岩手県大船渡市にある大津波資料館「潮目」が、何者かによって破壊された。ドアや窓ガラスが割られ、中に展示していた被災時計も壊された。
津波で集落のほとんどが流されて、酷い被害を受けた場所で、それも小学校の斜向かいの場所で、被災物を材料にして組み立てられた津波資料館。作ったのは国でも市でもなく、そこに住んでいた人たちと、全国から応援した人たちだ。昨年には写真集も発売されたくらいで、何もなくなった被災地から立ち上がる「象徴」みたいな大切な場所だった。
そんな場所を壊すなんて。なんて悪い奴らだろう。でも、「潮目」が壊されたというニュースを聞いたのと同時に思い出した景色があった。(それは心のどこかで見なかったことにしようと封印していた景色かもしれない)
2013年富岡町の夏
ここは福島県富岡町。ようやく昼間の立ち入りが出来るようになって数カ月後の富岡駅前だ。ちょうど2カ月前、同じ場所に来た時にはこんな落書きはなかった。
「人」と書いているのだろうか。何かに取り憑かれたように書き殴られた文字を前に、頭のなかが真っ白になった。
誰が? いったい何のために?
津波で2階部分だけが流されて道路を塞いでいる家があった。上は6月の写真。
2カ月後。2013年8月。「人人人人人人人人……」
誰が、いったい何のために?
そこで人が暮らしていた部屋の中にまで。
誰が、いったい何のために?
答えを探そうとしても見つからない。
津波に流されフロントが潰されガラスは割れ、車内は泥や漂着物がたまっていた悲惨な高級車。それだけでも目を覆いたくなる景色だったのに。
人がいなくなった富岡町だからこそ、「人」という字を書きたくなったのか。ただ単に人がいなくなったということを落書きしただけなのか。震災の直後「ここで亡くなった人が発見された」という印としてペイントされたのを真似たものなのか。
この日、見た限りでは「人」という落書き以外に落書きは見当たらなかった。
だれが、いったい何のために? 答えが見つからない。ただ重い気分だけが残る落書き。
2012年11月のいわき市新舞子付近
福島県道382号豊間四倉線。いわき市の海沿い、塩屋崎灯台や新舞子ビーチをつなぐ観光道路でもある。その道沿いの空き地に、震災から1年半以上たってからゴミが不法投棄されるようになった。
津波で被災したように見えるものもあった。明らかに震災後の生活の中で出たゴミもあった。一般ゴミや生ゴミまであって、カラスが何羽も集まっていた。
ゴミは、この道を通るたびに増えていった。不法投棄に対する警告看板も増えていった。一時は看板が林立する不穏な景色だったこともある。そしていつの頃か、すべてのゴミが消えていた。おそらく行政が廃棄したのだろう。
観光地の道路脇にゴミを捨てるという感覚がわからない。しかも、ここは津波の被害を受けた場所だ。なぜこの場所が不法投棄の場所になってしまったのか。どうしてゴミは増えていったのか。
2013年4月、仙台市荒浜
基礎だけの住宅地が広がっていた頃の仙台市荒浜。半分以上が破壊された松林の中に、被災物が残されていた。と思ったが、よく見ると震災の後に投棄されたゴミのようだ。
松林の奥にはさらに驚くような不法投棄。
型は古いがサビひとつない。捨てられたばかりのものらしい。型が古いということは、リサイクルが有料だからというのが理由なのか。津波の被災地に捨てれば、いつか誰かが瓦礫として処分してくれるだろうということか。リサイクルの対象ではないプリンターまで捨てられているのは解せないが。
いいところも悪いところも含めて
どうしてわざわざ被災地にまで行って落書きをしなければならないのか。なぜ被害がひどかった場所にゴミを捨てなければならないのか。
そんなことをやった奴らが最低なのは言うまでもない。だがやったのは悪い奴、と線を引くことが解決につながるのだろうか。罰則を強めようとか、パトロールを強化しようということで、根本的に解決されるのだろうか。
そもそも、壊しちゃいけません、捨てちゃいけません、落書きしてはいけませんというルールがあるのは、そうしてしまう人がいたり、そうしてしまいかねない自分がいるからではないか。もしも人間が壊したり、捨てたり、落書きしたりすることのないようにできている生き物だったとしたら、そんなルールなど必要ない。ルールがあるということは、人がそういうものだということを逆に示しているのではないか。
だとしたら、被災地の落書きやゴミの見え方が変わってくる。見たくもない酷い写真をたくさん見ていただいたけれど、写真の意味が変わってくるのではないか。
もちろん捨てたり壊したり落書きしたりする奴が最低なのは言うまでもない。しかし、被災地のゴミや落書きは、別の何かを突きつけているように感じるのだ。
先日亡くなった登山家の敷島悦朗さんの持論のひとつに、人間とはゴミを捨てる生き物という考え方があった。鳥が巣の外に糞をするのと同じというのだ。アリが蟻塚を作るのと同じ。貝塚は昔の人間のゴミ捨て場だとも言った。敷島さんは「ゴミを捨てるのは悪いこと」とか「ゴミ拾いしながら山に登るクリーンハイクはいいこと」など、無批判に受け入れる姿勢を批判した。究極の反対命題といえるだろう。
人はいいこともするし、悪いこともする。
その前提でルールの成因を分解して再構成しながら考えることがなければ、ただ「ルールを守りましょう」という標語を繰り返すことにしかならない。
切れ者という印象が定着していたお笑い系タレントが「代案のない反対意見は一番よくないこと」と、まるでどこかの政治家のようなことを言い放ったのと同じく無意味な思考停止だ。反対と代案の有無は論理上何ら関係ない。
しかし、「いい/悪い」とは何なのか。倫理ってなんなのか。その答えがどこから導き出せるのか。そう考えると、糸口すら、見当もつかない。それも事実だ。
この問題は倫理学はもちろん哲学でも宗教でも、考えてみれば明確な答えなど出されていないことなのだ。たとえば人を殺してはいけないとすべての宗教は言う。だが、その理由が明らかにされたことなど、これまで一度もない。盗むべからずもしかり。不法投棄すべからず。落書きすべからず。すべてそうだ。それってきっと、長い人類の歴史の中でバトンを渡されてきたということなのではないだろうか。
そして同時に、そんなことするのは悪いこと、という意識もある。やはり根拠は示されないままに。とても大雑把な言い方をすれば、倫理とは生き物としての存在と、社会的存在としての人間の間の断層から生起しているものなのかもしれない。
すんません。小難しい話になって。
ただ、霧の向こうにかすかに見えるような気がすることもある。それは、壊された大津波資料館「潮目」の主が、建物の修復に地元の若者が参加してくれたことを「成果」と呼んだこと。その辺りに繋がっているような気がしないでもない。
人まかせとか、他人事ではないということなのだろうか。あらゆる宗教も哲学も、最終的には「お前自身の問題だろ」て言ってきただろうことは間違いない。
被災地のゴミのこと。長いゴールデンウィークにも考えてみようか、と思う。
最終更新:
はちはち
「人」は落書きではなく人がいる(もしかしたら生存?)の合図だそうです。