[関東大震災の記憶]被害に負けない埼玉人の復活力

iRyota25

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前回に引き続き、関東大震災当時の埼玉県の状況を、当時の五大新聞のひとつ時事新報社が震災の3カ月後に発行した雑誌「大正大震災記」の記事を通して紹介します。

埼玉県では荒川に面した南部の地域や中部でも旧河川を埋め立てた場所などで大きな被害がありました。しかし、震源から遠かったこともあり京浜地区に比べると被害からの復興が早かったことが見てとれます。

鉄道復旧から伝わってくる埼玉人の熱意

荒川の鉄橋が沈下してしまう
大鉄槌で叩き潰されたような堤防

道路橋梁等の損害も甚だしかった。まず川口町(現・川口市)先東北線荒川鉄橋は、中央部における橋脚数基が5尺(約1.5メートル)以上沈下したため、橋梁大傾斜をなし汽車は不通となったが、応急修理の結果6日から開通した。

鉄道は浦和・蕨間にて破損し、蕨駅が線路上に倒壊したので一時不通となったが、直ちに復旧した。

「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行

見出しは「鉄橋沈下」「大鉄槌で叩き潰されたよう」と悲観的だが、本文は違います。橋脚が1メートル半も沈み込んだ東北線の荒川鉄橋を、震災から5日目には応急修理で開通させてしまう。蕨駅は駅舎が線路に倒れ込んだが「直ちに復旧」。これらの記事からは「京浜地方のためにも埼玉が頑張ろう」という埼玉県人の心意気が伝わってるようです。とは言え被害は少なくない。堤防や道路など土木系インフラは大きく損なわれてしまった――。

もしこの橋が落ちてしまったら、京浜罹災者が困る

荒川利根川大堤防は、大鉄槌をもって叩き潰したように崩れた箇所も少なくない。その他堤防の決壊20カ所1299間(約2.4キロ)、破損112カ所8,696間(約15.8キロ)、道路埋没28カ所720間(約1.3キロ)、破損130カ所3,580間(約6.5キロ)、東京埼玉唯一の連絡橋梁たる戸田橋は、約1尺(0.3メートル)陥没し、一時交通ができなかった。

「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行

大鉄槌で叩き潰されたように堤防が破壊されたところに、大きな水害が起これば大変なことになったかもしれません。被害を受けた堤防や道路の距離を見て思うのは、大正時代には舗装された道路がほとんどなかったのだろうということ。

当時の土木インフラの主役は堤防で、被害の規模からしても道路は脇役でした。しかし今日であれば、道路被害がはるかに大きくなることは容易に想像されるところです。

ところで、東京と埼玉を結ぶ唯一の橋だった戸田橋は、一時交通が出来なかったものの復旧します。それを伝える言葉が素晴らしい。

もしこの橋が墜落せば、京浜罹災民救助はとても満足にできなかったであろう。

「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行

中等学校、小学校は始業式の後だった

大正大震災記の記事からは、はたと気づかされることがしばしば。関東大震災が発生したのは9月1日で、小中学校では2学期の始業式が行われる日でした。しかし、発生時間が正午前だったので、多くの学校では児童生徒は下校した後だったのもそのひとつ。

中等学校小学校は第2学期開始の第1日で、多くは午前中始業式を挙行、地震当時はほとんど退出後であったから職員生徒の死傷少なく、小学校において児童男6名女9名死し、重傷を負いしもの職員1名、生徒15名、継承者61名。中等学校において女子師範性が1名死亡したのみであった。

校舎の全潰したものは33校、半壊19校、大傾斜28校、大破24校で杉戸小学校のごときは職員全部校舎の下敷きとなったが、不思議に1名の死亡者をも出さなかった。

「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行

そして、これに続くのが感動的な光景が描かれます。それは「この橋が落ちたら」に呼応するひとつのエピソードです。

国民の教育は一日(いちじつ)も休止すべからず

これらの小学校はバラックまたは臨時校舎を借入、9月10日頃まで前後して授業を開始し、自町村児童はもちろん、京浜の罹災就学児童をも収容して、国民の教育は一日も休止すべからずの標語を実際に行った。

「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行

京浜地区で罹災した人々、とくに子供たちのどれくらいが埼玉に避難していたのか、さらに調べてみたいと思いますが、校区の子供たちだけではなく、罹災児童も一緒に勉強というこの記事には胸が熱くなりませんか。記事が拾い上げているのは実際の数千数万分の一に過ぎないでしょう。大正時代の日本人は偉かったです。

「国民の教育は一日も休止すべからず」。覚えておきたい標語です。

被害は大きいが…

インフラ、学校に続いて、産業復興について語られています。当時の埼玉は織物と鋳物が主要な大産業だったようですが、どちらも壊滅的な被害を蒙ってしまいます。

この震災において最も甚だしい直接被害を受けたものは川口町の鋳物業と、埼玉織物同業組合地区内の機業家(織物業)であった。同組合の調査によれば、織物業においては全潰工場126、半壊工場25、その坪数8,169坪、織機の破損1,739台、損害見積り151万7000円、

鋳物業は全壊工場293、半壊23、その坪数17,540坪、損害見積り169万9000円であった。

「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行

そしてここから先も、被害を乗り越えて行こうとする埼玉の人々の強さが語られます。

以上のごとく同地方の工場は総体のほとんど7割以上倒潰したが、多くは工場は定休日であったため従業員の死傷もなく、火災の一件も起こらなかったことは僥倖であった。

両組合はほとんど再起困難の大打撃を蒙ったが、事業の種類が生活の必需品の製造であって、京浜復興とともに大活躍をなし得る資格のものであるから、同業組合は県及び政府より多額の低利貸付を受け、鋳物組合のごときは10月上旬早くも罹災工場の3分の1は復活し、鍋釜暖炉の製造に着手し、欧州戦乱当時以上の元気を見せている。

その他東武方面の製酒醸造業、北埼玉方面の製糸工場も莫大の損害を蒙った。

「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行

7割の被害を受けた後、1カ月後には3分の1が復活するとは、このバイタリティは只者ではありません。今こそ商機だというへこたれない魂と、ビジネスを通して復興を進めるんだという思い。おそらく両方がないまぜになった気持ちが燃えたぎっていたのでしょう。鋳物の炉の中で赤く輝く熔けた鉄のように。

製酒醸造業や製糸工場も、その熱気に牽引され復活を果たしたと信じたいものです。

東日本大震災を思わせる光景。庁舎前にテントを張って緊急会議

東日本大震災が発生した直後、岩手県の内陸部にある遠野市では、まずは市内各所の被害確認をと市の職員が町を走り回っていたそうです。その頃、大槌町から峠越えして救助を求めてきた人があった。陸前高田や大船渡方面からの支援を依頼するために訪ねてくる人もあった。市長はただちに海岸地域への支援実施の方針を打ち出した。この早い初動から、遠野市はその後も長く被災地支援のベースとして機能することになったそうです。そんな、東日本大震災当時の見事にオーバーラップする話が繰り広げられます。

埼玉県では1日夜半、庁舎前に設けた天幕(テント)張の事務所に庁中会議を開き、県内外の震災に対する善後策を協議の結果、県内罹災者の救護はもとより急を要するも、京浜罹災者に対する応急救護は焦眉の急であると決し、直ちに臨時救護部を県庁内に設け、これを総務、食料部、運輸、材料、経理、情報、救済、衛生の各部に分かち、即時救護に着手し、直ちに県内の県内の各自動車を徴発し、2日早朝、握り飯6,000個、飲料水4斗(約72リットル)5本を自動車に積載し、上野山上の避難民に分与して、罹災民救助の先鞭を打った。引き続き食糧品を満載せる自動車は連続して東京に入り大活躍した。

「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行

埼玉県の罹災者受け入れは30万人近く

県を上げての支援体制ではありましたが、罹災した東京横浜方面の人達のリアクションは、おそらく県の想定をはるかにこえるものだったに違いありません。

2日朝来疲労困憊の極に達した京浜方面の罹災者は、最も手近の埼玉県内に殺到し、その混雑は名状すべからざる状態で、千住方面のものは奥州街道から、上野方面のものは鉄路川口町に、板橋方面からのものは中山道を辿り蟻の行列をなして入ってくる。これらに対しては草加、川口、蕨、浦和、大宮、熊谷、深谷に救護所を設け救済に当たり、9月前半、半月の救助人員は29万9544人に達した。

3日に至り東京よりの避難者はますます多く、救護所を増設し、町村吏員、在郷軍人、青年団員、高女会員、学生生徒その他の篤志者は昼夜出動、救助に当たり、記者開通後は停車場にも救護班を出し、湯茶食糧を供与した。

「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行

約30万人という人数は、青森市、盛岡市、福島市の現在の人口にほぼ匹敵します。大正時代で言えば横浜市の人口が40万人強ですから、当時の大都市である横浜の人口の約7割ほどの人々が埼玉県に助けを求めたことになります。

とても県の職員では足りず、市町村職員、在郷軍人(退役した軍人)、青年団、高等女学校の生徒会、学生や生徒たちが昼夜出動したというのです。

このマンパワー、連帯の力にはすばらしいものが感じられます。まさにボランティアの原点がここにあったかと思わせるものがあります。

そして、この項の最後の一文として、県内罹災者への対応について記されます。「自助・共助・公助」と言われるうち行政による支援、公助は京浜地区から避難してきた人たちへの対応で手いっぱいです。同県内で罹災した人たちは、自助と共助で自立への途を模索するしかなかったようです。

県内の罹災者に対しては、各郡長の指揮により炊き出しを行い、小屋掛けをなさしめ、修築材料を給与したが、幸い火災がなかったため、隣保相助の情誼により大体安定を見た。

「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行

隣保相助の情誼。隣近所が助け合う情け。決して悪い言葉ではありませんが、「大体安定を見た」といかにも簡単に書き記されている点は、ここまで県外からの避難者への対応を描いたのとは同一人物の筆になるとは思えないほど。「熱」がまったく感じられません。

腑に落ちないわだかまり

当時の埼玉県の人たちが、震災直後の京浜地域の人たちを意識した復旧、救助、支援を熱い思いで推進していたことが記事からはよく伝わってきます。

隣近所が互いに助け合った。自治体職員ではとうてい足りない分を、在郷軍人や青年団が頑張った。そこで思い出してしまうのが、震災時に起きた朝鮮人虐殺のこと。虐殺が行われたとされる場所には埼玉県内の地名もいくつか出てきます。また在郷軍人や青年団が、自主的に治安を守ろうとする活動をしていたことも伝えられています。

大災害が招いた大ピンチを連帯感を持って乗り越えようとする動きと、虐殺。この2つが同じ土地で、もしかしたら同じ集団の中で同居していたのだとしたら――。

関東大震災の記録や記憶から拭い去ることができない闇のようなもの。復旧・支援・復興への動きが輝けば輝くほど、わだかまりもまた大きくなってしまいます。

時間をかけて、資料に当たっていきたいと思っています。

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