初めてこの物体を見た時、これはアートだと思った。それもきわめてすぐれた芸術品。
この物体の由来を知る人からは不謹慎とか無責任といった謗りを受けるかもしれない。それでもなお思う。これは人類の歴史に記されるべき芸術品だ。
もの言うことのできない者たちの叫び。聞こえるはずのない声が、空気を震わせる低音の波となって伝わってくる。まるでムンクの「叫び」か、南太平洋の島々に生と死の象徴として伝えられてきたプリミティブな仮面のようだ。
まったく同じ形に造られたものたちが、なぜにここまで異なる面持ちを見せるのだろうか。まるでこの物体が作られてから今日まで、長い間に受けてきた仕打ちによって刻み込まれた表情みたいだ。その苦難の時間こそが、工業製品として生まれたこの物体を芸術品に、そして人類の歴史の遺産に高めているのは間違いない。
芸術品の前には次の説明パネルが掲示されている。
第五福竜丸エンジン
このエンジンは、昭和29年(1954年)3月1日に、太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験によって被害を受けた「第五福竜丸」で使用されていたものです。
「第五福竜丸」は、昭和42年(1967年)に廃船になりましたが、エンジンは奥地寿太郎氏に買い取られ、同氏所有の「第三千代川丸」に取り付けられました。
その後、同船は昭和43年(1968年)7月に三重県熊野灘沖で座礁・沈没し、エンジンは海中に没しました。
平成8年(1996年)12月、28年ぶりにエンジンが海中から引き揚げられました。
東京都はエンジンの寄贈を受け、第五福竜丸展示館脇のこの地に展示しました。
第五福竜丸エンジンの案内板
ヒロシマ、ナガサキに次ぐ第三の被爆とされる「第五福竜丸事件」。1954(昭和29)年3月1日、焼津港を母港とするマグロはえ縄漁船第五福竜丸は、アメリカの水爆実験のフォールアウト(死の灰)を浴び乗組員23人全員が被爆。焼津港に帰還後、全員が原爆症と診断され、無線長だった久保山愛吉さんが亡くなった。船に積もるほどの死の灰を浴びた第五福竜丸だが、アメリカが設定した危険水域の外側で操業してしていたことが明らかになっている。
アメリカは放射性物質は海水ですぐに希釈されると主張。核実験の影響による原爆症ではないと責任を否定した。これに対して日本の研究者らは、小さな練習船「俊鶻丸(しゅんこつまる)」に乗り込んで、核実験が行われた海域の調査を実施。海洋の放射能汚染を実証する。しかし日本政府は政治決着と称して、些少な慰謝料だけでこの問題を片付けた。今日に至ってもなおアメリカの言い分を支持し、漁師は酒飲みだから肝臓を傷めたのだろうなどとという主張を目にすることがある。
第五福竜丸は国に買い取られ、1956(昭和31)年、東京水産大学の練習船はやぶさ丸となるが、1966(昭和41)年には廃船となり、当時ゴミ埋立地だった夢の島に放棄される。その際エンジンだけは船から取り外されて、運搬船「第三千代川丸」に搭載されたが、翌年7月21日、潤滑油のドラム缶700本以上を積載し、横浜から神戸に向かう途中、熊野灘沖で濃霧からの避難途中に沈没する。(乗組員は全員無事)
そして海中に没し続けること28年。ようやく引き揚げられ、船体とともにあってほしいとの願いから東京都に寄贈されるが、エンジンは第五福竜丸展示館の外庭に置かれている。叫び声をあげているように見える側は、船体が保管されている展示館にまさに面しているという偶然。
もの言うことのできない者たちの叫びが、黄泉の国に続く洞穴の中から聞こえてこないだろうか。
エンジン全体のかたちにも破壊的なほどの存在感がある。
第五福竜丸の船体はこの展示館の覆いの中だ。
朝鮮民主主義人民共和国が水爆実験を行ったと発表したのを受けて、この場所で大きな抗議の声があげられたという。展示館の中には、第五福竜丸の「事件」の物証や、第五福竜丸の生い立ち、原水爆反対運動の資料、核実験場にされたマーシャル諸島の人々のことなど、多くが展示されている。団体見学も可能だ。
水爆実験によって核の脅威に注目が集まっている。核兵器によってどんな未来がもたらされるのかを学びに、第五福竜丸展示館にぜひ来てほしい。
野外展示されているエンジンも忘れずに見てほしい(たぶん、大きすぎて資料館の中に入らなかったということなのだろうが……)
大型の木造漁船「第五福竜丸」は紀伊半島の先端にある串本町(旧古座町)で建造された。船体には県境を越えて三重県南部の材も多く使われたという。そして、エンジンは船体から切り離された翌年、熊野灘に沈んだ。南紀地方には第五福竜丸についての興味深い情報が数多い。興味のある方はこちらもぜひ。
第五福竜丸はいまもここにいる。過去の物語なんかではない。
最終更新: