1945年8月、地球上に暮らす人々は広島と長崎という2つの原爆投下を経験した。そして1954年、多数の民間人が被爆する3度目の事件が発生する。静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」が南太平洋、ビキニ環礁でアメリカによって実施された水爆実験で発生した大量の死の灰(放射性物質のフォールアウト)を浴びて被爆したのである。
排水量140トンほど、しかも木造の第五福竜丸は、当時の多くの漁船と同様、敗戦によって悪化した食料事情を打開すべく、国民に良質なタンパク源を届けるべく、はるか南太平洋でマグロの延縄漁に従事していた。水爆実験の実施に当たり、アメリカは危険水域を事前に通知しており、第五福竜丸はその外側での操業だった。
しかし、実験で爆発した水爆の威力が想定外に強力だったため、爆心から約240キロも離れていたにも関わらず、数時間にわたって放射性物質の死の灰を浴び、乗組員23人全員が被曝する事態になった。しかし、第五福竜丸の乗組員たちは、海の向こうでまるで太陽のような黄色い閃光を目にし、ただならぬ事態だとは感じたものの、それが核実験によるものだとは理解していなかったという。なぜなら、広島、長崎の原爆投下は、終戦後の占領期に渡って、一般国民にはほとんど知らされることがなかったからだといわれる。
さらに、この時のフォールアウトでは第五福竜丸のみならず、六百隻を超える漁船で、数万人の被爆者が出たと言われている。
「原子マグロ」と俊鶻丸
日本に帰国した第五福竜丸の乗組員は原爆症を発症し、無線長の久保山愛吉さんは約半年後の9月に亡くなられた。しかしアメリカは乗組員たちの症状を原爆症とは認めなかった。のみならず、核実験で放出された放射性物質はすぐに海水で薄められると説明していた。そのころ国内では、「原子マグロ」「原爆マグロ」「水爆マグロ」といった単語が飛び交い、全国の港で水揚げされたマグロの放射能検査が行われ、高い線量が発覚したマグロは、市場の外などに穴を掘って棄てられた。最初に汚染マグロが水揚げされた静岡県では、放射能検査が行われる前にすでに流通したものもあったともされ、国内は水産物の放射能汚染で騒然としていた。核実験による海の放射能汚染は国民的な問題となっていた。
いまに共通する風評被害が61年にも大問題となっていた。かたやアメリカの言う、放射性物質はすぐに海水に希釈されて無毒となるという説明。かたや、信じていいのかという疑念。
汚染がないのに汚染があるとされ、商売に支障をきたす事態があればそれは風評ということになろう。しかし、実際に汚染があることを風評という言葉で偽装して、正確な調査を行わないのであれば、これは風評ではない。
疑念が渦巻くそんな中、一隻の小型調査船が南太平洋へと船出した。核実験の汚染物質は本当に短期間に薄まって無害化するのか。調査に当たったのは、当時の水産庁が旗を振り、日本の若き科学者たちを乗せた「俊鶻丸(しゅんこつまる)」だった。俊鶻丸の「鶻」は隼を意味する。俊鶻丸は調査船としては考えられないほどの小船ながら、水爆実験が終了した約2カ月後に南太平洋での汚染状況を調査。ビキニ周辺海域で高い放射能を検出する。汚染物質が簡単には薄まらないこと、食物連鎖でマグロの体内に蓄積されることを世界で初めて実証した。
当時の日本人には「俊鶻丸」の名に恥じぬほどの「骨」があった。
第五福竜丸の被曝は、杉並区の主婦たちから始まった反核運動のきっかけになったというのが通説となっている。また、俊鶻丸による海洋調査は放射能による汚染がなかなか薄まらないことを明らかにした。映画「ゴジラ」もこの被曝事故をヒントに製作されたと言われる。核への恐れは国民的な盛り上がりを見せていた。少なくとも共有されていたと考えていい。しかし――。
核を推進するための展覧会で展示されたもの
しかし、忘れてはならないことがある。同じ時代、同じ日本で「平和利用」の名の下に核の利用が推進されていただ。しかも多くの国民に歓迎される形で。
ひとつ有名な話を紹介しよう。それは、第五福竜丸の被曝事故の翌年、東京で37万人の観客を集めた「原子力平和利用博覧会」。アメリカのアイゼンハワー大統領による「アトムズ・フォー・ピース」の演説と、その後の核政策の変更を受け、日本では中曽根康弘衆議院議員らが中心となって国会に提出された原子力開発予算の可決など、原子力利用に向けての行程はすでに政治上で既定のものとなっていた。第五福竜丸の被曝はその流れに棹さすものだった。
これに対して、初代の原子力委員長に就任した正力松太郎氏(読売新聞社社主で日本テレビの社長でもあった)らがアメリカと共同して実施したのが「原子力平和利用博覧会」だ。マジックハンドや小型原子炉の模型など未来的な展示物とともに出品されていたのは、驚くなかれ、第五福竜丸の実際の船体の一部だったという。原子力潜水艦用の小型原子炉の模型を見た正松氏が、「これを1台うちにもほしい」と言ったという話も伝わるが、博覧会は被爆地・広島を含め全国20都市で開催され、合計250万人が参加したという。
第五福竜丸は何だったのか。ひとつには、世界で唯一の被爆国と考えられてきた日本が三度目に被曝をした事件である。そして、第五福竜丸の事件をきかっけにして、広島と長崎の原爆被害に対して国民の目が向けられるきっかけとなった事件ということはできるだろう。しかし、第五福竜丸の被曝は、その悲惨から考えうるまっとうな方向ではない、「だからこその平和利用」という反対の向きに国民の目を向ける契機としても利用されたのだ、結果的には。
第五福竜丸の被曝で犠牲となった久保山愛吉さんは、「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と遺言したという。久保山さん以外の乗組員たちの多くも、若くしてガンなどで命を落としてしまった。第五福竜丸の被曝が発生した3月1日には、原水爆の犠牲となられた方々に哀悼の意を表すという言葉が繰り返される。
しかし、哀悼の意を表すことは、原水爆によって命を落とされた方々のその思いを受け止めるということに相違ない。
第五福竜丸の被曝は過去の歴史上の出来事ではない。それは、原爆によって想像を絶する被害を受け、不戦や反核という国民的な共通認識を持ちながら、平和利用との名の下に自らが核を持つことになった日本の近代史の結節点でもある。そのことを未来へつなげていくこと、それはとても大切なことなのだと思う。
歴史としての「第五福竜丸」を忘れないのみならず、私たちは「俊鶻丸」、そして「原子力平和利用博覧会」という単語も忘れてはならない。ネットで検索しても記事はほとんど出てこないが、なぜか図書館にはこれらに関する書籍が少なからず残されている。その意味もあわせて考えてみてはどうかと思う。
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