この年末年始、宮城県と福島県の沿岸部を歩いた時の写真を紹介します。これは今年の3月11日、とある集会で発表する予定だったスライドショー用のものです。
大川小学校
石巻市の大川小学校です。撮影したのは2014年末。写真では見えませんが、緊急災害支援チーム新沼【311karats。】の皆さんによるクリスマスイルミネーションが入り口の奥に残されていました。イルミネーションは今年の年明け、「手」をモチーフとしたものに作り替えられました。
春には屋根裏に巣を作ったスズメたちの賑やかな声が聞こえる大川小学校ですが、寒い冬の日、あたりはしんと静まり返っていました。
整地されただけの場所に砕石が敷かれたり、行くたびにどこかが少し変わっていく大川小学校です。毎日のようにこの地を訪れるご遺族の方々の気持ちを案じます。校舎を保存するプランはどうなるのでしょうか。
雄勝花物語
大川小学校から雄勝方面に坂道を越えたT字路に、白い柵で囲まれたバラ園と花が植えられた花壇があります。「雄勝花物語」ローズファクトリーガーデンです。
ご家族を亡くされた徳水さんご夫妻が実家の跡地に花を植え始めたことから、この花壇は始まりました。最初の年は個人的に植えた花だけ。そこに千葉大学園芸学部の先生と学生さんたちが花の支援を行います(最初の活動の帰りに立ち寄った石巻市の立町ふれあい商店街の「花の芽をつなぐ運動」にも千葉大の皆さんは参加されたそうです)。雄勝名産のスレートも花壇には飾られました。
翌年訪ねた時には、千葉大学の皆さんが花壇に柵を作っている真っ最中。なぜかと尋ねてみると、シカがバラの芽を食べてしまうからということでした。リアス式海岸の山手には本当にシカがたくさんいます。夜道を車で走っているとしょっちゅう遭遇するものだから、そのうち珍しくも感じなくなってしまうほど。それはともかく、遠く離れた場所に暮らす人たちが、雄勝のことを思って心尽くしの活動を行っている姿に、感じさせられるものがありました。
柵が作られ、小屋が建ち、さらにその面積も広がって、徳永さんのご主人は、もっともっとローズファクトリーガーデンを大きくしていきたいと話しています。
応援しているのは千葉大学の人たちばかりではなく、1500km以上離れた北九州市で本場仙台の牛タンを食べさせてくれる「仙臺屋」さんでも徳水さんの講演が行われたそうです。世の中全体で見ると、東北のことがメディアに乗ったり語られたりすることは減っているように感じますが、つながっている人たちはたくさんいるのです。
女川
女川町で最初に完成した復興住宅のエントランスには、震災後の女川に誕生したスペインタイル工房「みなとまちセラミカ工房」さんのタイルがおしゃれに飾られています。
セラミカ工房さんは、大津波で色彩を失った女川に色を取り戻そうという気持ちで、色鮮やかなスペインタイルの工房を始められたそうです。復興住宅の他にも女川の町のあちこちで、綺麗なタイルを見ることが出来ます。
そんな復興住宅ですが、外から見ると人の気配が感じられないくらい静かでした。寒い冬の時期ではありましたが、幾何学的な建築が寒々しさを増しているようにも感じられたのでした。
復興住宅の向かいには谷の景色が広がります。震災の当日、避難していた人たちの目の前で、津波に乗った大型船が山の奥まで流れていったその谷間です。
野球場に建設された仮設住宅には、まだたくさんの人達が入居されています。
2階建て、3階建ての仮設住宅として有名になった場所ですが、集会場もあり、さまざまなイベントも行われている様子で、むしろ仮設の方が人の生活がある場所のように感じられました。
女川町立病院(現・地域医療センター)の駐車場から見ると、津波で倒されたビル(江島共済会館)の解体がほとんど完了していました。倒壊したビルは、震災後の女川のランドマーク的な存在にまでなっていましたが、解体撤去された新らたな町の姿が、やがて女川の当たり前の風景になっていくのでしょう。
倒壊したビルの保存を訴えてきた女川中学の生徒たちは、津波の記憶を1000年の未来に伝えたいと、いのちの石碑プロジェクトを進めています。町立病院の敷地内に設置された津波記憶石には次のように刻まれています。
いのちの石碑プロジェクト
「津波記憶石」2011・3・11 東日本大震災
東日本大震災では
多くの人々の尊い命が失われました
地震のあとに起きた大津波によって
ふるさとは飲み込まれ
かけがえのない
たくさんの宝物が失われました
これから生まれてくる人たちに
あの悲しみ あの苦しみに
再びあわせたくない
その願いで 千年後の命を守るために
三つの合言葉を作りました
非常時に助け合うため
普段から絆を強くする
高台にまちを作り
避難路を整備する
震災の記録kを後世にのこす
今、女川町はどうなっていますか
悲しで涙を流す人が少しでも減り
笑顔があふれるまちになっていることを祈り
そして 信じています
女川中学校卒業生
「津波記憶石」いのちの石碑プロジェクト
生徒たちは中学を卒業した後も、女川町内の津波到達地点に石碑を設置する活動や、記憶を伝えていく活動を続けています。
ご存じの方も多いでしょうが、女川町立病院は町から見上げるような高台にあります。海辺から見上げると、まるでお城のように見えるほどです。
しかし、津波はここの駐車場の高さを上回るものでした。この場所に避難した人にも犠牲者が多く出たそうです。
女川中学の生徒たちが立てた「いのちの石碑プロジェクト」の文字を刻んだ石の隣には、石で出来た「津波記憶石」のモニュメントがあります。2.7mのモニュメントの頂点が、この場所に到来した津波の高さだと言われています。
がんばろう!石巻
大晦日の朝の「がんばろう!石巻」の看板です。看板の前に手作りタイルのモニュメントが追加されています。記念碑的な場所は、一度完成するとそのままというケースが多いように思いますが、がんばろう!石巻は違います。毎年、少しずつグレードアップしています。そこに、どんな意味があると思いますか? ぜひ一度考えてみていただけたらと思います。
看板を設置した黒澤さんがお正月を迎えるためにと看板周りの掃除をされていました。大した役には立ちませんでしたが、枯れた花を処分したり、水を換えたりといった小さなお手伝いをさせてもらいました。
がんばろう!石巻が面している道路ではかさ上げ工事が始まります。道の脇に高さを示すバーが表示されていました。造成された地面よりもさらに高い場所に道路ができるようです。工事が始まれば、がんばろう!石巻へは表の道路からはアクセスが出来なくなります。メモリアル公園の全体像もまだはっきりしないそうです。それでも、石巻の人々にエールを送り続け、多くの人々にとって大切な場所となったこの看板を、黒澤さんは何らかの形で活かしていくことでしょう。その応援をしていきたいと思います。
いわき市久之浜
久之浜ではかさ上げ工事が進み始めています。建物がなくなった土地は風が猛烈で、バリケードまで倒されてしまうほど。
ちょうどこの日は復興住宅の引き渡しの日。マンションのような復興住宅は少し離れているので写真を撮りに行けませんでしたが、久之浜の町中で地鎮祭をしているおたくがありました。いつもよくしてもらう知人の家です。
建物が残った駄菓子屋さんの横に真新しい電柱。火災でどろどろに溶けた街路灯はすでに撤去されていました。
工事用道路から海の方を眺めています。お社は稲荷神社です。震災で津波が避けて通ったと地元の人たちに言われる奇跡の神社。その先で海の景色を遮るのは、かさ上げ途中の土地です。
嵩上げ途中の土地から稲荷神社を見るとこんな景色です。神様より高い場所から見下ろす格好になってしまいます。
ずっと古くからこの場所に鎮座されていた神社と、その周りにあった町の風景は失われてしまうのでしょうか。
かさ上げに使われている材料をちょっとアップで。
かさ上げ工事が進むさらに海側は、堤防工事が途中でストップしたまま。秋に来た時にも隙間がありましたが、思ったほど工事が進んでいない様子に驚きました。
それでも、神社はコミュニティの中心です。年中行事やお祭を通じて、地域に深く根ざしてきた存在です。でも今は、稲荷神社の周りに住んでいる人はごく少なく、代わりにかさ上げの土地が神社を取り囲んでいます。
久之浜は変化のただ中にあります。懐かしい知り合いの多く住む町だから、これからも時々訪ねて行こうと思います。
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