山田町の海辺近くにこんもりと盛り上がった小さな丘、御蔵山。標高は10メートルほどながら、震災の後、変化し続ける町の姿を見渡す出来る場所だ。
その丘の上に建てられた展示ブースに、かなり大きな、そしてユニークなデザインの時計が置かれている。
時計はかつて、JR陸中山田駅の屋根の上に取り付けられていた大時計。説明ボードにはこのように記されている。
2011年3月11日午後2時46分、マグニチュード9.0の歴史的大地震が東日本太平洋沿岸一帯を襲った。それに引き続いて発生した大津波は山田町に襲いかかり、被災したJR陸中山田駅の駅舎上に設置されていた大時計は津波による被災時刻の3時27分を指したまま止まっている。
この大時計について(JR陸中山田駅の駅舎上に設置されていた大時計の案内板)
この大時計は地震の40分後、山田の町を呑み込んだ津波の証言者だ。
津波で押し流され、さらに大火災で壊滅的な被害をこうむった山田町。駅舎も延焼して全壊状態だった。破壊された駅舎から下ろされた大時計は、しばらく雨ざらしの状態だったとも聞く。文字盤もフレームもボロボロだ。往時の面影が感じられないほど。
大時計の横に設置された説明ボードには、駅舎の上で輝いていた頃の写真も。震災前と震災後の写真を見比べると、被害の大きさに胸が詰まる。
それでも、町を見渡せる丘の上の大時計、ロータリークラブのエンブレムが太陽のようにもヒマワリのようにも見えるその姿を前にしていると、大火災に遭いながらもこの姿を保てたことが奇跡に思えてくる。もはや正確な時刻を示すことはできなくなってしまったが、それでも大時計は御蔵山の丘の上から、山田町の今日を見つめている。
丘の上にたてられた「鎮魂と希望の鐘」のことも見つめている。時々やってきて鐘を鳴らす人の背中を見つめている。
犬の散歩に来た人のこともちゃんと見つめている。その向こうには、新しい山田町をつくる工事が進められている。
もちろん山田の海も見つめている。あの日の荒れ狂った海も、穏やかな恵みの海も。
大時計の説明ボードの続きはこう記されている。
山田ロータリークラブの創立記念行事として、昭和46年に当時の国鉄陸中山田駅舎上に設置されていたものである。この大震災の規模と大きさと威力を如実に示すものであり、ここに展示し後世の防災の教訓とする。
この大時計について(JR陸中山田駅の駅舎上に設置されていた大時計の案内板)
あの日と未来をつなぐ場所。御蔵山に置かれた時計の針は3時27分で止まっているが、大時計は今でも、そしてこれからも、山田町の時間をずっと刻み続けていくだろう。
被災した大時計
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