。

東京・夢の島にある都立第五福竜丸展示館は、ぜひ一度は訪れておきたい施設だ。

3月1日は第五福竜丸が被曝した日だということを忘れないでいたい。後世にまでずっと伝えていきたい。

都立第五福竜丸展示館

ハイドロジェンボムを受けしものの悲嘆の叫び
 ハイドロジェンボムを受けしものの悲嘆の叫び
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海中に没し続けること28年。ようやく引き揚げられ、船体とともにあってほしいとの願いから東京都に寄贈されるが、エンジンは第五福竜丸展示館の外庭に置かれている。

ビキニ環礁の青い海のパラドックス
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約半世紀経った時点でIAEA(国際原子力機関)は、この地域の産物に食料を依存する形での住民の帰還・移住は、年間15ミリシーベルトの実効線量を浴びることになるため推奨できないとした。

第五福竜丸から今日への道、この先へ続く道
 第五福竜丸から今日への道、この先へ続く道
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核実験による汚染はあるのかないのか。独立からわずか2年半、あまりにも小さな調査船「俊鶻丸(しゅんこつまる)」が、若い日本の科学者を乗せて太平洋を走り回り、核汚染の実態を解明した。当時の日本人には「俊鶻丸」の名に恥じぬほどの「骨」があった。

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